今日は、ずっと
母チトラが アイコン変えろ!変えろ!うるちゃーので(笑
しょうがない!変えてみた次第にありんす☆
そのうち、母チトラのほうのブログも再開して行きます☆
その時は☆よろしくお願いしますです☆
ちなみに、私は動画で再開しようと言っているのですが
母チトラが 書くほうがいいと言うので
いま、調整中です(笑
元夫Hが警察から出て来てから、輸入業の会社を立ち上げた。(この時の資金一千万は、チトラの親兄弟の保証人で借りる事が出来た。)
元夫Hは、ブランド品の販売業は飲み屋のカモフラージュに始めたが、自宅でも飲み屋を続けていた。
しかし、以前警察に捕まった事が要因で自宅では出来なくなったので、場所を変えざるを得なかった。
その飲み行為をするのに部屋が急遽必要になったので、不動産屋を通さず借りられる近所のレストラン&喫茶店兼自宅の2階を借りる事にした。
※オーナーは博打はしませんでしたが、レース鳩を通しての元夫Hとの友達でしたが、レース鳩に関しては元夫Hと賞金行為をしていました。
※オーナーの息子と私の元夫Hは中学時代の同級生でした。
※オーナーとチトラの母は家族ぐるみの長い付き合いでした。
けれど、私達夫婦は、元夫Hだけが二階の空いている部屋を貸してくれと言っても断れる事が分かっていたので、チトラの母親の信用を盾にとって、このレストラン喫茶の二階の部屋を借りる事ができた。
※チトラの母はこのことは一切知らない。
※オーナー夫妻の息子さんと元夫Hとは同級生でもあったがオーナー家族は内心私チトラの元夫Hを嫌っていた。当時、元夫Hを嫌っていたのは、同級生や町の人は結構いてよく私に元夫Hをあんな奴は簡単にやれるがやると兄貴(元夫Hの兄)がいるからやらないだけだとか、汚ねえやつだと陰で言われていた。
※毎月の部屋代は微々たる金額で貸してくれました。
※土日だけ一室を借りていた。
元夫Hの親兄弟は、評判も悪く世間・社会の信用はゼロで当時は、誰も金融機関から借りられる信用がなかった。
そのため、何をするにしても保証人として私の親兄弟達の信用が必要不可欠で私達は私の身内に頼らざるを得なかった。
そして飲み屋の場所が無事決まった事もあり、自宅を輸入業の事務所にして始めた。
後に知った事ですが、この輸入業には元夫Hの愛人が絡んでいた。
そして、その愛人を介して怪しげな人物とつきあうようになり、ブランド品は全て偽物を扱うようになり、すぐにお客様とトラブルになった。
私は、拒否する元夫Hを説き伏せて全てのお客様に私チトラが私個人の資産から弁償した。
そして、輸入業をやめた。
しばらくたって今度は、田町の学生街でちょっと大きめの喫茶店をする事になった。
この喫茶店(建物の所有権と敷地権は別。二者間に血縁関係は無し)の持ち主は帰国子女で海外生活を送っていた事があったため、なんでもかんでも裁判すればいいという考え方の持ち主であった。これにより、地主を訴えた裁判があった。
※この裁判には勝っていた。
借りるにあたって、譲渡権利一千万で売り買いという話しであったのだが、持ち主があまりも法律法律と持ちだし、以前契約途中で訴訟問題になり勝った事があるなどと言って、日本人の感覚とはずれていると思ったので、私も元夫Hも法律を知らないので怖くなり、弁護士をつけて売買契約をする事としたが、そこで喫茶店の地主から待ったがかかった。
※当時は、土地所有者と物件所有者が別だったので、こういう裁判沙汰は年中あちこちであった。
※チトラの地元一帯でもこういったトラブルはそこかしこであった。チトラの実家の飲食店も例にもれず土地は地主のもので建物はチトラの実家が所有していた。
その待ったとは、地主と建物所有者(建物の所有者と私達チトラ夫妻は建物の売買の話しをすすめていた)の間で話しが付かず一カ月くらい期間が必要との事だった。
※当時はこういった胸三寸の事が多かった。
