人種 思想 宗教 言語 習慣 等の差異があったとしても一緒に構築していける世界であることが一番大切な要件であり社会的弱者を救済し保護する為に政府が存在するというのが一番望ましい国家形態でありそれは現代の世界の原則でもあるのです。
これは私個人の考えと言うわけではなくて人類と言う種の未来を考えれば当然行き着くべき帰結なのです。
私達の迎える未来はその本質において不確定要素そのものでありなにひとつ約束されたものなど存在しません。
それに対応し種として生き残る為にはあらゆる可能性を用意する必要があり同時にそれはあらゆる状況を受け入れて適応して行かねばならないことを意味しています。
これはよく勘違いされていますが生物にとっての生存の本質は弱肉強食ではなくて適者生存なのです。
人類は本質的に集合して集団を形成し社会というものを構成して生きています。
単一の高等生物がこれほど繁栄した事はこの星の歴史においてもはじめてのことですがそれはこの社会というシステムが常に流動的に変化してより広範な適応力を持ったからとも言えるのです。
そのシステムは人類の発明した道具というものの発展から近代工業へとつながり爆発的な経済の発展は人口の増加とその生存の為により複雑な社会システムを生み出しました。
そうやって社会システムが作り上げられる中で確実に弱者を保護する為の福祉という社会システムが形作られて行きました。
これは社会的に弱者であったとしてもどういう可能性を秘めているかは誰にも判断できないからです。
その為人類は弱者を含めたあらゆる可能性を未来に託すという方法論を選択しそれが現在の福祉というシステムになっています。
現時点の殆どの国家ではどんな形にせよ福祉というものが存在するのは人道的理由は勿論ですが(その概念を持つ事が重要なのですが)本質的には不確定的要素に対しての集団で生きる生物の基本的な戦略なのです。
つまり基本的に目指すべき世界は決まっていて最終的には国家というものすら存在の意味を無くす事になります。
過去の戦争をひも解いても 現在の戦争やその原因をみても多くは利権というもののための戦争であってそれを起こすのは基本的にそう言った利権にぶらさがっている権力者利権者達でありそこに暮らす民衆は戦争に駆り出され彼らの為の殺し合いを強要されます。
ヨーロッパを長きに渡って支配して来たカソリックでは 人を殺すな 盗みをするな 姦淫をするな 神の前には人は平等であるという教えのもとに 王 貴族 法王というとんでもない特権階級を作り出し 聖地巡礼という名目のもとに中東で戦争を続け多くの血を流しました。
騎士道という言葉はこの頃生まれますが 騎士というのは貴族等の特権階級しかなれず彼らは鉄板で覆われた鎧で身を守り安全な馬上から兵士を指揮しました。
騎士の持つ武器は武器と言っても鎖のついた鉄の玉や棍棒でどれも必殺の武器ではありません。
つまり彼ら騎士同士はお互い殺し合わない事を前提とした存在で鎧はあくまでも身を守る為であり馬にも鎧にも紋章をいれた飾りをつけるのは捕まっても貴族なら身代金を払えば命を奪われずに帰してもらえるからなのです。
実際に殺し合いをさせられるのは農民からかり出された人達ですが彼らも生涯農場で馬車馬のように働かされて死ぬよりもまだ戦場にでて手柄をたて出世する糸口を掴むか 戦場であらゆるものを略奪し強姦し彼らなりのいい思いをするほうがいくらかでもマシと考え兵士になっていったのです。
十字軍の正規兵達はいくらかでも宗教的理由で参加していたのでしょうがそのなかでも縁故に拠る差別は横行していました。
往時ヨーロッパは宗教戦争という名目で休みなく戦争を続けていましたがその本質はそれぞれの王家の領土の(領民をも含めた)奪い合いでありそれぞれが大義名分をつける為に宗教を味方につけようとしました。
その結果カソリックの本山であるバチカンのローマ法王は強大な富と権力を持つようになり逆に王達をコマのように扱い自身の権力の更なる強化を図るようになりました。
13世紀から17世紀のヨーロッパはそう言った状況のなかで際限なく戦争が繰り返され国境が変化する世界だったのです。
当然ですがここで一番悲惨な目に遭うのは農民達であって戦争のための重い年貢と戦時には男手がかり出され殺し合わされるという状況に陥っていったのです。
共産主義で宗教を否定するのは彼らが唯物論者であり神が物質的に証明出来ないからでもありますが 宗教が本質的に常に政治的にその国の国民を支配洗脳するための道具として使われごく一部の宗教者を除き大半が権力者と迎合もしくは自らが権力者として民衆を洗脳支配するという状態になっていたからなのです。
