🇯🇵篠塚建次郎
【1948 - 】
「全日本ラリー選手権」2連覇。
1976年
その後の活躍が期待されたが、オイルショックの影響で、三菱がラリー活動を自粛。母親と二人暮らしのサラリーマン生活を送ることになる。
1978年
若き冒険家🇫🇷ティエリー・サビーヌの提唱により"世界一過酷なラリー"「パリ・ダカール・ラリー(通称パリダカ)」がスタート。
1983年
1985年
「日本人ドライバーで優勝を!」の声に白羽の矢が立ったのが、三菱の販売促進部のサラリーマン"ライトニング・ケンジロウ"こと篠塚建次郎。アフリカ大陸を縦断、20日間で1万kmを走破する冒険ラリー、パリダカへの挑戦は37歳から始まった。
1986年
篠塚は総合優勝を狙う「プロトタイプ」ではなく、「市販車クラス」でパリダカ初参加。完走は果たせたが、総合順位は46位。
🇩🇪PORSCHE 959
この年に優勝したポルシェにより、パリダカにはスピード化の波が押し寄せていた。
1987年
篠塚は「プロトタイプ」パジェロでパリダカ初挑戦。前年落ちの車ながら3位入賞の快挙。
プジョー・チームの最強タッグ。エース・ドライバー"砂漠のライオン"🇫🇮アリ・ヴァタネンと、名将🇫🇷ジャン・トッド。トッドは4戦4勝でパリダカを去り、その後F1フェラーリ・チームを率いることに。
コ・ドライバー(ナビゲーター)の🇫🇷フヌイユ、チーム監督の夏木陽介、篠塚で歓喜の祝杯。僅か14分のタイム・ロスによる10時間のペナルティーがなければ優勝だった。
この年、3位入賞を誰よりも喜んだ篠塚の母親が急逝。俳優・三浦友和の姉・ひろ子さんと結婚を決意。心機一転、パリダカの頂点を目指す。
1988年
人気が加熱するパリダカ。三菱の海外営業部のサラリーマンながら大激闘。篠塚が惜しくも2位。
1989-90年
毎年、常に上位入賞の安定した走りの篠塚。
あと一歩、優勝の期待が高まるも市販車ベース車の限界を知る。
🇫🇷PEUGEOT 405, 205
1991年
三菱は新型プロトタイプ・パジェロを投入。プジョーを引き継いだシトロエンに対し、互角以上の戦いを展開。
しかし、チームメイトが初期マシントラブルで遅れ、篠塚は、いつも以上にアクセルを踏んだ。高速でジャンプ、大転倒で初リタイア。九死に一生を得た。
🇫🇷CITROËN ZX
ライバルは、WRCとパリダカ両王者🇫🇮ヴァタネンをはじめ、ル・マン6勝の🇧🇪ジャッキー・イクス、WRC王者🇸🇪ビョルン・ワルデガルドなど豪華な顔ぶれ。
1992年
遂に王者シトロエンを駆逐し、三菱パジェロが1、2、3位を独占。三菱の優勝は5年ぶり。
篠塚はチームプレーで3位を堅守。
1991&92年
1993年
シトロエンを引き離し、三菱パジェロがパリダカ2連覇。篠塚はチームメイトのアシストに徹して5位。
1995年
白熱するパリダカはシトロエンと三菱の一騎打ち。
順調な篠塚はトップに躍り出るチャンスを、まさかのフランスのマスコミ・ヘリによる妨害工作に嵌り、悔しい3位。
1996年
プロローグで1位と、例年以上にハイペースの篠塚だったが、アフリカ大陸に入った早々にクラッシュで後退。チームのアシストに徹した。
🇫🇷CITROËN ZX
かつて三菱チームのエースだった🇫🇷ピエール・ラルティーグが最大のライバルに。
相棒の🇫🇷アンリ・マーニュ、篠塚、2位の🇫🇷ジャン・ピエール・フォントネと万歳。
1998年
チームメイトのフォントネに優勝を譲るも篠塚はパリダカ2位。健在を示した。
2002年
パリダカ優勝目前のプレッシャーと闘う後輩、増岡浩を励ます篠塚。増岡は長年、篠塚の背中を追いかけてきた。
篠塚は、2002年大会をもって三菱を退社。増岡は、2002&'03年にパリダカ2連覇を成し遂げた。
40周年を迎えるダカール・ラリーの歴史の中で、日本人優勝者は、篠塚、増岡の2人のみ。
2007年
58歳、パリダカ初参加から連続21回目にしてラストラン。日産から出走し、5年ぶりに完走、有終の美を飾った。
2008年
母校の東海大学に協力し、ソーラー・カー国際大会で4連覇。
2014年
「ソーラー・カーによる世界最高時速」ギネス記録を達成。
2015年
2016年
2017年
AXCR 3度目の挑戦。中央自動車大学校(CTS)の学生による手作りラリー・カー。
ボンネットには製作に携わった学生20名の名前が 。メカニックとしても現地に帯同。
68歳のエース・ドライバー。篠塚はパリダカの"レジェンド"として迎えられている。
🇹🇭タイ王国で行われるハードなラリー。2.8Lディーゼル・ターボの大型ハイパワーのワークス勢を相手に、篠塚は1.6Lの小型ジムニーで戦う。
クラス3連覇を達成。総合8位と安定した力を発揮。
💁🏻♂️おまけ↓
1/43 ミニカー