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チトラのブログ

◆ 母の肺の腺がん ◆ 大きさステージⅣa 転移ステージⅡ 1010年9月28日判ったです ◆
肺の腺がん2020年9月16日に確定、2020年10月19日から初めての抗がん剤治療入院~翌月11月5日17時19分天国へ★あまりに急変で、置いて逝かれちゃった

闇屋から飲み屋にうつって、まだ私が幼稚園児の時、私の家から一分くらいの所に映画館(時々ストリップショーもやる)がありました。

当時やっていた映画に「鞍馬天狗(嵐勘十郎)」、「丹下左膳(大河内傳次郎)」、「七つの顔を持つ男(片岡千恵蔵)」が交互に上映されていて、私達兄弟(男三人女一人の4人兄弟でチトラは三番目にあたります)は、よく見に行っていました。

この俳優さん達は、独特の声と話し方で誰もが物まねしやすく、大人もよく物まねをして楽しんでいました。

特に子供の私達は、この俳優さん達の物まねでチャンバラごっこをやっていました。


当時は、巻尺がなく百センチの物差しでチャンバラごっこをやったり、探偵ごっこをしていましたが、主役は長男と二男がとってしまい、私や弟や兄貴達の友達はいつも斬られ役か悪人しかやらせてもらえませんでした。


雨の日などは、表へ行かれないので家の二階で、私も弟も兄貴達の友達もチャンバラをやるんですが、斬られ方が悪いとか死に方が駄目だとか、もっと真剣に振舞えと怒られ、出来ないとゲンコツやビンタをされ泣かされる事もたびたびの時、片岡千恵蔵の「遠山の金さん」が上映され、私は兄貴達が学校から帰ってくる前に、すぐ見に行き「遠山の金さん」のカッコよさにしびれ、今なら兄貴達はこの映画を見ていないので、金さんを知らないので、知られる前に主役が出来るな~と考えながら家に帰ると、誰もいなかった。


『また、親父が暴れてみんな逃げたんだな~』と思いながら(親父は酒乱で、暴れると危ないのでお袋も従業員もみんな店をおっぽりだして逃げてしまいます。親父が酔い潰れて寝てしまうか、よそへ喧嘩しに出て行かない限り、家には入る事も帰ることもできません。その為、私達兄弟は、お袋の知り合いの所へ、みんな着の身着のままで兄弟ばらばらで預けられることもたびたびでした。)、店の奥の座敷(居間兼親父とお袋の寝室)に行き、お袋の鏡台の前に私は座り、鏡にうつる自分を見ながら、どうやってみんなが驚くような金さんになって暴れてやろうと思いながら、ふと鏡台を見るとお袋の口紅があった。


私は口紅を見た瞬間、桜の刺青をしようとひらめいた。

もう、何にも考えず(今まで色んな子供たちがチャンバラごっこをやっていても、当時、刺青を書く子供は一人もいませんでした。)口紅で、自分の片肌に桜を書き、煙突のすすでまわりを書いて、書き終わって桜の刺青が見える片肌の姿を鏡で見た時、あまりのカッコよさにうっとりとして良い気持ちになり、兄貴達に見つからない内に、みんなに見せるため、遊びに行き、年下の子供達を集めて、思う存分金さん遊びをして、お腹がすいたので、家に帰ると、まだ誰も家には居ず、私は待つ間、いつのまにか疲れて寝てしまいました。


どのくらい寝たか分かりませんが、いきなりお袋の凄まじい怒鳴り声とともに額(ひたい)と頭と顔にすごい衝撃を受け、目を覚まし、あまりの痛さで目からは星が飛び、くらくらして、私はびっくりして火が付いたように大声で泣き叫びながら、私の前に立っているお袋を見ると、お袋は怒って凄い形相で目がつりあがり、兄弟達を大声で呼び、私の姿を兄弟達に見せた。


この時の私の姿は、額に大きなマンガで見るようなこぶと、鼻からは鼻血を出し、口の中は切れて顔中血だらけでした。

そして兄弟達に、お袋は『いいか!今度たとえ遊びでも身体に(チトラを指さしながら)こういう事をすると、こんなもんじゃあ済まないからな!二度とふたたび家には入れないからな!わかったか(怒鳴りつける)!分かったらさっさとこの馬鹿の身体をお前達で綺麗にふけ!』と言って、お袋は部屋から出て行ってしまった。


