最愛の父① | おいしい*かわいい*たのしい〜akitchenマノコロCafe*

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おいしい、かわいい、楽しい事が大好きな5人家族の母ちゃん。おうちごはん、お弁当、スイーツ、パンをせっせと作るアキッチンの日記です☆

お久しぶりです。

 
*akitchen*です。
 
長い間ブログ更新も、お料理教室のレッスンも出来ずにおりました。
 
 ちょうど1ヶ月前
9月10日に最愛の父が、膵臓癌のため、永眠致しました。
 
今日は父の話になります。
とても長文になります。
 
まだ、父の話をすると涙が出てしまいますが、
私のブログを楽しみに読んでくれていた父。
子供たちの成長や、本にレシピが掲載されたり、お料理教室開催など、誰よりも喜んでくれていたので、ブログに綴らせていただきます。
 
 
ちょっとしたことだと、なかなか照れて連絡が出来なかった父と娘。
ブログで、私の近況を知っては、短いながらも電話をくれ、「頑張ってるな〜無理しないで頑張れよ〜」と言ってくれていました。
 
埼玉で単身赴任していた父。
 
私が高校1年の時から単身赴任。
 
 
子供の頃は、仕事で帰宅は夜の10時や11時。
私や妹が寝静まってから帰ってくるという生活でしたが、休みの日は本を読んでくれたり、リカちゃんのお洋服を作ってくれたり、シルバニアファミリーのお家を作ってくれたり。
 
朝、一緒に少し離れた公園までジョギングしてそこでジュースを買ってもらい、飲んでまた走るという日課もありました。
 
今思うと、どんどん出てくる楽しい思い出ばかりです。
 
 
そんな父が5月の末に夜中、何度も吐いて、病院に行ったそうです。
 
高血圧ではあったのですが、今まで風邪らしい風邪も引かず、一度も入院すらしたこともない健康な父でしたが、その場ですぐ大きな病院を紹介されました。
 
翌日、大きな病院に行ってみると、即入院するように言われました。
 
埼玉の大きな病院です。
病室の窓からはのどかな風景が見える、綺麗な病院でした。
 
とにかく黄疸がひどいからと、始めは薬で出そうとしたのですが、それでも状態が良くならないので、入院して2週間くらいしてから脇腹からチューブを出して胆汁を外に出す処置をしました。
 
体に穴を開ける事すら初めての父は、
手術したー
手術したーー
痛いよーーー
と言っていましたが、
 
病院側は
「あっ処置ですね!」とキッパリ。
 
 
その後、何故か一度退院を勧められました。
理由は思い出せませんが、
一度会社にも行きたいですよね?
手術の前に数日退院しましょうと。
 
手術も初めてだし、長時間の手術になると、私も東京の妹の家に泊まらせてもらい、埼玉に駆けつけました。
 
東京に行く前日に、予定の手術は無くなりました。
膵臓癌ステージ4b。
手術は出来ません。
肝臓に転移しています。
 
 
本人目の前にして、残酷な宣告を受けました。
 
その後、父のいない所で、余命は1年。
抗がん剤が効けばもっと伸びるかもと。
 
 
予定の手術は無くなりましたが、胆管にステントと言うネット状の管を入れる手術をする事になり、私も予定通り行く事にしました。
6月末です。
父の元気な顔を見たいと。
 
 
子供たちを置いて行きましたから、数日の滞在でした。
 
その間に何とか主治医の先生とお話をしたかったのですが、なにやら先生は忙しいらしい。
看護師さんに何度も聞きたいことを伝えたのですが、病院の連携がとれていないのか、私が滞在中、先生に会えたのは5分くらい。
病室に来てくださいましたが、父を目の前にしては出来る話も聞きたい話も出来ません。
 