※この店とは、私達が借りる予定の喫茶店で、当時はまだ建物の所有者が喫茶店営業を続けていた。一ヶ月間の猶予を一方的に作られた事もあり、私達夫妻うは無賃金で喫茶店経営の仕方を教わる事にした。この時すでに、一千万のお金は、この建物の所有者に弁護士を通して渡していた。
※無賃金だったのは私チトラと建物の所有者との仕事を覚える為合意の上でした。
無賃で手伝う中、当時は学生街と言うのは、家賃を払わなければやれるところなんだなーということが分かってきた。
※上記は当時のチトラの等身大の感想です。実際の利益や何かとはまた別問題になると思います。
※当時聞いた話しですが、こういう学生街の物件を売る時は、長期の休みを避けた繁盛期のみをクローズアップして売りに出したり貸したりするので、借りたり買った方は学生の長期休みに入って慌てて採算がとれない事に気づき、売りに出したり貸しに出したりする事が多かったそうです。
お客様は全部学生で毎日この建物の所有者の「訴えて裁判をしろ」とか、「法律はこうだああだで裁判を起こせ」だ、「何事も話しあいではなく裁判でする」っていうそういう話題だけでした。学生たちもその話に胸を熱くして聞き入っていました。
ちなみに、建物の所有者は毎回地主と裁判して勝った事を自慢していて、耳にたこができるくらいひどかった。
やがて一カ月がたった時、この建物の所有者から地主の所に最後の話しあいにゆくので、私達夫妻にも一緒に同行してほしいと頼まれ、一緒に同行した。
私たちは地主の家にゆくと地主はテーブルに私達をつかせて私と元夫Hに「あなた達には恨みもつらみもないけど、こいつには(喫茶店の持ち主。建物の所有者)ある。こいつの死んだ親父さんとは、いつも話しあいでお互いに気持良くやってきたが、こいつは話を頑として聞かないで裁判にかけた。なんでもかんでも法律じゃないだろう。俺はあんた達には、うらみつらみもないけど、こいつだけは絶対に許さない。俺の承諾が無い限りこいつは売る事は出来ない」と一方的に言って話しは終わった。
裁判に勝っても対人で負けるという事がある事をこの時知った。この後、こういう話しを何回か見聞きした事があります。
店(学生街の喫茶店)が出来なくなった以上、払ったお金を返してもらわなければいけませんが、この時、元夫Hは自分が話をつけるからと言って私を外した。
※この話は当時は分からなかったけど、嘘だったと私は思っている。まとまったお金を自分が好き勝手に使いたかったからだと後で、何事もわかることが多いもんです。
それからの元夫Hは、生活費を渋るようになり、私が金貸しで稼ぐように巧みに誘導するようになった。
※十一から週一に入っていった。(十一とは十日で一割。週一とは一週間で一割の利子での金貸しです)
今まであぶく銭で贅沢三昧してきた私は、十一(といち)に精を出すようになり、稼ぎ出すと元夫Hは、また私が別れたいと言うように精神的苦痛だけを与えてきて、もう我慢の限界を超え、私は別れて子供達と人生を出直すのは今だなーと思い元夫Hに別れ話を切り出した。
※愛人の件
※生活費を渋ってきた
※部屋の掃除のチェックから、炊事・洗濯・家事のチェックなど無言のプレッシャー、圧力をかけるようになってきた
※神社仏閣、先祖代々に対し手を合わす私に「馬鹿、キチガイ」と必要以上に罵るようになり、激しさを増した。
※私チトラの友達の女性にもわいせつ的な事をするようになり、女性から私に耳うちされた。一例として私の実の兄貴からも私が長女を妊娠中「これは言おうかどうか迷ったんだけど、言わないわけにはいかないから言うけど、H(私の元夫)はM子(兄貴の嫁の実姉)の部屋に居座って出て行かないから困っているからなんとかしてくれ。一緒になりたいと言っている。チトラとは別れるから一緒になってくれと毎日居座っているから部屋に帰れない。どうにかしてくれと言っている」と再三言われた。また、一例として女学校の後輩とも同じ事をやって、その後輩からも何とかしてくれと同じ事を言われた。元夫Hは私の目の前でばれると髪を切って坊主にして泣いて謝ったりしていた。
