兵庫県知事選挙については「地元民の決めること」と我関せずの姿勢ではいたが、それでもおかしな連中に支持される候補が当選しなかったことは良かったように思う。

 

 興味深かったのは、若い層ほど斎藤元彦への支持が高かったという点。

「SNSなどネットで“じつは斎藤は悪くない”という言説が広まって、それが投票結果に反映された」との論説を多く見かけ、たしかにそれはあったと思うが、それだけでもないのではないか。

 

 兵庫県知事選中、少なくとも私のXのタイムライン上では「斎藤支持」と「斎藤批判」は同程度にあったように思う。

 まあ私が左右両論を俯瞰するために、左派系インフルエンサーをあえて2人ほどフォローしているせいもあるのだが、斎藤を支持する側も「パワハラ&おねだり疑惑」「職員自死への関連性」を完全否定するというよりは「こういう政策を行い、それで既得権益層からの反発を受けている」という物言いのものが多かったように思う。

 

 だから若者の多くが斎藤支持に回ったのは、単純に「斎藤支持」の声に流されたというものではなく、「斎藤と比較したときに、他の候補が気色悪すぎる」というのがかなりの割合であったように思う。

「こんな連中に支持されている候補なんて、きっとロクなもんじゃない」「この候補を支持することで、その支援者たちと同列にはなりたくない」という。

 

 

 

 私が若い頃、若者は左派思想に傾倒するのが当たり前のことだった。

 そりゃあそうだ。

 これから社会に出ようという時に、既存の社会における支配的な層などは邪魔者にしか感じられない。

 それに取って代わろうというのが若者の気概であり、無知だからこその特権だ。

 

 そうすれば当然、左派的な考えに片寄りがちになるもので、私も大学生の頃には日刊ゲンダイを毎日のように購読し、左派言論人の書物を愛読していたものだった。

 

 それが今、若者たちが左派離れをしているのはどういうことなんだろうかと考えるに、左派連中がかもしだす「特権階級的な雰囲気」が気に入らないんじゃないかな。

「私たちの言うことが正しい」「これがわからない者は社会の奴隷だ」みたいな物言いを見て「なにを偉そうに」と反発する。

 

 たしかに考えてみれば、私の若かったころの左派連中は、もちろん現体制への批判もしていたが、そこに加えて「だから我々はこのような活動をする」というのが付いていた。

 

 阪神淡路大震災の被災地に自ら足を踏み入れ、ボランティア活動をしながら政権や既存の体制を批判していた田中康夫のように。

 論を垂れるにしても、きちんと裏付けとしての古典学説などがあった。

 そう考えてみると、共産党よりも山本太郎の人気が高まっているのも、共感こそしないが理解はできる。

 山本太郎はどうであれ、動いている(ように演じている?)からね。

 

 だがXなどを見れば、何の裏付けもなしに己の感情でつぶやいているヤツらばかり。

 裏付けとして出してくるのが左派メディアの記事だったりするのだから、どんなマッチポンプだよという話だ。

 

 それなのにどこか権威的な雰囲気を出しているのだから、そりゃあ反発もしたくなる。

 

 もちろん右派だって、感情のままにつぶやいているものがほとんどなんだが、そこの基本のところに「日本はすばらしい」などの肯定感があるのが左派との大きな違いだろう。

 

 ともかく、左派連中は偉そうなふるまいをすることで若者から嫌われ、それでいて実際にはなんの権能も持たないという、じつに哀れな存在ではないか。

 

※小倉競輪祭、本日より開催ですよ!

競輪 厳選“穴”予想 2024・11・19 小倉競輪祭GⅠ初日ほか|hayakawa (note.com)