医学的知識のない私は聞きたいこと、今後の事も聞きたかったのですが。。。
 
 
結局、よろしくお願い致しますとご挨拶くらいで終わってしまいました。
 
セカンドオピニオンも考えてますと先生にお伝えしておりましたが、とにかく、父は北海道に帰りたがっていました。
膵臓の名医がいる札幌の病室に転院したい旨伝えました。
 
 
その後、何処からか出血していると、何時間もかかる輸血を何度も行いましたが、その説明は家族にはありませんでした。
 
父が口止めをしていた可能性もありますが。
 
 
私が行っている数日の間は、昼か夜ご飯を共にデイルームで取りました。
 
「食べたいものはある?」
 
「てりってりのハンバーグ‼️」
 
即答でした。
 
東京の妹の家まで2時間かけて帰り、途中で買い物をして、父の食べたいものをいくつか作りました。
 
てりってりのハンバーグでは無いけれど、大豆の入った栄養たっぷりのトマト煮込みハンバーグ。
 
他にも野菜をたくさん使ったサラダを何品か作り、翌日持って行きました。
 
あまり食欲が無かった父でしたが、
野菜嫌い父には、癌に勝ってもらうために、無理に一口でも!と言っては食べてもらいました。
 
んーーー
と、照れ隠しに嫌な顔して見せながらも食べ、家族で楽しく食事をしました。
 
 
父はこの家族での食事を楽しみにしていたようでした。
電車の事故で私達の到着がかなり遅れた日、デイルームに自分の食事を持っていってもらい、私たちが着くまで1時間以上、1人座って待っていました。
 
せっかちの父には考えられない事です。
多分、人生で1番待たされたのではないかな?
 
 
翌日は二子玉川の高島屋でシュウマイなど買って行きました。
 
崎陽軒のシュウマイに、名前は忘れたけれど、小ぶりの二口サイズくらいのお稲荷さん。
 
この日は結構食べました。
シュウマイもお稲荷さんも父の大好物で3つくらいは食べ、また、明日も食べたいな〜と言っていました。
 
翌日は網走に帰る日で妹の旦那さんが車を出してくれたので、片道2時間の電車移動はありませんでした。
病院の近くのイオンでシュウマイと小さいお稲荷さんをまた、買いました。
 
が、イマイチ。。。
 
やっぱ高島屋は違うんだね〜
二子玉は違うんやね〜
 
とまた、楽しくデイルームで会話しました。
 
食事も終わろうかという時に、
急に知らない看護師さんが来て、
 
「ここで食事しないで下さい!」
 
他の患者さんの迷惑になるのなら、
最終日最後の最後にではなく、初日に言って欲しかった。
食事してもいい場所を教えて欲しかった。
デイルームに食事を運んでくれていた看護師さんに初めにいってもらいたかった。
 
 
父の前では言わないで欲しかった。
 
大丈夫です。
私、今日帰りますので、明日からは家族で食事取りませんから。
 
 
気使いの父は、その後気に病み、ごちそうさましてしまいました。
その日は笑顔が無くなりました。
 
 
今思えば、これが最後の家族での食事になってしまいました。
 
 
そんなこんなで、入院したのが6月6日。
7月の末になるまで、癌に対して何もアプローチしてもらえず、癌がどんどん進行してしまうのでは?と、埼玉の病院で抗がん剤治療を始めて下さいとお願いしました。
抗がん剤を始めれば、副作用が起きるから、また、北海道への帰宅は先になってしまいますが、それどころでは無い。
が、言った瞬間、バタバタと転院先の病院に電話をしだしたのです。
 
1ヶ月前には、転院先の病院名は伝えていたのに、急に転院手続き。
こういうものなのでしょうか。
 
私が埼玉から帰った後、食事も取れなくなり、メイバランスという、飲み物だけを口にする毎日になりました。
 
普通にスーパーで売っているものです。
 
それだけでは、体力が落ちるのは目に見えています。
 
 
7月末、
飛行機は無理だからと、妹に付き添われ、車椅子も借りて、開通したばかりの北海道新幹線で何とか帰宅しました。
思いがけずの新幹線。
しかも、1番ゆったりできるなんちゃらシートです。
食事も出て、飲み物も飲み放題なのに、何も口に出来ない父は、食べれないメニューを穴が開くほど見ていたそうです。
 
函館までは、旭川に住む母の姉夫婦に車で迎えに来てもらいました。
 
函館から札幌までの車内で父は、叔父の顔を見て、北海道に帰ってこれた嬉しさや、楽しかった思い出などがこみ上げてきたのか、涙していたそうです。
 
 
夜中の12時頃に自宅に戻ってきました。
 
翌朝早くから転院先の病院に行くので、束の間のの自宅。
体調は優れず、仮眠程度しか出来ていなかった様でした。
もちろん、私も網走から札幌に帰って来ていました。
父の笑顔が見たかったから。
 