女に対してはだらしのない人でした。そういう事が段々精神的苦しみにあった。
※今だから言えますが、こういう事を繰り返されるうちに「なにか私が間違っているのか?考え方が間違っているんじゃないか?」とさいなまれるようになって、色んな本を読むようになった。
(娘豚うさぎ談:これを読んで我が母チトラながら大爆笑してしまった。ダメ男にひっかかる女の典型じゃないか!負の連鎖、ダメ男とダメ女の王道じゃん。姪たんこぶも同様に大爆笑して、笑いが止まらず突っ込みどころ満載でどこから突っ込んでいいか分からないぐらいだった。チトラ憮然としている。)
元夫Hは待っていたかのように私に、「別れてもいいよ、その代わり今家にある現金は半分づつだ。」と言ってきた。(この時、親兄弟の保証人で二度目の借りたお金があったが半分ぐらいはもう十一と週一にまわっていた)
元夫Hは、「お前は金を貸している利子で十分食っていけるんだからお互いに綺麗に別れようぜ」と言ってきて、すぐお互いに離婚届にサインをして役所に出した。(この時、もう4度~5度の離婚届で戸籍謄本はすごい凄まじいことになっていた。そして私の顔は精神的苦痛のあまり、すごいシワが顔中きざまれていた。自分で鏡で見てびっくりした。)
別れてからも、この時の精神的苦痛は何年も繰り返され、続いていた。
身体が変調をきたし、しばらくの間は寝たり起きたりを繰り返していた。
そんな中、私は別れた元夫Hが私と別れたくって精神的苦痛を与えていた事を元夫Hと私の共通の知人から聞いた。
また、愛人と良い生活をしながらじゃれあい楽しく暮らしている事を知り、愛人には楽をさせ良い思いをさせて、私には苦しみだけしか与えなかった元夫Hに腹をたて、前後の見境なく憎しみとあの野郎と怒りが爆発し、私は元夫Hは裸で私の所に来て全ての面倒を見て来たのにと怒りでいっぱいになり、持って行ったお金を取り戻して徹底的にむしり取ってやろうと心に決め、愛人と暮らしている家を突き止め、私が取り立てをやらしている若い者を連れて、愛人と暮らしているマンションに夜行った。
部屋は電気がついていてドアの隣の窓が少し開いていた。
窓をのぞくと誰もいないように見えたが(元夫Hは並みのケチではなく部屋の電気は使っている所以外は全部消す人で電気を付けっぱなしで出歩く事がないことはわかっていたから居留守だということはすぐわかった。)、窓を目いっぱい開け、部屋を見ると部屋のタンスに元夫Hのズボンが掛っていて、壁にはコートがかかっていたので、隠れている事はすぐわかった。(この時、二人はナニをしてお風呂から出たばっかりの所であった)
「あの野郎!感づいて居留守を使っているな!!」と直ぐ分り、私は窓から元夫Hに声を掛けた。
「出てこないと、ぶち壊して入るぞ!」と何度か怒鳴ったが返事が無いので私は、「これが最後だ!なめるんじゃないよ!出てこい!!」と怒鳴ると、隠れていた元夫Hは目の前の窓の下から、上ににゅっと出て来た。女もパニックになり、壁に張り付いていた。
元夫Hは、私が怒ったらどういうことになるか知っているから、チトラに殺されると思ってパニックになっていた。
しどろもどろになっていたが、「表に出ろ!」と言ったが、中々出てこないので、「なら叩き壊して入るぞ!」と怒鳴ると、やっと観念して出てきたが、元夫Hは若い者にすがりつき、「頼むからチトラが手を出せないようにしてくれ」と話してきましたが、若い者はもともと元夫Hを人間的にも金にも汚い奴だと思って嫌っていたので、とりあわず相手にせず一切聞き入れず私の指示に従っていた。
私は、パニックになっている元夫Hに持って行ったお金を全部返せと言って、恐れでパニックになっている元夫Hから通帳と印鑑と少々の現金をしめあげながら出させ、その日は帰ったが、どうにも私は腹の虫がおさまらず、私は今度は愛人と暮らして飲み行為をしている時に若い者と行ってお金を巻き上げようとしたが、元夫Hは警察を呼んだ。
