小学生の頃、学級内でよく先生に対して「差別だ~!」なんて言ったものだが、これと対になっていたのが「贔屓」という言葉だった。
 
 「●●君ばかり贔屓する」、「差別だ」という具合。
 
 しょせん子どもの感覚ではあるが、これで案外と正鵠を射ているようにも思う。
 
 
 誰かを利するために別の誰かの利益を、不当な理由で減ずる行為というのが「差別」の本質だろう。
 
 たとえば同じ国民であるのに、白人と比べて黒人というだけで、あるいはアラブ系の出自というだけで就職や学習機会などで不利益が生じる。これが人種差別であり民族差別だ。
(現在の基準にあてはめれば)あってはならないことである。

 だが、外国人差別(そもそもこれを差別と言っていいのかどうかをさておいたとして)は、上記と同等に並べられるものなのだろうか。
 
 
 小学校の話に戻れば、A校の校庭でB校の子どもが遊んでいるのに対して「出ていけ」というのは差別なのか。
 それは違うだろう。
 
 A校の子たちが十分に遊ぶ余裕があって、なおかつB校の子も受け入れられる余地があるなら、無理にB校の子を排除する必要はなかろうが、B校の子が来ることでA校の子の遊ぶ余裕がなくなるのなら、これはA校在学生の権利を守るためにもまずはB校の子を排除しなければならない。

 
 国ということで言っても、自国の権利が最大限に受益できる状態にあって、はじめて他国への施しも可能となる。

 日本国民の利益を守るためには、外国人の利益にある程度の限度を設けるのは当然のことだろう。
 それに納得できない人間には出て行ってもらう。
 当然のことだろう。

 「在日鮮人は出ていけ」というのはなるほど汚い言葉かもしれないが、現実に「在日」という名の外国人が、日本人の税金で作った公共財をのうのうと利用したり、さらには掛け金も無いまま年金をよこせだとか、不当に生活保護をよこせとか。

 そんな人間に「出ていけ」というのが差別だとは、私には到底思えない。
 
 それに、彼らには自国への帰国、あるいは日本への帰化という選択肢がきちんとある。
 決して「人種など変えようのないものへの差別」では無い。
 
 
 「日本国内における在留外国人」に対しての排除の論理を「外国人差別」と呼ぶとして、この外国人差別と人種・民族差別はまったくの別物なのだ。
 
 
 それをいっしょくたにして「ヘイトスピーチ」とするのは、それを言う人間たちは、あえてそうすることで物事の本質をごまかして何らかの受益を目論んでいるのか、それとも本質を理解する能力自体を欠く単なるバカなのか。