安倍さんの国葬儀に関して、橋下徹が「個人的に安倍さんは国葬に資する人物と思うが、国葬とするための基準がはっきりしていない今の状況で行うことは反対」みたいなことを言っているのを見かけたのだが、もし本気で言っているのだとしたら呆れてしまう。

 基準なんて話し合いなどでは決まるわけがないだろう。

 「総理大臣任期〇年以上」とか言ったところで、「それじゃあ短い」とか「政策の評価はどうする」などと文句が出るに決まっている。

 政策なんてそれこそ評価の分かれるもので、数字で決めるとなったら「任期中に経済成長〇%以上だった総理は国葬」とでも言うのかい?

 

 結局、その時の内閣が「任期〇年以上」などと決める以外に基準が定まることはない。

 ならば今の岸田内閣の判断で、というのと大差はなかろう。

 そんなことちょっと考えればわかるはずだが、実は橋下の本音のところでは個人的な意見としても国葬儀反対で、それを婉曲的に言っているだけなのかもしれん。

 

 

 国葬にしても統一教会問題にしても、右も左もみんなして勝手なことを言っている昨今の状況は、なんでそうなるのかといえば日本にそうしたことを決めるための確固たる基準がないからなのだ。

 

 たとえば統一教会問題に関連して「フランスには反カルト法があって」などと言うのだが、フランスの場合はカトリックが準国教みたいな扱いになっているから、「それに反するもの」としてカルトを排除することもできる。

 

 そうした国としての道徳や倫理の基準がない日本において、「統一教会との関わりの濃淡」なんてどうやって見極めることができようか。

 

 左翼の人たちは「日本国憲法こそが基準だ」というかもしれないが、それだったら憲法で禁止されていないものはすべて認めるのが正しいわけで、統一教会との関わりも国葬儀も憲法の精神に則って受け入れるのが道筋だろう。

 だけど結局、憲法なんてものはしょせん道具に過ぎないし、しかも日本人の総意としてつくられたわけでもない今の憲法なんて国民の心に寄り添うはずがない。

 

 道徳や倫理の日本としての基準をまず決める。

 それがないから反日左翼や活動家、クソマスコミの戯言がまかり通ってしまう。

 基準を決めた上で、「そこを遵守しようが、そこから外れようが個人の自由」というのが本当の自由であって、基準もなしに「なんでも自由、なんでもOK」なんて言っている今の日本の言論状況は無法地帯と変わりはしない。

 

 反日言論に対する保守やらネトウヨの反論がブレブレになってしまうのも、やはり基準がないせいだ。

 

 じゃあ何を基準にするの? といえば答えは明らかで、日本には万世一系の天皇家があるではないか。

 天皇陛下ならどうなさるか、どうお考えになるというのをひとつの基準として成り立たせて(それに従うか反対するかは自由としても)国民全体の常識として共有するのだ。

 

 そのように考える私はというと「天皇陛下は当然ギャンブルなんてやらないよなあ」と我が身を反省しつつも、きょうも小銭を競輪に賭ける。

 どうしようもなく矛盾した話ではあるのだが、我が身を映す鏡として天皇陛下がいることで、大きく道を踏み外す危険性は確実に低減されている。

 

 天皇陛下基準で考えた時には統一教会に関しても、「憲法の保障する信教の自由が~」とかいう以前の問題で「そんなもんダメに決まってるだろ」と断ずることができるはずだし、わずかな票のために宗教の皮を被った反社組織に頼ろうという気もおこらない……起きたとしてもそれが恥ずかしいことだと自覚するだろう。

 

 反日左翼の連中も、どんな思想を持とうがどんな活動をしようがそこは自由だとしても、その思想や活動が日本の道徳や倫理に反することをはっきりと自覚することにはなるだろう。

 

 天皇陛下とまでなると崇高すぎて庶民にはとても真似できないだろうが、あくまでも倫理や道徳の規準として持つということ。

 それが経済的な発展につながるかどうかはわからないけれど、少なくともみんな心安らかに生きていくための一番の道筋であるに違いないと確信している。