当時は、元夫Hもヤクザを使うと後が面倒くさいという事を留置所の中の人達からも聞いていて知っていた。(この留置場時代に悪知恵などを見聞きして、さらに元夫Hの悪知恵に磨きがかかっていた。)
私は、警察が来てもこちらも腹をくくってきているから驚きもしなかった。元夫Hだけが警察を呼んでおいて、しどろもどろの受け答えしかできなかった。
そんな事を1~2回繰り返すうちに面倒くさくなった私は、若い者を連れて警察官と元夫Hの前を堂々と帰って来た。
そして後は若い者に、元夫Hをどうにでもしていいよ、いい金づるだよと言って任せた。
後に若い者から聞いた話しですが、「お金にしようと思って何回も行ったが金に汚ねえ事は知っていたけど、まったく渋ちんでいくらしめあげても一銭も出なくて、しまいにはこっちが音をあげちゃいますよ」と言っていた。
私も一段落がつきこんな暮らしをしていてはいけないと思い、子供達の為にもお天道様の下を堂々と歩けるようにちゃんとした仕事につかなければならないと、今までの自分を反省して出直そうと心に決め、何でもいいから仕事をしなければと思い、不動産屋に店を探す前にどの方位がいいか行者のところへ聞きに行った。
ところが、この年は暗剣殺の八方塞がりの大凶の年だと言われ、一年ちょっとの間は何にもしてはいけないと言われたが、私は世間社会とは表もありゃあ裏もある、必ず抜け道はあるはずだと思い、必死でその抜け道を探すのに行者・占い師の間を十軒渡り歩いたが、十軒中十軒ともまったく同じ事を言われた。
それは、親元で一年間じーっっと静かにして八方塞がりがあけるその時期まで親元の店を手伝っていなさい、何もしないで親元でじっとおとなくして手伝っていなさいという事であった。(こちらの詳細はチトラの生い立ちの方に詳しく書いてありますので、そちらをご参照ください)
※この時の愛人についての後日談
この愛人は、元夫Hと一緒になるまでの間に、後で知った事ですが、私と同じような事をされ、4回~5回別れたりくっついたりの繰り返しで、その間に精神的苦痛から精神科に入退院を繰り返していた。
そして、最後は初めて元夫Hと籍は入れたが、二年くらいで別れた。
その間、私と同じように精神的苦痛を味わった事を後で知りました。
それをずーっと後になって知った時、心の底から気の毒だと思いました。
また、一例ですが、この女性と元夫Hと私との間では、元夫Hがどちらにも「あいつと今すぐ別れるから一緒になってくれ」と泣いて土下座を繰り返し、女性から電話があると、私に今の話しは無かった事にしてくれと、とんぼ返りする事もありました。
そして後日、返金指定日に元夫Hは払ったお金を取りに行くと言って出て行って帰ってきてから私に、「あの馬鹿息子、お金は借金にあてて払えないと泣きをいれてきて月賦で返すと言う事になった」と私に怒りながら言った。その間、仕事を覚える為に私達は、朝から晩まで店に出入りして手伝っていた。このオーナー夫妻とその息子は自宅の一室を貸すにあたって、私に「私達はチトラのお母さんと長い友達でもあり、チトラさんの事もよくしっているから部屋を貸すのよ、元夫Hだけだったら断わったよ」と、お袋の信用の元に借す事を快く承諾してくれた。初めて見る方には突拍子もない話しになってしまうところがありますが、このブログは前に書いたチトラの生い立ちの回想録なので、詳しい事はチトラの生い立ちに書いてありますので、そちらの方を見て頂ければ理解しやすいと思います。
元夫Hの仕事が廃止になり、私も子供がいるので母から任されていた店を辞め、母の信用で元夫Hと当時町一番の大きな麻雀店を居抜き譲渡で借りる事が出来た。
開店当初、店は忙しく1歳半の娘を知り合いに預け、元夫Hは麻雀をやりながら仕入れをしたり、また仕入れと言っては色々な女の所に行っていた。