お袋がいなくなった途端、兄弟達は、お前のおかげで俺達まで怒られたと言って怒りながら、兄弟三人で身体を拭いてくれたが、その時から、兄弟達もお袋も何日も口を聞いてくれませんでした(ほとぼりが冷める迄はおとなしくしていましたが、ほとぼりが冷めると、またいつものように近所から怒鳴りこまれるガキ大将でした)。


そのこぶの跡は、今でもあります。

このブログを書きながら、娘と姪が今でも残っているそのこぶの跡を見て触って本当にまだ残っているとゲラゲラ笑っています。


前にもチトラの生い立ちで書きましたが、この凄まじい家庭環境と問題児のチトラは、こういう中で小学校に上がって、あいうえおが読み書き出来ると同時に母から、人間にとって大事な事が書いてある本を兄弟は読まされ、私はその他にバレエ、日本舞踊、和裁、華道(花の世界の名前をとった)、茶道を習わされ、また、中学時代には、母から「松下幸之助(お袋にお金をもらって本屋へ買いに行った)」を読まされ、兄貴達の影響で歴史、文化を読むようになり、地元の中高一貫の女学校入りましたが、喧嘩ばっかりして、素行が悪かったので、高校に上がる事を断られ、慌てた母は代々木の山野美容学校に私を入れました。(お袋は、家族の前で私の事を、『こんな馬鹿じゃたとえ貰い手があって結婚したとしても、すぐ離婚され、誰にも相手にされなくなるだろう。手に職をつけておけば、何とか一人になっても食っていけるだろう』と家族を前にして怒って言っていた。この山野美容学校は、何ヶ月か行きましたが、ずる休みと素行の悪さで、寮でずる休みをしてどんちゃん騒ぎをしている現場を先生方に押さえられ、退学のため、その場でお袋が呼び出されましたが、私は先生の隙を見て逃げ出し、持ち金60円を持ってそのままとんずらしました。※これらはチトラの生い立ちの方に詳しく書いてあります。)


本を読む事、習い事は当時、こんなものがなんの役にたつ。と思っていましたが、後に大きな社会、大きな世間に出た時、こういう事がどこかに身に付いていて助けられたり、教えられたりしながら、人からの信頼を生んだりして、大きな世間・社会の人達と交流して行ける事を知って行きました。


※何故お袋がここまでの大激怒をしたかというと、当時、刺青は人からも恐れられ嫌われ、ろくでもない(掃き溜め)人間のする事で、大きくなってからまともな所にも勤められず、社会にも信用されず、困るのは自分自身だという事で、ここまで怒ったのです。

今まで住んでいた住まい兼店は、国道になる為、私達は今の家から一分くらいのところの商店街に越し、そこで闇屋をやめて、今度は飲み屋を始めました。(闇屋とは、闇市のように個人の集合体が店を各々持ち寄るのではなく、私個人で営む警察に隠れてやる個人商店売買を闇屋といいました。飲み屋とは、女給をたくさん置いて酒を売る商売でした。今でいうホステスの仕事です)


女給さん達も綺麗な人達が何人もいて、店は最初から大繁盛していましたが、親父は女癖が悪く、また、酒乱でたえず店のお客様と喧嘩して暴れたり、また、女給さん達を手当たり次第に手を出そうとして、女給さんに噛みつけられたり、ひっかかれたり、大事な所を蹴っ飛ばされたりして、女給さん達に逃げられると酔っぱらって追いかけ、『この野郎!やらせろ!』と逃げ惑う女給さん達を追いかけたりしていて、店は親父がいる時は年中ガタガタしていました。(当時、店の主が女給さん女中さんに手を出す事は、珍しい事ではありませんでした。私はまだ小学校にも上がっていない子供でしたが、よく大人達が何人かでいると、どこどこのだれそれが腹ませたとか、手をつけたとか、妾にしたとか、夜逃げしたとか、子供が聞いていようが聞いていまいがそんな話は、朝晩の挨拶のような日常会話でした。)


また、運悪く捕まった女給さんをつかまえて犯し、腹ませる(妊娠)こともたびたびで、その女給さんの親兄弟に怒鳴りこまれたり、警察沙汰にされそうになり、お袋はその都度、親父の尻拭いで示談と謝りの状態が続き、店はこんな調子でもすごく儲かっていたが、ある時、親父がいつものように酔っぱらって包丁を振り回し、危なくって商売そっちのけで、みんな表に逃げ出し、お袋も表で親父が酔い潰れて寝るのを待っている時、お店のお客さまに声をかけられ話していると、親父が店の二階から顔を出し、やきもちを妬き、二階からお袋に怒鳴りつけた。