私は共産主義者ではありませんが歴史的にみてもシャーマニズムなど原始宗教は別としてユダヤ教 キリスト教 イスラム教 仏教についてはそういった役割を果たしてきているし現在も変わりないと考えています。
こういった構造のなかで抑圧され搾取され続けて来た国民は自らの不満のはけ口をユダヤ人など社会的弱者にぶつける事で解消しようとします。
基本的には階級制が存在する社会は差別構造をもった社会でありそれぞれの階級のつながりと縛りは現在の私達には想像出来ない程強いものでした。
突出した才能を武器に貴族達の後ろ盾を得て芸術家になるか 戦争で手柄をたてて出世するか 法曹界に入り身を売ってでものし上がるくらいしか階級から逃れるすべはありませんでした。
だが農民が学問を身につける事は非常に難しく経済的にも極度な貧富のある世界であり17世紀くらいまでの特権階級を除く殆どの人達は狭い住居にすし詰めのような状態で暮らすのが普通でした。
学校に通えるだけでもそれは裕福な家庭の子弟達でありそう言った人間達がまた特権を確保して行ったのです。
産業革命等によって経済が発展するまでは経済的な限界がありその限られた経済的利権をどう分配するかというための階級社会であるため階級制度は血筋によって受け継がれその境界が壊されることはなかったのです。
それは全て頂点にたつ権力者達の利権を守るためであり彼らがより大きな富を求めるならそれは他国への侵略行為しかなかったのです。
16世紀になり大航海時代がはじまるとその矛先は アジア アフリカ アメリカ大陸へと移行して行きます。
当時火器を知らない人間達に対しごく少数の軍隊が国家を制圧し植民地として支配し搾取し続けたのです。
その中での人間の支配にもキリスト教は有効に活用され現代の感覚では狂信者としか思えないような熱心な神父達の手によってもとあった宗教や文化習慣は根本から破壊されて行きました。
結果として経済や産業 文化が発展したという見方もあるでしょうが結果として残されたものは現在でも残る内戦の火種にもなっているのです。
17世紀から18世紀にもなると科学が発達し教会の政治への影響力は随分と弱まり大航海時代の交易によって発達した経済力を身につけた商人達が資本家としての道を歩み始めます。
彼らは利益優先のためにあらゆるものを食いつぶす白蟻のような存在でもありやがて宿主の国家さえもゆるがし結果王や貴族など旧体制の権力者を意のままに操れるようになり必要とあれば旧体制を倒して国家そのものを刷新し動かすようになりました。
19世紀になって産業革命が成立する頃になると彼らは国家そのものを後ろ盾に圧倒的な軍事力と経済力により過酷で狡猾な植民地支配を進行させていきました。
そしてアジア最後の砦であった大国中国さえもがイギリスの支配下に置かれます。
第一次世界大戦の実質はヨーロッパの植民地の争奪戦といっても過言ではない状況だったのです。
その国家を動かしていたのは当時の資本家達とそれに繋がる国家官僚達王族達でした。当時は強力な軍事力を背景にした帝国主義がヨーロッパ列強の国家システムでありその軍備で潤った重工業が更に新しい殺戮兵器を作り出し戦場に送り出しました。
最初に毒ガス兵器という大量殺戮兵器が作られたのも戦車や飛行機が登場したのもこの戦争からでそれまでの戦争とは規模も被害者の数も桁違いに増え900万人以上の戦死者をだしました。
結果ドイツは国家が破綻するレベルの戦時賠償を要求されロシアはレーニンが指揮するボリュシュベキによって倒され社会主義国家になります。
この人類初の社会主義国家の成立はマルクスの唱えた人類の理想的な形態である共産主義単一国家への過程であり世界革命を前提とするものだったので共産主義運動はヨーロッパだけではなくアジアアフリカ南アメリカ中国日本にも影響を与え拡大して行きます。
その影響が一番端緒に現れたのが戦争の賠償金で疲弊し切ったドイツ国民でした。
ですが同時に国家主義と民族主義を鼓舞しトゥーレ協会という神秘主義団体や右翼組織を背景にしたナチスが誕生し突撃隊という警備団を組織。
彼らは活発に社会主義共産主義運動を攻撃しました。
当時ドイツの労働者階級の指導者であったローザルクセンブルクは反革命義勇軍(フライコール)によって逮捕され惨殺されました。
このフライコールのメンバーには後のナチ幹部が多く含まれています。
‘(ローザとリープクネヒトは1919年1月15日にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。その後、遺体はナチス政権により暴かれて所在不明となってしまった。2009年5月、ベルリンのシャリテ病院で身体的特徴がローザのものと一致する首の無い遺体が発見され、現在調査中[1]だと報じられた(ナチスによる墓暴きもこの時に判明した)。
