一瞬にして、“あなたの輝き” を見つけ出す
スピリチャル・スタイリストのマノアです。
新しくアメブロを始めるにあたって、自己紹介をさせて頂きますね。
人生、長く生きているので、まとめても長いところがありますので、何度かに分けて書き出してみます。
わたしのプロフィール① 社会人になる決意
福岡に生まれ、育ってきました。
博多っ子の血が濃くて、夏には博多山笠にとっても燃えてしまいます。
幼少から、少し変わった子どもだったなと
振り返ると自分でもそう思います。
幼稚園の時にお人形遊びをしていました。
布や糸を与えられて、「自分で着替えを創る」ことをしていました。
そのころからですね。
「布」の持つ可能性や美しさに惹かれ、布の表現する「色」に魅了され
「大人になったら、素敵なお洋服を選んであげたい!」と思うようになりました。
そして、
アパレルメーカーのコーディネーターとして就職しました。
研修期間の6ヵ月は、大手百貨店の店舗で自社ブランドの販売をしていました。
もともと記憶力がずば抜けてよかったので、顧客さんのご購入された商品
お手持ちのお洋服を聞いたら全て覚えていて、販売がとても面白かったのを想い出します。
コーディネートされたお洋服を着用されたお客様が、喜んでくれた笑顔がすごく嬉しくて、「ああ、この笑顔のために頑張れる!」って、毎日が充実していました。
その情熱を持って、コーディーネーターとしても各ショップでディスプレイするのが楽しかったです。
得意なのは、ドレーブ創り。布で曲線を描くのが好きでした。
福岡で就職をしましたが、わたしには計画がありました。
アパレルメーカーから、スタイリストの修行に入って、独立して自分のオフィスを持って働く30代を思い描いていたのです。
そのため、就職して1年半が経った頃、「東京に行こう!」と思ったのです。
退職を願い出た時、当時の福岡支店長が「転勤をしないか」と言ってくれたのです。
「東京のコーディネーターの席を空けるから、取りあえず転勤しなさい」と。
もし転勤してもすぐにやめてしまったら、福岡支店長の顔に泥を塗ることになるので、その話しはお受けできないとお断りしました。わたしにはスタイリストの修行をする次なる夢があることもお話ししていたからです。
それでも、「転勤しなさい。その先に、スタイリストになると退職するならそれでもいいから。
「人材の材」は、「財産の財」なんだよ。
君の夢を知った上で、私は君が転勤できるように手配をしよう。
もし会社に残ってくれたらとても嬉しいんだが。」
感謝の気持ちでいっぱいでした。
わたしは短大出身でしたので、本来ならそのメーカーには就職が出来なかったのです。
面接に行ったときの面接官が、実は福岡支店長だったのです。
そして、その後のわたしを転勤させてくれた福岡支店長が次長でした。
短大に向けた就職募集の解禁日の前日が1次面接日でした。
面接官「短大の雇用は今年は無いんだよね」
わたし「そうですか、では来年受けます」
面接官「その間はどうするんだ?」
わたし「アルバイトでもして、1年待ちます。そうすれば既卒になるので、また面接が受けれますよね」
面接官「それでも当社に入りたいのかい?」
わたし「はい、コーディネーターの部署があるのは御社だけです。だから入りたいのです」
面接官「その情熱はわかったけど、明日が解禁日だよ。間に合わないね」
わたし「明日の朝一番に出してくれたらいいのでありませんか?数日遅れても募集があれば、応募できます」
面接官「・・・。そうだね。申請期日が決まっているわけでもないから、検討してみよう。明日の公募を見ておいてくれたまえ」
わたし「はい!ありがとうございます!1日中待ってます。でも張り出されなかったら来年来ます!」
当時、20歳のわたしは、遠慮もなく、こんなやりとりをしました。
わたしの「決意」は、ゆらぎませんでした。
自分の思い描いた未来しか、見ていなかったから。
そこに起こるであろう不安や、困難など、まったく考えていなかったのです。
もちろん、相手にどう思われるとかもなく
ただただ、「決意」に向かっていただけなのです。
面接をしてくださった福岡支店長と、次長は
約束通り、短大に「社員募集1名」を出してくれました。
その1名は、わたしのことを指し、わたしは再び合同面接に参加することが出来たのです。
たくさんの応募者が居て、短大卒はわたしだけでした。
皆、すごいやる気に満ちていて、質問を次ぎ次ぎに投げかけていました。
「君は質問はないのか?」と聞かれましたが、
「働いてみてわかることがあるはずです。だから事前に聞きたいことはありません」と答えました。
だって、そこで働きたいのですから、どんな好条件も、悪条件も、どっちでもよかったのです。
その会社以外に、コーディネーターの職は地方都市ではなかったのですから、ある意味・・・選択肢は無いのです。
今思えば、結構無茶してたように思います。
でも、今のわたしも、同じように答えたと思います。
未来の不安を考えれば、いくつも出て来ます。
だけど、未来はどう変わるかわかりませんよね。
わたしの世界は、経験したこと、見たことで創られています。
ということは、未経験、見たこと無いことは知らないんですよ〜。
知らないことをいくらイメージしても。。。わからない。
わからないということを、自覚していると、不安を思うことはなくなります。
それよりも
どんな状況にも、反応できるしなやかさを持っていたい!