お袋に、『てめえ!このやろう!その男はなんだ!』と言って、お袋を捕まえようとして、二階から飛び降りた。

その結果、親父は足を骨折して、歩けるようになるまで骨接ぎに家に来てもらって、治療していた。

その間は、酒も飲めなく、借りて来た猫よりもおとなしく、お袋にも私達兄弟にも何時もの事だが優しかった。

でも、親父が歩けるようになれば、またこんな事が起きそうで、お袋は儲かっていたけど、親父がびっこでも歩けるようになった時、飲み屋をやめて和菓子と中華の食堂を始めました。


和菓子職人を雇い、見よう見まねで親父とお袋は、覚えた。

中華は、同じ商店街に中国人の人が経営する中華店があり、その中国の人に何日か来てもらい、中華の作り方を二人で教えてもらい、後は独自で色々勉強して自分ちの味を作りあげた。

当時は、こういった店はまだ商店街にも他でもあまりなかったので大繁盛したが、また酒を飲み始め、来る女中さん女中さんに手を出すので、来てもほとんどの人が怒ってすぐ辞めていく中で、もとの家のはす前の大衆演劇の劇場に勤めていた女性が女中として入って来ました。


この女性の事をこれからカネと書きます。

カネとチトラは、以前にカネが劇場に勤めていた時、はす前にいるチトラを可愛がって、劇場にただで出入りさせてくれていた仲です。

カネはうちに来るまで、戦前は静岡の農家の人でした。

11人兄弟で男一人のカネが長女でした。

戦前口減らしとして、カネは家の為に、東京に勤めに出された。


そして、勤め先でいじめまくられ、職場を何軒か転々としていた。(戦後、親兄弟は済まなかった悪かったという事で、カネを親兄弟が交代で迎えに来たが、カネは自分だけを出したという事を根に持って、頑として帰ろうとしなかった)

カネは、お袋を見ていて、その凄まじさにお袋をよく助け、お袋の変わりを私達にして、身の回りの世話から食事、弁当の世話まで、全部やってくれていました。


私はそんなカネをいつしかカネが母親で母を親父と思うように自然となっていきました。

やがて私達兄弟もみんな所帯を持ち、子供を全員持つようになって、私がS社に拾われて何年もしない内にカネは洗い場の仕事をしながら眠るがごとくうずくまって倒れ、息をひきとってしまいました。

(カネのことは、また葬式や入院の過程なども含めて、改めて書きます。)


それから何年かして、私は親父とカネのことが気にっていた。

あれだけ女癖の悪い親父が、本当にカネにはなんにもしなかったのか気になっていた。

そんなある日、日曜日で会社も休みで、実家の店も休みで、たまたまぶらっと実家に行くと、親父が奥の座敷で、良い気持ちで酒を飲んでいた。


酒乱になる一歩手前の、陽気な酒の酔い方だったので、カネのことを聞くのは今だと思って、親父に聞いてみた。

「親父、今日はご機嫌いいじゃない」と、私が声を掛けると。

親父は、「おうー!あーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」と、息が続かなくなるまで手を上にあげて、挨拶をいつものように返してきた。

たまに、親父はそのまま、ひっくり返る事もあった。

だいたい、ひっくり返る時は、酒乱が出る一歩手前で合った。

声が続かなくなる前に、やめれば、ご機嫌で陽気な酒が続き、べらべらと調子づいて、チンピラ風になって、しゃべり出す酒だった。

あんまり、悪態をつくと、よくお袋に「このチンピラ野郎!」と、怒鳴られる事もあった。


私は、親父とカネの思い出話を2-3してからカネの事を聞いてみた。

チトラ『親父さあ、私前からねー、気になっていて聞こうと思っていたんだけどさあ』

親父『なんでえ?』

チトラ『親父さあ、なんでカネに何にもしなかったの?何かあったの?』

親父(完全に調子づいて良く聞いてくれたというように身振り手振りを入れながら)『アイツをやっと捕まえて押し倒しやっつけてやろうと思ってアイツの顔を見たら、化け猫にそっくりな顔をしていて、気味が悪くなり、縮んじゃったのよー。あんな化け猫みたいな顔見たら、出来るわけねえだろう。それがどーしたい!』と芝居っけたっぷりにやるので、もうその話を聞きながら笑いが止まりませんでした。


