

🇺🇸ロサンゼルス・タイムズ論説
「原爆を落とす必要はなかった」
広島・長崎への原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったとする見解が一般的なアメリカでは異例の主張です
人種差別という社会問題に再び向き合う自国の現況を踏まえ、負の歴史を見直すチャンスなのかもしれません。


「大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる」
「めちゃめちゃ真面目に返信してくださる人いますが冗談で言っています、あしからず」
OUT❗️👎

今回は、おそらく偉大な才能へのリスペクト、感動を表現したかったのでしょう。それは理解できますが…💧
乙武洋匡さん
「優生思想はなぜダメなのか?」
司法制度や人種、宗教など、日本独特の思考では通じないグローバル化が進んでいるのだと思います。
"罪を憎んで 人を憎まず"

人権への無知といえば、ヒトラーとナチス党による、ユダヤ人への執拗な差別と横暴が浮かびます。
ホロコースト(ユダヤ人虐殺)の実行責任者だったアドルフ・アイヒマン。戦後の裁判で彼が主張したのは"「命令」に忠実に従っただけ"ということ。
裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、その思考の欠如に衝撃を受け、こう指摘しています。
「善を為すとも悪を為すとも決めることのできない人間が、最大の悪を為すのです」(『責任と判断』筑摩書房)

では、私たちはどうしたら善悪を見抜けるのか。否、なぜ、善悪を見分けられなくなってしまうのか。

佐藤優さん
●「慈悲」について
釈尊(釈迦)の教団は一切の人を差別せず受け入れていたそうですが、たとえ数多くの人を殺した残忍な悪党であっても、改心して仏道修行に励むと誓ったなら、やはり、受け入れていたわけですね。
それは、いかなる人間も仏性を有していると見て、変化の可能性を信ずる、仏教の根本精神の表れでしょう。
私は仏典に説かれる※アングリマーラの物語を、現代に即して、また自分に即して捉えてみることも必要だと思います。
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※アングリマーラ