 
翌朝、病院に行く途中の車の中で、
「食べれる様になったら何が食べたい?」
また聞いてみました。
 
「てりってりのハンバーグ‼️」
自分で言うのは恥ずかしかったのか、
妹に言わせていました。
 
診察後すぐ入院の手続き。
 
レントゲンを撮り、手術をしたら食べれるようになりますよ。その後抗がん剤治療をしましょう‼️
頑張りましょう‼️
 
詳しい病状や今後の見通しの説明を丁寧にしてくださいました。
 
 
埼玉で入れたステントはもっても1ヶ月くらいのものらしく、交換する事が前提の物でした。
交換のたびに体を傷つけるのは父に取ってはよくないと、胆嚢、肝臓、腸をそれぞれつなぐバイパス手術をしました。
 
6時間くらいの手術で、麻酔の効きが悪かったらしく、術後はかなり痛みがありました。
 
合う痛み止めが見つかるまで、数十分おきに痛みがきては叫んでいました。
 
そんな父を見たくないと、母は帰りたがりました。
 
私は、強く手を握っていました。
父の手を握るのはいつぶりかな。
 
私が10年前くらいに手術した時、義理の母がずっと手を握ってくれていた事を思い出し、とても嬉しかったから。。
 
これで、食事が出来る!
 
物が食べれれば体力も付いて、次は抗がん剤が出来る!
 
パパ頑張れ!
 
食事が出来れば、免疫力も上がるから、孫たちにも会えるよ!
 
ですが、2ヶ月も何も食べていない体はなかなか食事を受け付けてくれません。
 
すこーしだけ納豆ご飯や、梅干しご飯を食べれるようにはなり、母も病院に父の食べたいものをほんの少し持っていくようになりましたが、それも2週間も経つと、また、食べれなくなってしまいました。
 
食べ物を食べると吐いてしまうようになり、それを繰り返しているうちに、食べ物を見るだけで吐き気を起こすようになったのです。
 
 
皆んなで色々調べました。
藁にもすがる思いになるのは、癌を宣告された家族になって初めて知った思いでした。
 
やはり母は、変な民間療法にも引っかかりそうになりました。
 
とにかく、癌を小さくしなきゃ!
 
小さくなれば、もしかしたら手術出来るかも!
 
その間に特効薬が出来たり、
ナノロボットが体内に入れれるようになるかも!
 
 
が、この頃には食事だけでなく、病院で出される飲み薬すら口にできないようになっておりました。
 
 
 
8月の末あたりから、母だけ父には気付かれずに病院にきてください。
そう言われるようになりました。
 
腎臓の数値が悪すぎて、機能が低下し過ぎてて、
もう、抗がん剤も出来ません。
 
父には、まだ、癌の痛みが出てなかったので、
食べれるようになれば、抗がん剤ができる。
父も希望をもっておりました。
 
が、
それも出来ないと。
 
 
転院した病院では、もう出来ることが無くなりました。
 
食べることも、飲むことも出来ず、ただ、栄養の点滴をしているだけ。
退院を提案されました。
自宅看護にしては?と。
 
 
一度、外出して自宅に帰ってみることになりました。
 
外出の前日、夜中に高熱が出ていたらしいのですが、そのまま家に帰って来ました。
 
父は、朝早く、病院を出ました。
病院の前にタクシーがいなかったからと、徒歩5分くらいの駅まで歩き、そこからタクシーに乗ったそうです。
 
 
後からその話をきき、
もう!どうしてそんなことしたの!
と、思いましたが、
久しぶりの外の空気。
おうちに帰る。
お天気もいい。
 
気持ちよかったのでしょうね。
少し歩きたい気持ちになったのは分かりました。
 
 
しかし、やはり、高熱が出てしまい、予定時刻よりもかなり早く病院に戻ることになりました。
 
感染症を起こしていたのは、後から聞かされました。
 
この頃から
母は緩和ケア病棟がある病院に転院させようと考えていました。
父にも、精神的ケアもしてもらえる病院の話をしたら、かなり乗り気になりました。
使える薬の、種類も増えるらしい。
 
また、転院です。
 
緩和ケア。
 
話を聞いた時に、母に
それでいいの?
と、思わず言ってしまいました。
 
私の中で緩和ケアは、もう何も出来ず、治療をしない選択をした人が行く所だと思ったから。
 
まだまだ、やれることはある!
癌になんか負けない!
 