そんな中、娘は知り合いの所に懐かず、仕方なく店に連れて行き娘の世話をしながら店をやっていたが、次の子供が出来て仕事に支障が出てきた。すると、元夫Hは自分に負担がかかって遊べなくなるので、なんだかんだと口実を作って、元夫Hの知り合いにお店を譲り、又貸しをして麻雀屋を辞めて、今度は競馬ののみ屋を始めた。
当時、町の商店街では競馬や賭け麻雀をやる人が多く、競馬をやるお店の人は馬券を買いに行けない人が多く、飲んでしまう人もいて(飲んでしまうとは、博打用語として使われており、意味は頼まれた馬券のお金を自分が使いこんでしまう事。それは、ほとんどの場合当たり馬券になることはなかったので、喧嘩になる事はありませんでしたが、それでもたまに当たり馬券が出てしまい、あちこちの店で払い戻しされる事がないので喧嘩になることもざらでした。警察を入れることも勿論お互いにしなかった。これらの行為を含めて、お金を預かる方は買っても負けても払い戻す気がないので、「お金を飲む=払い戻さない、のみ行為」となるわけです。素人同士なので殺し合いはありませんでした。素人が勝手に親をやり張ったお金に払い戻さないので喧嘩になるのは当然です。これが親の丸儲けかもしれません)、それほど競馬ののみ行為というものを悪い事だと思っている人は少なかった。
一番警戒したのはヤクザで、ヤクザに見つかると骨の髄まで絞り取られてしまう事を当時の町の人達は警戒して用心して知っていた。
競馬で警察に捕まる事は、二十日か二十一日の拘束で済む。略式裁判で「後腐れが無い」との認識だった。
私の兄弟のうち長男は麻雀はしたが競馬はやらなかった。三男は父母と食堂をやっていて親父と競馬を楽しんでいた。
二男は、レストラン兼喫茶店をやっていて、当時インベーダーでぼろ儲けしていて、店でも競馬をお客と一緒にやっていた。
※後にこの時儲けたお金は、全部女房に使われヤクザもんまで入ってピストルまでちらつかされ、借金をおしつけられ離婚したが、子供も三人引き取った。
※インベーダーの収益で、3人の子供の一番年上の長男は当時小学校低学年で親元を離れ一月ほど海外へ外遊させてもらっていた。
※当時インベーダーゲームだけで一つの喫茶店が20万~100万以上の売り上げがあった。
※二男は男兄弟3人の中では一番大きな店をやっていた。
この二男は、当時うちの客(のみ屋稼業でした)だった。
でも、ヤクザには警戒しても警察には警戒心が無く、あんまり大っぴらにやるので、再三注意した。
そして私は、元夫Hと二男に忠告した。
「捕まった時は一人で背負え」
当時町の商店街で競馬ののみ屋を利用したりするものは暗黙の了解の内にこういう事はみんな承知していた。
たとえば三人捕まってもその三人以外は口を割らないと言った事である。
それと、当時賭け麻雀や競馬ののみ行為で捕まる者も結構いたので、悪い事というよりかは笑い話として済まされる風習・風潮があった。
そんな中、二男のやつはとうとう警察に現行犯で捕まってしまった。(くしくも田中角栄と同じ時に逮捕された)
お袋はびっくりするのと同時に相当な心痛を抱えて、二男が拘留された二十一日間ずっと毎日のように警察に行っていた。
そしてもらい下げてきた。
二男は出所後、お袋のいない所で、拘留中の話しを面白おかしく私達や店の客に語って楽しんでいた。
お客も喜んで聞きに来ていた。
二男が捕まった事によって、元夫Hもチョー警戒しながらのみ行為を続けている頃、私は商店の人から声をかけられ(この人とそのグループは賭け麻雀千点2000円~5000円をやったり、競馬や花札賭博もやっていて、この中にヤクザはいなかった)、十一(といち)でお金を回してくれと言われ、知らない仲ではないので、回してやったのが始まりで十一の世界に私は入って行った。(当時、サイコロ賭博も町の人はよくやっていて、私も顔があえば挨拶がわりのようにサイコロ賭博をやったりしていた)
当時は、おもちゃ屋、文房具屋、タバコ屋でサイコロも花札も簡単に手に入った。
