たとえば外国人の生活保護受給に対して批判をすると、「弱者叩きで憂さ晴らしをしている」と逆に批判を受けたりもする。

「国に帰ればいい」 日系ブラジル人の生活保護拒否、誤情報伝える(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

 

 暇空茜vsナニカについてもやはり、困窮女性への差別だなどと言われたりする。

 

 だけどそれは違うと思うんだなあ。

 弱者を助けるというのはもちろん美徳ではあるのだが、しかし、その以前に「何事もちゃんとしようぜ」という気質が強くある。

 助けるのはいいが、ルールがあるのならまずはそこをちゃんとしてもらわないと、善悪の前に「どこかすっきりせずに気分が悪い」というのが先に立つ。

 そこが大きいと思うんだ。

 

 戦後日本はさまざまなことをあいまいにしたままやってきた。

 好況の時はたいして気にもならなかったが、社会状況が停滞してきた時に、社会システムのなかの、いい加減に済まされてきた部分が気になり始めた。

 だから一回、全部きちんとしたい。

 そういう人たちの気分が、いたるところで噴出しはじめた。

 これが、左派の人たちの言うところの「ネトウヨの増加」の正体だ。

 

 ルールをあいまいにしてきたことで、それに助けられている人もいれば、そこを食いものにしているヤツもいる。

 在日鮮人問題などは、その際たるものだろう。

 

 嫌韓という以前に、ちゃんと国民の周知する形で在日鮮人に関するルールを決めましょう。

 外国人への生活保護もどこまでやるのかはっきりと決めましょう。

 NPOやら一般社団法人に対する税金からの補助もちゃんと可視化しましょう。

 

 左派の嫌悪するネトウヨたちはそういうことを言っている。

 新たに立法して明記するなり、なんなら国民投票でもして、きっちりルールを定めたい。

 選挙で決めるというのなら、立候補者はさまざまな問題に対して「YESかNOか」をはっきりしてもらいたい。

 

 そういうことをなぜやらないのか。

 はっきりしてくれれば、ちゃんとそれに従う。

 やらない裏には何か悪だくみがあるんじゃないのか。

 そんなふうに感じてしまうのだ。