そう思っていたから。
 
 
が、今の病院ではやれることが無くなってしまった以上、どうにか前に進まなきゃ!
 
次の病院に電話をしたら、とても優しい口調で丁寧に話を聞いてくれたそうで、1度病院に来てくださいとなりました。
 
が、予約制で2週間後。。
 
長い…
 
とても、2週間が長い。
 
 
ですが、初めから緩和ケア病棟ではなく、まずは、一般病棟にとの話をして下さり、嬉しく感じました。一般病棟なら、治療ができるから。
 
それぞれの病院のケースワーカーさん同士で連絡を取り合って下さり、その返事を2週間待ちました。
 
その間、せっかちな父は、
まだ、転院の話は進んでないのか?
ちょっと、ケースワーカーさんに聞いてきてくれないか?
 
と、転院したくて、そわそわしていたそうです。
 
あと1週間もすれば予約の日にちだ!
 
そして、また、母が内緒で呼ばれ、
来週中には娘さん達を呼んでください。と。
 
 
そんな話を、泣きながら電話してきた母。
 
 
まだ、痛みが出ていないのですが?
 
そこまで癌は酷いのでしょうか?
 
思えば6月に撮って以来、一度もCTを撮っていません。
腎臓の数値が悪いので、造影剤が使えず、CTを撮れていませんでした。
癌はどれだけになっているのか、分かりませんでした。
 
食べれてはいないけど、
体力が落ちて、すぐ疲れちゃうけど、
普通に会話は出来ます。
 
ただ、この数日で、急に体調は悪くなりました。
 
 
数日後から痛みが出始めました。
 
痛くて痛くて、
痛み止めを何度も頼みました。
 
痛くて痛くて、
死んでもいいから痛み止め打ってくれ!
そう叫んでいたそうです。
 
 
妹は3日後の飛行機を取りました。
私は、2日後のバスを取りました。
 
が、それを母が父に伝えたら、
来るな!
来ても会わん!
子供達もいるのに!
 
と怒り出したそうです。
 
せっかちな上に、頑固な父。
言い出したら止まりません。
 
 
父にしてみては、
急にみんなが集まるのは何故だ?と、逆に不安になったのかもしれません。
 
私なら勘ぐってしまうでしょうから。
 
バスは更に2日後に伸ばしました。
気持ちが少し落ち着いてくれるかなと。
 
 
札幌に着き、そのまま父の病院に向かいました。
 
父は1ヶ月前にあった時よりやつれていました。
そして、家族4人でゆっくり話をしました。
 
「そっか〜2人ともきたか〜」
「退院したら、パパ、また、働くからな〜」
「また、みんなで温泉行こうな〜」
 
痛み止めが、ちょうど効いてきた時だったので、
みんなで行った旅行が楽しかったね〜と家族で話をしました。
 
来るな!と怒鳴っていたのは嘘のように、喜んでいました。
 
最後には父のおきまり文句
「ママを頼むな〜」
 
単身赴任の父は、赴任先に戻る時には、必ずこの言葉を私たち姉妹に言っていました。
 
「ママを頼むな〜」
 
そしてこの日はその後に
 
「ありがと〜ありがと〜」と、涙していました。
 
 
翌日
やっと約束の2週間が経ちました。
母と妹と私の3人で新しい病院に話を聞きに行きました。
 
母1人だと、辛い話をされたら、そのあとの話が頭に入ってこないから。
母にも支えが必要でした。
 
新しい病院には1週間前のデーターが届いていました。
先生が見て、食べれない原因は腸閉塞を起こしているからだと、初めて知りました。
 
今、入院中の病院では、手術したから食べれない事は無いんですがね〜
と、ずっと言われていて、頑張って食べるんだよー!と励ましていたのです。
 
が、腸閉塞起こして、食べ物が全く入らなくなっているため、口にした物を全て戻してしまうんですよ。
丁寧に優しい口調で説明してくださいました。
 
そうか〜
今は無理に食べさせちゃいけないんですね。
 
今の病院は、癌しか見ていないので、何も出来ないですが、当院では、体全体の調子を整えるようにしていきますので大丈夫ですよ。
きっと、ハンバーグも、食べれるようになりますし、きっと温泉にも行けるようになりますよ。
 
目の前で、入院中の病院の主治医の先生に電話して下り、翌日転院、救急車も手配して下さいました。
 
今まで、後手後手で、いつも何週間も待たされていた私たちは、素早い対応にとても安堵しました。
その後の看護師さんの話し方がとても優しく、私たち3人の悲しみと疲れで固まった気持ちが少しほぐれました。
 
まだまだ諦めない!
少し明るい先が見えたね!
 
