週刊文春をパラっと読んでいると、適菜収のコラムに目が留まった。菅官房長官を批判するもの、っていうほどでもない。ウィキペディアやいくつかのニュースサイトをネット検索すれば書けそうな内容だから、単なるあげつらいですな。読んだ感想としては「まあ、こういう見方もあるのかな」という程度。
それよりも気になるのが書き手である適菜収のプロフィルにある「哲学者」という肩書きだ。
これまでは、この肩書きが引っかかり、この書き手の著したものはまともに読む気にならなかった(今回はたまたま、個人的に注目している菅官房長官を取り上げていたから読んだが)。
最初に適菜の名前を見たときに、その「哲学者」という肩書きが気になって、まずウィキペディア(笑)や本人のサイトを確認したのだが、どこぞの大学の講師をやっているわけでも何か学術論文を発表しているわけでもなさそうで、「それでなんで学者なんだろう?」と。
※もしかすると私が知らないだけで、実際にはそれらの実績があるのかもしれない。それだったら「ごめんなさい」なので以下抹消ということで。
そりゃあ過去の哲人たちは、大学というシステムも学術論文を発表する学会も無かった中で、それでも哲学者とされているわけだが、しかしそれは彼らの探求、研究が後世に認められ、他称として哲学者と呼ばれているわけだ。
少なくとも、現在の日本においては、学者というのは論文を学会で認められた人や、大学で研究に従事する人に対する呼び名であって、そうした日本語の前提を軽視する書き手であるならば、やはりその著した物を読もうという気にはならない。
ともかく、そのあたりがはっきりしないうちは、私の適菜収に対する認識は「偽学者」であり、森口尚史以下の存在でしかない。
もしかすると「自称哲学者」ということで、自虐ギャグのつもりなのかもしれない。だったら「哲学者(笑)」とでもしておいてもらわないと、なかなか伝わりませんよ?
根拠の無い肩書きを自称する人は受け入れられない。自称・哲学者の適菜も、自称・元従軍慰安婦も、自称・強制連行された在日朝鮮韓国人も、その点では同質だ。「日本軍のジープに乗せられてインドで慰安婦をさせられた」「哲学者を名乗るに値する研究を自主的に続けている」。どっちも証拠がなければ与太話に過ぎない。
もしかすると適菜の書く物には一片の真理が含まれているのかもしれない。従軍慰安婦なる人の語る体験にも少なからずの真実はあるかもしれない。でも、その土台となる部分、自称する肩書きが怪しいのでは素直に受け取ることはできない。
森口尚史の「IPS研究」はメディア上で叩かれまくったのに、それと大して変わらない上記の人々が世に罷り通っていることが気持ち悪い。
表舞台に出てくるときには、根拠のある証拠をまず見せてもらいたいものである。
あと、どうでもいいことだけど適菜というのは本名なんだろうか? もしペンネームなら、「菜を摘む」ということで「摘菜」とするほうが良いようにも思うのだが。