「保育園落ちた日本死ね」が話題になったとき、私としては端から共産か民主のでっち上げたインチキ、まがい物と捉えていたので、これを国会で取り上げる山尾志桜里には思うところはあったものの、ブログそのものにはまったく興味が持てず、そもそもの文章は読んでいなかった。

 今回、流行語大賞の発表についても、全般的にお気楽な文言が並ぶ中でこの禍々しい文言だけが浮いているような気がして、「選んだヤツは空気が読めねえなあ」「そこまで政治絡みにしたいのか」とは思ったが、怒るというより呆れる感のほうが強かった。

 一方、結構お怒りの人も多いようで、その気持ちも分からないではなく、「スーパーなんかに置いてるユーキャンの料金別納ハガキを郵便ポストに大量投函しろ」というのもそのくらいの抗議はあっていいかな、とも思う。
 ユーキャン側もそもそもハガキをそうやって設置しているからには、そのぐらいのリスクは織り込み済みだろうしね。


 そんな「日本死ね」をけしからんと言う声に対し、「本心から死ねと言っているわけじゃない」「文脈をみろ」などと擁護する声もいくつか見掛ける
一例としてはこんな感じ。

古市憲寿が流行語『日本死ね』を擁護「比喩としての『死ね』だから問題ない。批判してる人は文脈読め」
http://blog.esuteru.com/archives/20006044.html


 で、「そういやあ読んでなかったなあ」と改めて検索して見てみたのだが、「日本死ね」って文章内の表現じゃなくタイトルだったのか。
 まったく知らなかった。


 タイトルで「死ね」って書いてるなら、文脈もなにもないだろうに。
 はっきりと、一番明確に打ち出したい言葉が「死ね」だからこそ、わざわざタイトルにしてるんだろ?

 全体的な言葉遣いも汚らしいし、精一杯譲歩したとしても日本死ね=自民政権潰れろとしか読めないんだが、これのどこに擁護する要素があるんだ。
 自民政権における政策への言及もないのに、文脈を読んで判断したとき、ほかにどんな解釈ができるというのだろう。

 しかし山尾志桜里もよくこんなもの取り上げる気になったなあ。
 ホントに誰かが書いたものであったにしてもデッチ上げだったにしても、いずれにせよ品性が無さ過ぎる。



 ほんとザ―っとだけどその後この書き手のツイッターを見たのだが、なんか最初あれだけ感情的な表現を使っていたのが、なんだか評論家みたいなことばっか書いてるのな。
 「日本死ね」ってまでいうほど切羽詰まってたなら、なんつーかなあ。
 そんなツイッターなんぞにかまけるんじゃなく、もっと子育てとかでやらなきゃならんことがいっぱいあるだろうに、なんで他人事みたいなことばっか書いてるのか違和感が半端ない。