その帰り道、私は、うちの実家に最後まで尽くしてくれたカネに親父と何もなかった事を心からほっとした。

※親父は近所の映画館にちょこちょこ出入りしていたので、化け猫の映画も当時見ており、その前に親父は飼いネコを殺したりいじめたりして、そのタタリをうけた事もあります。この事については、テーマ「チトラの生い立ち」の方に書いてあります。


※当時こんなこぼれ話もあります。

当時マスコミにものったので、そのまま書きます。

当時、新東宝の社長は、『女優を妾にしたんじゃない。妾を女優にしたんだ。それがどーしたい!』というような事を言って、それがすごい話題になっていた。

そして、その後、明治天皇の映画が上映されました。

大衆は、『こんなやつが明治天皇を上映するのか!』と笑っていました。

私は、ブログ「チトラの生い立ち」を書き終わりましたが、終わってからあまりにも書き忘れている事があり、すぐチトラの回想録を書こうと思い、タイトルを書いたところで、人工的な何か得体の知れない事に巻き込まれ、命の危険を感じ、すっかり体調を崩し、パソコンも打てない状態が何ヶ月も続きましたが、やっと四国八十八ヶ所巡りで復帰できるようになり、体調もだいぶ戻って来たので、中断していたチトラの回想録が更新できるようになりましたので、宜しくお願いいたします。


チトラのブログを途中から見て頂いている方もいるので、少々自己紹介をしたいと思います。


チトラの回想録を書く前に、チトラの生い立ち(http://ameblo.jp/mannosakura/theme-10026015725.html )を書いていました。

それは、今までの人生の中であった事、奇想天外、摩訶不思議、奇跡、修羅場の数々、超大馬鹿で読む方があまりの馬鹿さ加減に思わず吹き出したり、ど呆れ返るような事をやってきた私の長い人生を、人様の何かのお役に立てれば幸いと思って書いてきました。
ざっとの自己紹介ですみません。




私の父と母は、先祖代々は信州の地の者です。

私は戦争中は、兄弟4人(男3人の女1人の3番目です)と母方の実家に疎開していました。


戦争が終わり、東京の下町に帰ってきた時、私の家のはす前には、大衆演劇の劇場があり、3分くらい行ったところには、映画館(時にはストリップショー)もありました。


そして、3-4分くらいのところには、遊廓、ヤクザ一家、木賃宿(流れ者や住所不定者、金の無いもの達が集まるふきだまりでした)、漁師町、花町(芸者)があり、色々な職人がいる下町でした。


当時は、愚連隊というものも幅をきかしている下町でした。

そんな中、私の家から1分くらいのところにある公園では、野外のボクシングの興行も行われていました。


チトラのブログは、当時使っていた言葉で書きますので、聞き苦しいところもありましょうが、宜しくお願いいたします。


私達兄弟が、東京に帰って来た時、私の家は親父が酒癖が悪く、質の悪い酒乱で日通運送に勤めていましたが、親父は何回かクビになりそうになる度に、その都度、お袋が土下座して食い下がり、クビを免れていました。

※今では考えられませんが、当時は酒を飲んで運転し、荷物を運ぶ事もざらでした。ですが、お客様や仲間内などとの喧嘩などが続く内にさすがにクビになりました。


しかし、とうとうクビになり、働かないで毎日酒を飲み、暴れ回り、仕方なくお袋は家族を養う為に、闇屋をやって日銭をざくざく稼ぎまくっていましたが、毎日親父に金を出せと怒鳴られ、出さなきゃ血だらけになるまで殴られ、近所の人が警察に通報して、警察が止めに来たりする中で(当時は夫婦喧嘩で警察がくるのは日常茶飯事の事です。また、切ったはったの喧嘩も日常茶飯時でした。←「切った、刺した、はった=現代の言葉に直しますと、切ったは日本刀、刺したはドス、はったはちょっと幼かった私には理解できなかったので今持ってわかりません)、博打(ヤクザの賭場)でヤクザの付け馬(負けた博打の金を取るヤクザ者)を連れて来たり、芸者の付け馬、パンスケの付け馬、飲み屋の付け馬、遊廓の付け馬、を連れてくる日々でした。


親父の質の悪い酒乱はたえず、お袋は親父の事で色んな所から怒鳴りこまれたり、迎えに来させられたりしている中で、私も近所では、悪ガキで喧嘩しまくっていました。


ですので、私の事でも色々と怒鳴りこまれている中、ある日、私がいつものように暴れ遊び回って泥だらけになって青っ鼻を垂らして遊びから帰ると、見知らぬ男が座敷で血だらけになって寝倒れていたので、私は驚いてお袋のところに行き、「お母ちゃんあれだれだ?」と聞いた。

