私が子どもの頃だって、もちろん金持ちの家も貧乏な家もあったのだけど、今のように金持ちを立派だと崇めるようなこともなければ貧乏を蔑むような風潮はなかった。

 むろんお小遣いが多いとかおもちゃを買ってもらえるということで金持ちの子を羨むことはあったけれども、それはそれだけのこと。

 「ちびまる子ちゃん」の花輪君のようなもので、 「金持ちだから素晴らしい」ということはないし、金持ちの子が当たりガチャを引いたというような感覚もない。

 羨ましいには違いないが「よそ様はよそ様、うちはうち」という感覚がしっかりと子ども心にあったように思う。

 

 私の家がまさに中流のど真ん中よりちょい上ぐらいの感じだったからそのよう感じていたというだけなのだろうか。

 でも運動や勉強に関してももちろん能力差はそれぞれあったけれど、それはそういうものというだけのこと。

 必ずクラスの中心になるような子や、その輪に入れない子、不良も真面目もいたけれど、それはそれぞれがそういう性質なのだということで自然に受け入れていて、そこに人としての格差のようなものを感じることはなかった。

 

 つまり、70年代だって今でいうところの金銭的な格差はあったけれど多くの人々がそれを特別なこととは感じていなかったということ。

 一億総中流といわれた時代だったから今よりも中間層は多かったのは確かだろうが、上だからいいとか下だからダメという感覚は薄く、皆がそれなりに夢や希望や日々の楽しみを持って暮らしていたように思う。

 

 そんな時代を過ごしてきたからなのだろう。

 選挙演説などで野党のみなさんが「格差社会が~!」なんて言っているのを聞いても、「そんなもんそれぞれの捉え方次第だろう」「てめえらに上だの下だの決め付けられたくねえわ」なんて思ってしまう。

 実際、上だの下だの言っているのはメディアの中の人や政権を批判したい人たちだけで、そうした声に「洗脳」されている人もいるだろうが、多くの一般の人たちは、「そりゃあもらえるならカネは欲しいけど別にそれだけが人生でもないし」ぐらいの感覚なんじゃないかなあ。

 

 ジニ係数とかそういう話を持ち出すまでもなく、今もそれなりに平等な社会ではあるのではないかなあ、なんて思うことのできる私は特別に幸せな人間なのだろうか。