『セクシー田中さん』の作者である芦原妃名子さんが亡くなった件。
率直な私の感想を言ってしまうと、どうも脚本家やプロデューサーを擁護するような話になりそうで、しかしながらニュースなりで見かける今作の脚本家はいかにもいけ好かない風に見えるため、どうにも語り難い。
この脚本家がドラマ『ミステリと言う勿れ』も担当していたと知り、あのドラマでのねっとりとした役柄を見て以降、伊藤沙莉が苦手になったこともあって、さらに脚本家側への嫌悪感は高まっている。
とは言いながら、芦原さんと私では心性がかなり異なるように見え、こちら側に対しても感情移入しづらい。
ドラマそのものを一切みていないのでなんとも言えないところはあるけれど、あくまでもニュースを表面的に見た限りだと、最後2話の脚本は芦原さん自身が書いたということだから、それなら芦原さんの「勝ち」じゃないの?
その結果として脚本家やらドラマのファンがピーチクパーチク囀ったところで、どうってことなくない?
私ならそんなふうに感じそうだが、当人としてはいろいろあるのかなあ。
SNSで批判されるという経験自体がほとんどないから、自死するほどに気に病むという感覚がよくわからない。
で、漫画や小説の原作者と、テレビや映画の脚本家、プロデューサーの関係について。
これは、農作物の生産者と、飲食店の経営者や調理人みたいなもんじゃないかと思っている。
こだわって野菜を生産した農家としては、おいしさそのままに消費者に届けたい。
調理法も指定したい。
だけど、飲食店などに来る客がみんな、繊細な味覚を持っているとは限らない。
こだわりの部分がわからない客に、生産者側の意図だけを押しつけたところで、飲食店としては商売にはなり難い。
いろんな客を相手にするには、流行りの味付けや、見映え重視の調理法なども時には必要になるだろう。
利益のために、手間を省いたりもすることもあるのだろう。
生産者側にしてみれば「●●農場のこだわり野菜」などと銘打って、意に沿わない調理をされたのではたまらない。
だがその時に、生産者が店に乗り込んできて「こうやって使ってくれないと!」なんて言われたら、調理人としても「うるせえ! ウチにはウチのやり方があるんだ」と言いたくもなる。
「農家に飲食店経営なんてわからないだろう」と。
この時に、いくら生産者といっても、いったん出荷を許可してしまえば、後はどうなっても仕方がないんじゃないかなあ、というのが私の考えだ。
自分なりのこだわりはあっても、生活の糧は稼がなきゃならない。
そこは折り合いをつけるしかない。
もちろん酷い扱いを受けたなら批判はしていいし、その後の付き合いを断るのも当然の権利だが、「自分の思い通りに“料理”してくれ」なんていうのは土台無理な話で、そこでゴネたところでどうにもならないと思うんだ。
わがままとかそういうことではなく、無理。
自分の思いを他者に100%伝えるなんて、奇跡のようなことなんだ。
そもそも原作自体にしても、読者が、作者の思いをそのまま受け取っているとは限らないわけだし。
自分の思うものを世に出すことができて、それが生活の糧になっているなら、それで十分じゃないかと私としては思ってしまう。
原作=作品、脚本=商品。
原作者を芸術家とするなら、脚本家たちは商売人。
作品を商売につなげようとする時には、原作側が割り切って商売の専門家に任せるべきだろうし、そこを割り切れないならそもそも出荷をしない。
出版社にしたって、その作者の原作本を売るために、多少の脚色があっても構わないとドラマ化へゴーサインを出すのだろう。
脚本家も「漫画読者だけに向けたニッチな内容では、広く伝わらないから」と、視聴率稼ぎを目指して改変を行う。
そこに脚本家の自己主張が入ってしまうのは確かにクソなことなんだけど、「これがテレビドラマの昔ながらのやり方なんだす!」というなら、いっぺん、そのテレビのプロに任せてしまうしかなかろう。
それぞれがそれぞれの正義、もしくはビジネス論理の下で行っているのだ。
餅は餅屋という言葉もあるように、餅づくりや餅の販売に対して、米農家が口出ししたところでうまくいくわけがない。
それにさあ。
たとえどんなにクソな原作レイプが行われたとしても、それを原作者のせいだと考えるほど日本人の読者は未熟ではない。
原作者には自分自身の能力だけでなく、読者のことも信じてほしい。
わかってもらえるさ/忌野清志郎 SCREAMING REVUE - YouTube
RC Succession - 君が僕を知っている - YouTube
原作者たちにはナイーブな傲慢さを持ってもらいたい。
商売人たちのことなどを気に病むのはバカバカしいし、時間のムダでもったいない。