3人でランチをしてから、父の病院に伝えに行きました。
 
 
父もその報告にとても喜びました。
 
スマホも、テレビも、見る元気が無かったのに、急にリモコンを持ち出して、テレビをつけようとまでしました。
 
気持ちが明るくなったのでしょう。
 
リモコンの使い方が分からなくなっていました。
 
テレビはつけてあげましたが、
あまり見ていませんでした。
 
そろそろ帰ろうか?
母が言いました。
 
いつもなら、もう、帰りなー!
 
と言う父でしたが、この日だけは、
「もうちょっといろ〜」
 
と、言うので、もう少し家族で過ごしました。
 
 
翌朝、病院に向かいました。
 
今日は救急車でやっと転院だよ!
パパ、喜ぶね〜!
いい先生だったよね♪
 
病室のドアを開けると、朦朧とした父がベッドで寝ていました。
 
どうやら、移動するにあたり、昨晩から痛み止めを倍以上の量にしているのだと聞きました。
 
全く会話は出来ません。
 
 
救急隊員さんが、来て、ストレッチャーに移動したあと、孫達の写真のキーホルダーをもたせてあげました。
まのたん達が守ってくれるよ!次の病院では子供の面会が出来るからね!頑張るんだよ!
 
父は朦朧としながら、キーホルダーを握りしめました。
 
 
救急車にはドクターと、看護師さんと母が同乗しました。
 
途中、道が悪く、キーホルダーを落としてしまったそうです。
 
朦朧としていた父はキーホルダーの存在すら気付いていないようでしたが、暫くして、慌てて探す素振りをしていたそうです。
埼玉で入院してからずっと、子供たちに会いたがっていました。
転院したらやっと会えるね。
 
移動中、何があるか分からないと聞いておりましたが、無事に転院先に着くことが出来ました。
 
 
個室に案内され、レントゲンを取りました。
 
担当の看護師さんが1番にしてくれたのは、歯磨きと髭剃りでした。
 
父はスッキリしたのか、いい顔で寝ていました。
 
 
その後、もう少ししたらCT撮りますと説明を受け、暫く待っていました。
あれ?CT撮れるんだね。。
 
急に痛み止めを止めに、別の看護師さんが来ました。
 
私たちの心配が顔に出ていたのでしょう。
 
その後、違うお薬に変えますから心配しなくて大丈夫ですよ。と笑顔で話してくれました。
 
そして、主治医の先生からのお話がありました。
 
 
腎臓の数値が1週間前よりはるかに悪くなっていて、もう、オシッコを作ることも出来なくなっています。
尿量が減り、ずっと点滴で入れていた栄養や水分はオシッコとして膀胱に貯められていると思っていましたが、膀胱にはオシッコがありません。
 
数値で言えば、人工透析をしなくてはいけないくらいの値です。
が、今、透析をするような状態ではありません。出来ません。
そして、もう、これ以上、体内に水分を入れてはいけない状態です。
 
ずっとしていた痛み止めは腎臓に負担をかけるものでしたので、腎臓に負担のかからないものにかえますね。
 
もしものことがあった場合、心臓マッサージなどの蘇生行為、延命行為はどうされますか?
 
 
 
病室に戻り、違う痛み止めに変えてもらい、その他の点滴は全て外されました。
 
父は意識を少し戻し、点滴するなら、今なら調子いいから、して。と言っていました。。。
 
妹は隣で涙を溜めていました。
 
 
昨日、まだやれることがあると、期待して来た分、落胆が隠せません。
 
父に点滴を外した理由を言うことが出来ませんでした。
 
そうだね。
 
そうだね。
 
今、点滴の準備してるのかもね。。。
 
 
そして、父はまた寝ました。
 
 続きは⇨最愛の父②