日本は当時立憲君主国家であり不平等な選挙権が施行されるまだ民主主義国家とはほど遠い存在でしたが共産主義運動は活発化しておりそれは民主主義への扉を開くものでもありました。
当時の日本の国家権力は社会主義に対してはまだ寛容なところがありましたが共産主義は徹底して弾圧され1923年に起きた関東大震災には在日韓国人朝鮮人が暴動を企み水源に毒を投げ入れたとのデマが意図的に流され自警団によって多くの朝鮮人韓国人が虐殺されました。その正確な数は今もって不明ですが2000人とも3000人とも言われています。
(軍・警察の主導で関東地方に4000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。そのため、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するために国歌を歌わせたり、日本共産党員で詩人の壺井繁治の詩「十五円五十銭」によれば、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された。
横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府・野間口兼雄長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[19]。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った。)
このどさくさにまぎれるかのようにして憲兵大尉だった甘粕正彦がアナキスト大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一の3名が不意に憲兵隊特高課に連行、憲兵隊司令部で殺害し、遺体を井戸に投げ捨てるという事件が発生しています。
裁判になりましたが主犯で実際に大杉 伊東を殺害した甘粕には懲役10年(→恩赦減刑2年10ヶ月)と状況からみても非常に軽い処分に終わりました。
これ以降日本は坂を転げて行くようにファシズムの道に走って行くことになります。
ナチスの軍服がヨーロッパで否定され旧日本軍の軍服が否定されるのは敗戦国だからという理由だけではないのです。
彼らの背景に在るものが 「断種法」や民族浄化等に代表される社会的弱者への徹底したレイシズムであり それによる虐殺行為だったからです。どういった理由があるにせよ ホロコーストによって何百万人もの罪なき無抵抗な人々を殺してしまった事実は時間が経ったからと言ってぬぐい去られるものではありません。
言論の自由を奪い表現を規制し自身の権力強化と保身の為に他者の財産や生命を奪う軍隊の制服はそういった行為をシンボルとして代表するものなのです。
日本軍は大東亜共栄圏の名の下にアジアのヨーロッパ植民地からの解放をうたいアジアに進撃しましたが現実には日本人があらたな植民地支配者になっただけのことでした。
戦況が悪化するとまず軍官僚達は逃げ去り補給路を断たれ孤立した部隊は武器どころか食料さえなく殺した敵兵や死んだ仲間の肉を食べていたと言うのは戦後あまねく知られていた事実なのです。
なかには下級兵を冤罪に陥れそれを理由に銃殺して皆で食べたという事実さえあったのです。(映画 行き行きて神軍)
これは戦死者230万人のうちの6割ちかくが餓死だったという当時の軍部官僚(特に陸軍省)無能さ高慢さを端的に現す事例なのです。
戦争中は欲しがりません 勝つまでは!の号令の元にあらゆる表現にたいする規制が行われ敵性言語であるからと英語の使用が禁じられジャズすら聞けないおろかしい環境だったのです。
戦争に異を唱えると非国民と呼ばれ場合によっては特攻警察に捕まえられ最悪な状況下では獄死させられてしまうというケースさえありました。
作家の小林多喜二が戦争反対を唱え共産主義運動に加担していたところから獄中で殺された事はあまりにも有名な話です。
物資が枯渇する中紙さえすべて軍部の管理する所となり作家は文章が書けず画家も絵を描きたければ戦争画を描くしかない時代だったのです。
当時のこの国の画壇は積極的に戦争勝利の為と率先して協力しましたが戦後になって多くは糾弾されることになりました。
反面当時戦争に反対する事は投獄と刑罰を覚悟の上の事であり多くはそのまま徴兵され戦地で命を落とすか、投獄され拷問にも等しい取り調べに耐えるかだったのです。
食べるものもなくいずれは本土決戦があり竹槍などで米軍と戦う事を強要され男達の大半は戦場に送られ子供達は学校に行く代わりに軍事工場で勤労奉仕という名目で働かされていたのです。
