今日は抽象的な内容かもしれませんです・・・。

 

 

諺に 仏作って魂入れず ってぇのがございますね。

(一番肝心なものが抜け落ちている喩えです)

 

※画像はお借りしました

 

 

この諺が言わんとしていることはよ~~~くわかります、理解できます。

同時に、形あるところに魂って入るんじゃないでしょかね。

 

 

健全な肉体に健全な魂ってやどります。

五体満足かどうか、のことではなく、

じぶんを大切にしている身体のほうが

徳の高い、成長しやすい魂になりやすい

のじゃないかしら?って思うです。

 

 

らせん美 のことをいろいろ学んでいて、

じぶんの好きな覚え方があることに氣づきました。

(再確認と書いたほうがより適切かも)

 

 

教えてもらった形をまず教わったまま

覚える努力をいたします。

 

 

 オリジナルを踏襲

 

 

です。

 

形 とは 型 です。

 

 

ひたすら型をじぶんのものにすべく

反復練習をします。

 

 

繰り返すことでしか身体は動きを覚えませんので^^

この時は意味を考えません。

 

 

型がじぶんに馴染んでくるころ、

もしくは型の動きをしていない時間に

 

 

 どうしてこの型(形)なの?

 

 

問いをはじめます。

 

 

この型はすでに完成しています。

なぜ、完成した形がこれなのか?と

動きの理屈を考えます。

 

 

こういうことかしら・・・

ああいうことかしら・・・

あーでもない、こーでもない・・・

(この考える行為がだいすきなのです)

 

 

このときの氣持ちって、腸のふしぎ を

追っかけているときとおんなじです。

 

 

わたくしはらせん美を学ぶものであり、

腸もみを学ぶものであり。

 

 

学ぶ“者”である“だけ”です。

らせん美(酒井先生)そのものでもないですし、

腸そのものでもないのです。

 

 

腸の場合、「今、〇〇の状態なので、◇◇してほしいの」のような

口をきいてくれるわけではありません。

 

 

わたくし(学ぶ者)は、腸になったつもりで、

アレやコレを考えます。

腸に寄り添うというか、共感というか、

腸そのものになる氣持ちで、腸のことを考えます。

 

 

腸(人間の内臓たち)は完成形です。

そこにいるだけ、あるだけで、美しくパーフェクトです。

それがなぜ、トラブルが起きてしまったのか、を

日日のお勉強と実践から紐解くように考えるのです。

 

 

らせん美 を学ぶときもおなじような感覚になります。

アレやコレを考えるクセがついているのでしょうね。

 

 

じぶんに起きている現象(これまでの身体の遣い方)と

目指す方向性・完成形(らせん美)の狭間になにがあるのか。

 

 

この狭間、溝 を埋めるのに大いに役立つのが

chiakiちゃん から折りに触れて聞く、

酒井先生のふとした発見&発言

「あら、そういえばわたくし・・・」のお話と、

武道、武術の考えと、ピラティスのN先生から教わる

生理解剖学及び身体の遣い方です。

 

 

いろんなことをミックスしながら考察や推察、憶測して、

「だから あの型(らせん美)の動きをしているのでは?」

とじぶんなりにできたイメージを創りあげてゆきます。

 

 

わたくしはただ型を淡々と行なうより、

イメージしながらするのが好きです。

 

 

イメージ(本質はなにか?を想像すること) × 正しい型(形) 

イメージするためには、日日のお勉強と好奇心と知識が要ります。

正しい型 を覚えるには、師の存在が必要です。

 

 

アラフィフが近づいている今でも、

毎日が知らないことだらけです。

知的好奇心がくすぐられます。

 

 

学びの機会と出逢える度に、

あ~、この世に生まれてきてホンマよかったゎ~と

大げさではなく思うのです。