※お父ちゃん、お母ちゃんと呼んでいたのは、長男が中学に入るまでで、長男が中学生になった時、親父、お袋と呼ぶようになり、私達も同時に長男の言う事に従って、親父、お袋と呼ぶようになった。


お袋は、「チトラ、お前もお前だけど、全く馬鹿に付ける薬は無い。あの馬鹿親父は、ボクサーの4回戦ボーイのM田と喧嘩して、ボコボコにされているのに伸びないで何回もしつっこく立ち上がり、M田が気味が悪くなり、自分の親にばれたら大変だという事で(当時は、親を怖いと思う人が意外と多かった)、悪かったという事で私に(お袋)迎えに来てくれと反対に助けてくれと、来たから迎えに行ったら、M田の家の近くまで親父が『このやろ~、このやろ~』と唸りながら、あっちこっちつかまりながらいたので、M田と二人で抱えてきたところだ」と怒鳴ってはき捨てるようにチトラこと私に怒って言った。

※現代のテレビで見かけるボクシングなどの試合後の顔の腫れなど比べ物にならないほどの血腫れをおこし、自分の親である事が判別できないほど、驚愕しました。

※当時は、表では血だらけのしょっちゅう居たので気にもしていませんでしたが、ここまでのデコボコに血腫れした人間を初めて見て、驚愕し誰かが逃げ込んで座敷で倒れこんでいるんだと思っていました。当時は、血だらけになって人の家に飛び込むのはざらだったんですが、みんな巻き込まれたくないので、ほとんどいれませんでした。


それにしても、すごい顔だ。

とても親とは思えないほど、デコボコになって血腫れしていた。


10日くらい親父は、酒も飲めなく、おとなしく寝ていた。

お袋は、M田の事は、何一つ怒っていなかった。

それは、酒癖の悪い親父が、相手をそうさせた事を知っているから。


また、お袋にとってはその間は、親父も気が小さい人なので、酒を飲まなければ、母ちゃん母ちゃんと甘えて優しくなるので、お袋もその時だけは幸せを感じる時でもありました。

※血腫れして親父もこの時ばかりは10日以上お酒が飲めないで、寝ておとなしくしていました。

※年に2-3回ほど、10日前後飲み過ぎでお酒が飲めない日があり、その時はおとなしく真面目に仕事をしていました。


後に、M田は所帯を持ち、商売をし、私の子供達、甥、姪が出入りし、今またM田の子供達と猫を通じたお付き合いをしています。

M田は死んだけど、連れ添いは未だに私の事をチトラちゃん、チトラちゃんと声を掛けてくれて、色んな思い出話をして懐かしがってくれています。

姪たんこぶが旅行に行かれる状況が整い、急遽、旅行する事が決まりました。

娘のぶたうさぎと姪のたんこぶの四国八十八ヶ所の労をねぎらう為、どこへ行きたいか二人に聞いたところ、サンバレーへ行きたいという事で、急遽決まりました。


はとバスの那須サンバレー行き往復直行便で行く事になりました。


この旅は、那須サンバレーへ行くまでに、埼玉の久喜を通って、佐野藤岡を通って行くものでした。


私の長い人生の中の一つに、S社に拾われ、あれがS社の女人斬りと呼ばれている時に、私は、S社の埼玉の久喜白岡店、佐野藤岡店へと北へ北へと仕事を拡大していっていました。

その時の凄まじい光景が走馬灯のように流れる中、当時を思い出し、人の入れ替わりがチョー激しく、手が無く、娘ぶたうさぎと、予備校生の姪のたんこぶを学校をぎりぎりまで休ませ、従業員が落ち着くまで、仕事をやらした事を思い出し、その時の苦しかった話を笑い話として、和気あいあいとサンバレーへ着くまで、楽しく懐かしく語り、今日は徹底的に食べて、遊んで歌いまくろう!と馬鹿っ話に花を咲かせて本当にその通り、動けなくなるまで食べまくり、遊びまくり、カラオケしまくり、楽しい一泊二日の旅行を楽しみました。


もう思い残す事はあまりないので、これでチトラの回想録に突入していきますので、呆れずに、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