それを支えていたのは隣組という相互監視システムで愛国婦人会と憲兵隊が協力関係で不平者達を取り締まっていました。
戦時中だれもが嫌がっていたのがこの愛国婦人会と憲兵隊で食べるものさえままならない状況のなかようやく手にいれたまんじゅうを子供にあげようとしているところに愛国婦人会と憲兵が土足であがりこんできて「贅沢は敵です!」とそのおまんじゅうを取り上げたという話を聞かされた事があります。
今の北朝鮮の国家体制を非難出来るような国ではなかったのです。
(しかも戦後になってようやくあのイヤな愛国婦人会を見る事もなくなったと安心していたら今度は米軍のMPと一緒に現れて平和で民主主義の国を作りましょうと言い出したので心底うんざりさせれらたという話を国立歴史博物館の戦時体験聞き取り調査で聞かされたことがあります。
これは当時の官僚達も同様で終戦時A級戦犯として捕まえられていた政治家官僚の多くが復帰して政府の要職についています。)
そのなかでとにかく特権階級で当時の公家たちでさえ食べるものには困窮していたときにさえ幹部出張には必ず陸軍省の息のかかった料亭での接待があり彼らは国民の困窮等どこ吹く風だったのでした。
彼らは本土決戦の名の下に多くの航空機 兵器 食料 物資等を温存し人々が困窮に喘ぐ中でさえ特権を欲しいままにしていたのです。
彼らは作戦に失敗すると更にそれを上回る無謀な作戦をたて犠牲を増やして行きました。
無謀な作戦の積み重ねによって戦線が分断され孤立した小部隊単位でジャングルに取り残されなんの物資支援も得られる事なく飢餓と病に倒れるような環境になってさえ降伏する事さえ許されずあげくは刀と銃剣で突撃し玉砕をさせられたのです。
これは同時に軍作戦司令部の証拠隠しにもなっていました。
東京大空襲 広島 長崎の原爆投下はなにをどう言い繕うが一般人の大量虐殺行為以外のなにものでもなく30万人もの人間が焼き殺されました。
ナチスのホロコーストを遥かにしのぐ人類史上最大の虐殺行為ですが戦後非難される事はなく第一次佐藤内閣は東京大空襲を立案したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章を与えています。
佐藤栄作はA級戦犯として拘留されていた岸信介(東條英機内閣の大東亜戦争開戦時の閣僚の一人でした終戦に際し彼が尽力したのは事実だが戦後アメリカの政策に呼応して統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」等にも非常に協力的である事も知られている)の実弟なのです。
そんな国の軍服を誰が喜べるというのでしょうか?
戦争が終わったばかりの時にこの国の殆どの人は軍服を廃棄して違うものに作り替えるか納屋の奥に仕舞い込みそのまま忘れてしまうかのどちらかの場合が殆どだったのです。
ですが70年と言う時間が経過し戦争をする人も少なくなり現在の政治的都合から奇妙に美化正当化されているように思えてなりません。
コスプレとして来て街を闊歩するにはあまりにも重い歴史を背負った服である事を忘れないで欲しいと願います。
この軍服をただカッコいい特攻した人達は英雄だからと美化して着てしまえるのならそれは歴史を検証し事実をきちんと認識せず奇妙なヒロイズムにとらわれた馬鹿者のすることだと私は考えます。
確かに戦争に行った多くの人達はこの国の家族や大切なものの為に闘ったのだと思いますがそれをコントロールして殺し合いをさせたのはこういった政治家官僚達であって本当はそういった事実がつまびらかにされ公の場できちんと議論されていたらもっと違う結果になり犠牲者の数も相当違っていたはずなのです。
現在多くの史実が都合よく解釈を変えて公開されていてウィキペディアの記事も変更されつつあります。
阿部政権は飾り物だと私は考えています。
現実には戦前の亡霊達が(実際にその子孫達が総理大臣を歴任していて阿部総理もその血脈の1人なのです)この国を ぼちぼちほとぼりがさめたなぁ 反攻勢力もなんとか力を削ぎおとしたしと手ぐすねをひいているようにしか思えないのです。
憲法9条を改正し徴兵制をひく 彼らが守りたいのはこの国の誇りや民族性やましてやこの国に暮らす人達の生活などではありません。
先祖伝来引き継いできた自分達の特権を守りたいだけなのです。
戦争は人類が作り出した最悪で最低の悲劇でそれの犠牲に供されるのは言葉巧みに操られた無辜の民なのです。
戦争を決してヒロイックに描く事も考える事もやるべきではありません。
戦争は当事者にとってはただただ悲惨で残虐なものに過ぎないという事実を忘れないで欲しいと思うのです。