中国、韓国が靖国神社参拝を「戦争賛美」だと批難するのは、まあいい。勝手に言ってろってなもんだ。
だが、日本のマスコミや評論家でもたまにそんなことを言う人間がいるのには呆れてしまう。
 
そもそも「戦争賛美」との言い回しが根本的に間違っている。賛美しているのは「戦争そのもの」ではなく「戦争で殉職した人々」である。だからこそ「戦死者」とはいわず、「英霊」と尊敬の念を込めて呼ぶ。
 
 安倍総理が終戦の日の式辞でアジア諸国への謝罪を言わなかったと問題視するかのような論調のニュースをいくつか見かけたが、じつにおかしな話だ。
 自国の戦没者への敬意を示すことが第一義だという、およそ世界のどの国でもそうであろうことを、ふつうに示しただけではないか。
 
「国のために命を懸ける」というと、どこか陳腐な言い回しに聞こえるかもしれないが、しかしこれを現実のこととして考えたときに、よほどの覚悟が無ければできることではない。
 覚悟をもって亡くなった人を「戦争に巻き込まれたことによる不幸な死」などとみなしてはいけない。それはあまりにも失礼だ。
 
そもそも、国として英霊に敬意を払わないようなことであれば、そんな国を誰が命を懸けて守ろうとするだろう。
 
これは戦争に限った話ではない。
災害救助などに出向く自衛隊員に対しても同様だ。
もし、「自衛隊が災害救助するのは、それが職務だからあたりまえじゃないか」なんて考える人がいたなら、一刻も早く改めてほしい。
国のため、国民のために命を懸けるという営みは、とても機械的にできることではない。「それが職務だし、自ら選んで自衛隊に入ったのだから、やってあたりまえ」などという人間は、あまりに非情だし、想像力が足りなさ過ぎる。
 
きっと彼らは「尊敬されたくてやっているわけではない」と言うだろうし、本心においてもそうであろう。
「他に行くところがなかった」とか「各種免許が取れるから」なんて理由で自衛隊に入隊した人も、もちろんいるだろう。
 そうであっても、いざというときに率先して、死と隣り合わせの現場に赴く。
 
 法や制度によってシステマティックに決められた職務には、ロマンティックな思い入れなど入る余地は無いのかもしれない。
  だが、だからこそ、守られる側の我々は、できる限りの敬意と祈りを捧げるべきなのである。
 
そう考えたときに、現在の靖国神社で不満なのは、もし自衛隊員が現在の法解釈の下で海外派遣されたときに、そこで亡くなったとしても、靖国の英霊としては奉られないという点だ。
「PKO等で海外に派遣されたときに戦闘で亡くなったとしても、現在の法解釈の下では、それは事故であって戦死ではない」というのが靖国神社側の見解だと聞く。
 
 しかしそれはあまりに教条的ではないか。
 国のためを思って為した職務で亡くなるということでは、兵士もPKO派遣も等価だと私は思うのだが、この認識は間違っているのだろうか。
 
できることなら海外派遣に限らず、自衛隊の通常の職務上の事故、国内災害の援助やふだんの訓練中に亡くなった方も、当人の希望があれば靖国に奉る、ということにはできないものか。
 
そうすることで、より「国を守るために亡くなった人を奉る」という色合いが濃くなり、「戦争賛美」なんて馬鹿なことを言われるケースも少なくなると思うのだが、いかがだろうか。