【鴦掘魔羅:おうくつまら】…釈尊在世の時代、多くの人を殺した極悪非道の盗賊。
アングリマーラ
「止まれ!」
釈尊
「アングリマーラ、私は止まっている。御身が止まれ」
アングリマーラ
「!?」
釈尊
「止まれと言ったのは足のことではない。命を奪うことに痛みを感じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったのだ」
アングリマーラ
「!!」
…アングリマーラは釈尊に出会い、仏教に帰依した。その後、釈尊はアングリマーラの悪行を禁止するだけでなく、"他者を救う善行"へのベクトルを示した。
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第一次世界大戦以降、兵器の性質が変わりました。それまでの兵器は、銃にせよ刀剣類にせよ、殺す相手が眼前にいました。自分が殺した相手が血を流し、苦しむ様子を、否応なしに目の当たりにしたのです。
しかし、第一次大戦以降の大量破壊兵器では、爆撃機やミサイルによる空爆のように、相手が苦しむ姿を見ることなく大勢の人を殺すことができるようになりました。これは、殺人という行為の根本的転換でもあったのです。
21世紀になると兵器の進歩はさらに進んで、エアコンの効いた基地の一室から1万キロ離れた地に無人航空機(ドローン)を飛ばし、ボタン操作でそこから空爆する、などということができるようになっています。これが恐ろしいのは、他者の生命を奪う実感がまったくないまま殺すことになるからです。
🇺🇸RQ -1(無人機)
兵士として軍事攻撃を行うことと、アングリマーラのように強盗殺人を繰り返すことは、もちろん次元が異なります。しかし、人を殺すという行為の本質は変わりません。
グローバル時代ですから、我々が日々の生活で食べている物や手にしている物は、遠く離れた国で生産されている場合も多いわけです。なかには、現地の人々を虐げ、搾取する形で生産されたものもあるでしょう。
しかし、我々にはその行為が見えません。それを飲み食いしていること自体、間接的ではあっても、虐待と搾取に加担する行為でもあります。殺人ほど重大な行為ではないにせよ、私たちはある意味で自らも"アングリマーラの側"に立っているとも言えるのです。
途上国の農民からの搾取も一種の「構造的暴力」であって、なるべくそれに加担しないように意識し、自覚することが大切なのです。また、ジャーナリズムの使命の一つは、我々が知らず知らずのうちに構造的暴力に加担していることを知らしめることだと思います。
私たちキリスト教徒が聖書に向かう姿勢もしかりですが、仏典を読む時、そこに書かれたことを「自分ごと」として捉える視点が必要なのだと思います。それを可能にするのが想像力であり、相手の気持ちに立って考えることが「慈悲」の出発点なのです。
●浄土宗(法然)、真言宗(空海)の誤り
仏教の 「永遠の法」「永遠の仏陀」が円融円満な全体観であるとすれば、阿弥陀如来(浄土宗)や大日如来(真言宗)といった架空の仏は、あくまでも偏った部分観にすぎません。
「彼岸性/此岸性」の二分法で捉えるなら、永遠の法、永遠の仏陀には、彼岸性と此岸性が具わっており、2つを往還していると捉えられます。それに対して、阿弥陀如来や大日如来への信仰には、彼岸性しかないわけです。
遙か彼方の世界にいるという架空の仏に「救ってもらう」のみの信仰であり、目の前の現実の生活をよい方向に変えていく力にはなりにくい。それは信仰のありようとして、やはり偏った部分観としか言いようがないのではないでしょうか。
彼岸性と此岸性の両面を持ち、両者を往還するのが世界宗教の特徴の一つであるので、阿弥陀如来や大日如来への信仰は、世界宗教にはなり得ないと思います。
●浄土真宗(親鸞)批判
親鸞的な「絶対他力」の教えは、一見穏健なようでいて、実は危険性を孕んでいます。戦前・戦中の親鸞主義者たちが天皇制と結びついたとき、超国家主義者に変貌して危険なテロリストになってしまったのです。
なぜそうなるかといえば、「すべてを阿弥陀如来に委ねればよい。自分たちは何もする必要はない」という姿勢は、ある意味で現実の為政者たちに白紙委任状を渡すに等しいからです。
なぜなら、「私たちの信仰は浄土と来世にのみ目を向けるもので、現世については他の人たちにお任せします」と言うようなものだからです。
白紙委任状だからこそ、現実の生活の中で天皇主義者と出会い、その人から強い感化を受ければ、あっさり天皇主義に染まってしまうわけです。
つまり、政治に無関心な姿勢を示す宗教も、政治と無関係ではいられないということです。政治に目を向けられないからこそ、他の人たちの政治性にたやすく影響され、逆に政治的になってしまうケースがあるのです。
こんなことを言ったら真宗の人たちに怒られると思いますが、私は阿弥陀信仰こそ、「宗教は民衆の阿片である」としたマルクスの定義にぴったり合致した宗教だと思います。目の前の現実から目をそらさせ、とりあえずの安心感を与える宗教なのですから…
阿片(覚醒剤の類い)に酔っていれば、とりあえずその間は幸福感が得られるでしょうが、それは現実を1ミリも変えることのない刹那的な幸福感でしかないのです。
大きな悩みがあったとき、前後不覚になるまでお酒を飲めば、とりあえず悩みは心から消えます。しかし、酔いがさめれば悩みはそのままそこにあります。阿弥陀信仰がもたらす救いの感覚は、それに近いものではないでしょうか。
●「人間以上」という愚かさ
パスカル
「人間は、天使でも獣物でもない。不幸なことは、天使を気取ろうとする者だけが、獣物になり下がってしまうことだ」
ヒトラーやスターリンは、自らが握った独裁権力によって、自分を「人間以上」に見せかけたわけですね。
21世紀には、そのような独裁者の神格化は起こりにくいでしょう。その代わり、AIなど、今は別の形で「人間以上」の追求が始まっています。
たとえば、イスラエルの歴史学者ハラリの著作 ※『ホモ・デウス』は、人間がAIやバイオテクノロジーなどの進歩によって、人間以上のものになろうとする未来を描いたものです。
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🔻35カ国以上、累計400万部突破
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「ホモ=人間」「デウス=神」ですが、未来世界においては、一部の富裕層が自らを改造して神に近づいていく、とハラリは予測します。
「神の人」は、死の恐怖から自由になろうとして、金に糸目をつけずに最新テクノロジーで身体改造を繰り返し、不死に近い長寿を得ながら、彼らは皮肉にも、我々より強烈な「死の恐怖」に怯え続けるわけです。
結局、生死観そのものの根源的転換がない限り、死の恐怖は克服できないわけです。仏教で説かれる「涅槃 ー Nirvana」は安らかな悟りの境地であるわけですが、凡夫の目からは単なる死にしか見えません。それと同じで、どういう生死観を持っているかによって、死の捉え方・見え方も変わるわけです。
『第三文明 』3月号
連載「『法華経の智慧』を読む」