安倍さんが亡くなったと聞いて、「情」を抜きにして、歴史的視点から俯瞰して見た時には「いい頃合いだったんじゃないか」と思わぬでもない。

 

 世界的なインフレ状況のなか、このところ的外れに「アベノミクスの失敗のせいだ」なんて批判が起きていたりして、安倍さんが何かを言えば「自己正当化の詭弁」「言い訳」などとアホどもから追及を受けることがこのところの常だった。

 そんな感じで左翼など「現状否定論者」たちからの批判のためのアイコンみたくなっていた安倍さんが亡くなれば、そのようなアホみたいな批判が多少は薄れて、経済でも防衛でもまともな政策を続けやすくなるんじゃないかと思うわけです。

 もともと批判論者にまっとうな論拠なんてないんだから、「このタイミングでどうもアベノミクス批判なんてやりにくいな」「もうモリカケとか桜を見る会とかも言えないな」なんて空気が強まれば、日本の政治環境としては悪くはないんじゃないか、と。

 

 安倍さんの政治的な遺志については誰かが引き継げば、それで問題ないわけだし。

 高市早苗あたりはまだ不安も感じなくはないがこれを機に心新たにして、さらに他の志の高い政治家が出てくれば、切磋琢磨によってよりよい方向へ行くのではないかと、今のところは希望をもって受け止めている。

 

 遺族や生前に縁の深かった人たちが犯人に怒り、安倍さんの死を哀しむのは当然だろう。

 だけど直接の縁のなかった人間が「暴挙に怒りを禁じえない」なんて言っているのを聞くとどうもねえ。

 

 いや、許せないのはもちろん私だってそうなのだが、それは「殺人を犯した」ということに対してであってね。

 「民主主義への挑戦だ」とか「言論の封殺は許し難い」とか、そんな追悼の言葉を使っている人間ってのは、そういう定型の言葉を使うしか能がない、薄っぺらい人間なんだろうとついつい感じてしまうんだなあ。

 

 犯人に組織的な背後があるのなら「言論封殺」などの批判も当てはまるだろうが(安倍さんが撃たれたと最初に聞いた時に私が直観したのは「犯人の背後にいるのは自民党内の反安倍派か」ということだったのだが)これまでの報道をみる限りどうもそういうことではなさそうで、言ってしまえば単なる殺人犯なのだ。

 殺された安倍さんは不運で可哀そうだと思うし、殺人という行為は許し難いけれども、別にこの犯人に「民主主義への挑戦」なんてたいそうな思想はなさそうだし、もしそういう批判をするのなら事件の背景が明らかになってからだろう。

 

 その意味では、いろいろな追悼の言葉を見たなかで、一番私の気持ちに近いのは実はプーチン大統領のものだった。

 

「安倍晋三氏の死に際し、深いお悔やみを申し上げます。犯罪者の手は長きにわたり日本政府を率い、両国間の関係発展に多くを成し遂げた、優れた政治家の命を絶ちました」

(プーチンの弔電より)

 

 

「犯罪者が殺人を犯した」ということ以上の修辞は近親者や生前に深い関係があった人たちだけのものであって、それ以外の人間がこれを言うのは「ポジショントーク」か「定型文しか言えない阿呆」のどちらかだと、どうしても私は考えてしまうのです。