それが未来への願いでした。
それ以外には何もないのです。
自分自身がどのように「決意」するのか?
それは、人生を掛けられることなのか!?
わたしには、その2つしか考える要素がありません。
そうして、就職した会社。
東京に転勤してからも、1年ほど働かせてもらいました。
新しいブランドのオープニングも、大きな展示会も、各地のショップディスプレイも経験させていただきました。
どうやったら、売れるのか!?
それを考えながら、何度もショップの中を歩き
歩きやすい幅、人目を引く方法、店内へ誘導する導線。
全ては、実地での学びでした。
ひたすら一生懸命に勉強し、肌で感じ続けたのです。
その会社では一生の友であり、家族と思える友人にも出会いました。
あのときの福岡支店長には、こころから感謝をしています。
人生は、本当に人に助けられ、人に導かれるものだと知った最初の出来事でした。
東京でのスタイリストと、人生の変換期〜世界が消えた日〜
同郷の東京に来ていた友人に、数人の有名なスタイリストさんを紹介してもらいました。
今でもご活躍されている男性スタイリストさんや、女性スタイリストさん。
山田邦子さんのスタイリストをされていた前田さんは、とても誠意のあるかたで、「このお給料で東京でスタイリストはできないよ。アルバイトをして擦り切れていくなら、あきらめなさい」とハッキリと言って下さったのです。
若い娘の夢を砕くようなことは、とても言いにくかったと思います。
しかし、それが現実。
交流はありませんが、いまでもそのお名前を忘れることはありません。
当時のスタイリスト見習いのお給料は5万円にも満たなくて、
家族の支援もないままに、東京の家賃を払って生きて行けるだろうか?という現実の壁にぶつかりました。
ところが、
最初に研修で勤めたショップの先輩から、ある人を紹介して頂きました。
そのかたを通して、ひとりの女性を紹介されたのです。
「こちら麗子さんよ」
「はじめまして」
多分、最初の会話はこんなところでした。
初めてお会いした麗子さんに、なぜかスーッと惹かれていったのです。
「麗子さんのもとで、働かせて下さい」
その言葉しか言えませんでした。
数日後、
先輩のご友人から、「麗子さんがね、うちにいらっしゃいと言ってくれてるわよ」と連絡がありました。
お給料もアパレルメーカーと同じだけ払うということでした。
本当にありがたいお申し出に心浮きだっていました!
ところが、親との約束で、「2年間のみ」といことになったのです。
もう、本当に泣きそうでした。
それでも、「これもご縁よ、2年間うちで学びなさい」と言って下さったのです。
娘のように可愛がって下さって、
たくさんのマナーやビジネス精神も学ばせて頂きました。
いまでも、麗子さんがわたしのボスであることは変わりません。
麗子さんに恥じない生きかたをする!
それが、わたしの強い芯を創っていました。
あのときの麗子さんの年齢を超えてしまったけど
まだまだ麗子さんにはなれない。
それほどに、暖かく尊敬するかたなのです。
そして、運命ってオモシロイですよね。
(オモシロイと言っていいのかわかりませんが・・・)
約束の2年間を、説得に説得を重ねて半年伸ばしてもらいましたが
わたしは福岡に帰ることにしました。
丁度、幼なじみの結婚式があったので、それを節目に。
そして、福岡に戻ってから2ヵ月後。
最愛の父が、交通事故でこの世を去りました。
あっという間の一瞬の出来事。
2ヵ月間は、父とゆっくりと話し、たわいもない時間を過し
父のスタイリングをし、一緒に出かけることができました。
家族と過す時間がこんなにも楽しいなんて思わなかったくらいに幸せでした。
・・・・わたしのプロフィール②に続きます。