清水富美加の出家について、宮根や坂上忍など業界関係者から批判の声が挙がるのはまあ分かる。
業界の慣例ともいえる事務所のやり口に向けた清水のアンチテーゼを認めた日には、既存の芸能界のシステムが壊れかねないんだから。
ただ、清水と事務所がどのような契約を結んでいたか詳細は分からないが、私としては、清水個人に責任を押し付けるのはおかしいと考える。
映画にしてもCMにしても、先方と契約したのは事務所であって清水個人ではない。
仮に清水が不良品だったとして、責任を取るべきはその不良品の管理もできないまま商売をしていた事務所側に違いあるまい。
たとえば缶詰に虫が混入していたとして、社会的責任を取るのはその缶詰を作った作業員ではなく、製造販売した会社となるのは当然のことだろう。
その不良品を作った社員が会社内でどんな罰を受けるかなんて、取引先や消費者には関係のない話だ。
世間や関係他社に向けての謝罪や賠償が必要というならば、まずそれをするのは清水ではなく所属事務所の責務であり、あとは清水と事務所の間で勝手にやってくれということではないか。
増してや清水は罪を犯したわけでもない。
CMなどで宗教色がつくことを嫌うのも分かるが、それはそちらの宗教差別感から生じただけの勝手な理屈と言うこともできる。
あと、仕事を途中で投げ出したのが社会人として無責任という意見も見掛けるが、それを言うのも随分と無責任な話ではないか。
清水が仕事を投げ出すまでにどういった経緯があり、現状どんな状況にあったかも分からないのに、なぜ今時点で投げ出すことを悪とすることができるのか。
ギリギリまで耐えて、もう耐えられないとなったからこその選択だったという想像は働かないのだろうか。
で、一般的にも私のような考えがマジョリティなのかと思っていたのだが、ネットの意見をざっと見ると意外や意外。
清水批判の声をけっこうな割合で見かける。
なんでだろう。
いじめられっ子や電通社員の自殺には「そこまで耐える必要はなかった」と言いながら、なぜ清水に対しては「文句言わずに働け」などと薄情なことが言えるのか。
つらつら考えるに、まず事務所の手の者による組織的なコメントというのがきっとあるんだろうなあ。
あともうひとつ。
清水の出家先が幸福の科学ということで、きっと競合する他宗派信者が清水批判を繰り広げているところもあるんだろう。
狂信者の思考回路は計りかねるところもあるのだが、恐らく熱心な創価学会信者なんかにしてみれば、公然と「幸福の科学推し」をする清水のことをおもしろくないと感じもするのではないか。
清水批判の声は創価信者か事務所関係者だと、ひとまず納得しておくことにしたい。
その一方で、20歳そこそこの女の子を帰依させるために教祖自らの名で本を一冊したためる幸福の科学というのも相当薄らみっともないとは思うのだが、これもまた清水自身には責任のない問題なのである。