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サンバレーへ着きましたが、ぶたうさぎと、たんこぶがホテルを間違え私は頭に来て、傘でひっぱたいてやろうと思って追いかけたところ、ぶたうさぎにカメラを向けられ、あわててお笑いのポーズをとりました。(チトラ談)


二人が上記の話しの通りはしゃいでいる中、私は冷静な面持ちで二人を見つめていました。早く宿に着きたいなー(たんこぶ談)


母チトラは「お笑い」と思い。イトコたんこぶは「はしゃいでいる」と思い。

私は「一触即発の大バトル」と思っていたが、こうしてブログにしてみると、それぞれ感じ方が違うという事に気づき、改めて(((( ;°Д°))))ガクガクブルブルです。

でも、トータル楽しかったです。(ぶたうさぎ談)


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着いてすぐ、サンバレー内のレストランで遅い昼食を食べた。味は、とても美味しく、次の日のお昼もここで食べました。写真の盛り付けは下手ですが、味は全て良く大満足!しました。ここで動けなくなるほど、食べまくってしまい、家に帰っても苦しかったです。おいちかったーーー。(チトラ談)


ホテルの食事よりここのが美味しく、冷ややっことチョコのケーキが抜群に美味しかったです。後、二人がうどんうどんと言っていたので、試してみたら本当にもちもちして美味しかったです。食べ放題にしては大満点かと思います(たんこぶ談)


ぶたうさぎ的には、「とうもろこし」と「水菓子」と「黒毛和牛のカレーの肉」が大満足でした。

普段、飲み物などは私か、たんこぶがチトラの分を取りに行くのですが、この時ばかりは腹がぱんぱんでチトラが珍しく自給自足をし、また私たちに「なに食べる?」と聞いてくるくらいヒットポイントがあった。(ぶたうさぎ談)


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演歌、軍歌、声が出なくなるほど、ノリまくり歌いまくりました!大満足です!(チトラ談)


いい写真が撮れました(・ω・)/(たんこぶ談)


アニメソングオンリーで2時間とっても楽しかったです。

欲を言えばボーカロイドも入っていると嬉しかったです。

傾き者恋歌、ノリノリです!もう一時間延長したかったけど、夕食の時間が迫っていたので、残念でした。(ぶたうさぎ談おりゃおりゃ)


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二日目のお昼も同じレストランで、大満足して隣にある教会の庭で写真を撮りました。この時、食べ過ぎて苦しくって動くのがやっとの状態で撮りました。(チトラ談)


二日目も美味しいランチで、隣の教会も日当たりが良くとてもメルヘン的で綺麗でよかったです(たんこぶ談)


朝ごはんを食べて、一時間半ほど横になり、チェックアウトを済ませて、一時間ほどアクアヴィーナスでたんこぶと泳ぎました。そして、またお昼ご飯を動けなくなるほど食べてしまいました。(ぶたうさぎ談)



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この洋服は、ぶかぶかだったのに、たった一日で、はちきれんばっかりに、きつくなってしまいました。痩せなくては!と反省してみたものの、後の祭りなり。(チトラ談)


一泊二日の旅行では初めてのバス旅行でしたが、近場だったせいかそんなには時間もかからず、チトラが電車の座席とりに若いサラリーマンとギラギラ火花を散らすも、惜しくも惨敗。など、本とうに楽しい旅行でした。次は、電車のツアーがいいなーーーヾ(@^(∞)^@)ノ(たんこぶ談)


食った!泳いだ!歌った!楽しかった!今度はまた近い内に行けたらいいなーーー(ぶたうさぎ談)

当日頂いた日程表のパンフレットです。

(これとほとんど変わらないものを東京にいる間にもメールでいただきました)
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常にトイレ以外はサポートして頂き、一人でどこかに見て来て下さいと言われず、必ず全ての場所に着いてきて、説明と写真を撮っていただきました。




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↑この車で便利屋さんと   四国村

楽しい四国八十八ヶ所の

楽しい旅をさせて

頂きました。

ありがとうございました。

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血の池             壇ノ浦
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金毘羅宮入口         国指定重要文化財の歌舞伎場

                     旧金毘羅大芝居(通称金丸座)
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便利屋さんに探して頂いた  赤と緑のお札を頂いた

銀色の6枚のお札です     のですが、なぜか不思議

                   な事に緑のお札は白に

                   変わっていました。



二回の四国八十八ヶ所巡りですが、その2回とも生涯忘れられないほどの不思議な体験をさせていただきました。

ありがとうございました。