こういう中、元夫Hとは三回から四回離婚したが、その都度すぐ帰って来て、目の前で自分が悪かったとしがみつかれ、泣きくずれてこられ、やり直しの繰り返しをしながら十一稼業から週一稼業になる頃、元夫Hはのみ行為で捕まった。
そしてすぐ弁護士をつけたが、元夫Hはこの弁護士を愛人との連絡に使っていた。
(私がつけた弁護士なのに、その弁護士は夫側について愛人の事は一切何も私には言わなかった)
私が小学校にあがって、-あいうえおーが読み書きできるようになると、お袋は私達兄弟に『倫理』という本を読むように強制し、私たちはそれを読まされました。(弟は心臓弁膜症で医者からいつ死ぬか分からないからという事で、弟だけは勉強の事は生きてくれさえいればいいという事で、お袋は勉強に関しては何も教えなかったし、させなかった)
そんなある日、店の前に見たこともない黒塗りの運転手付きの車が止まっていた。
私は、すごいなあ!こんな車に乗る人がこの町にいるのかなあ!と思いながら、店の裏口の厨房から家に入ると、見た事も無いおばさんが毛皮をまといスゴイ着物を着て、親父とお袋と談笑していた。
お袋は、私を見ると「チトラこっちに来て挨拶しなさい。このおばさんは私の従姉妹でH子さんというんだよ。お前のおばさんに当たる人だよ。」と言われ、挨拶するとH子おばさんは両手を広げて、「チトラちゃんか。いなかでだいぶ暴れていたと聞いたよ」と言いながら、十本の指が私に見えるように見せた。
その十本の指には、親指をぬかして八個の色とりどりのスゴイ指輪がはめられていた。
私は、あまりの超豪華さに子供ながら圧倒されてしまいました。
当時は、まだバナナが高価の時代でした。
H子おばさんは、その高価なバナナを運転手に持ってこさせ、どんとお土産として置いて行った。
その一瞬、まるで夢のようでした。
私は、うちにこんなスゴイ親戚がいたのかと驚きました。
H子おばさんが帰り、私達兄弟はお袋に一体あのH子おばさんは何をしている人かと聞くと、お袋は親父と二人でH子おばさんの話をしてくれました。(H子おばさんの夫は在日韓国人の人です)
戦前、外国人と結婚すると親も兄弟も親戚も遠のいてしまい(当時は中国・韓国・西洋関係なく、外国人との結婚は身内・地域に差別されていました。理由は「国を売るのか」「よそもんが」「毛唐」などの排他的背景が強かったんだと思います)、H子おばさんはいかに言いつくせない苦労を強いられ、してきたかと言う事を母から聞かされ、そして戦後H子おばとその夫は、夫婦で東京でパチンコ屋をやり大繁盛して、家作(かさく)も買い、大金持ちになり今はパチンコ屋の会長になって(パチンコ屋の初代会長になった)、大出世して落ち着いたので、遊びに来たという事でした。
それからしばらくしてから、毎日『倫理』を読まされる中、お袋は、今日は日本にも素晴らしい物があると言って私達兄弟4人を歌舞伎に連れて行ってくれました。
当時は、靴を履いている子供はまだ少なく私達は、下駄の生活だったので、劇場に行くと草履に履き替えさせられて、お袋に歌舞伎を見るマナーと行儀良く見る事を教えられ、初めて見た歌舞伎は、最近知った事なんですが、『伊達の十役』でした。
それから何回か色んな歌舞伎を見せられ、そのたびにマナーと行儀を教えられました。
私達兄弟の遊びも自然と歌舞伎遊びになっていく中、お袋は今度はこれからの時代はこういう物も見なければいけないと初めて洋画の『ディズニーのファンタジア~魔法使いの弟子~(1940年)』に連れて行ってくれました。
初めて見た洋画に私達兄弟は、あまりのスゴサにびっくりすると同時に画面の中に引きこまれ、興奮しまくり家へ帰って来てからすぐ今までの全ての遊びをやめて、来る日も来る日も兄弟でオズの魔法使いとか、ファンタジーの中でやっていた中国のきのこ踊りだとか、ミノタウロスの踊りをやったりしていました。
この時の遊びは、兄貴達もいつもなら主役のミッキーマウスを取るのに、この時ばっかしは私や弟がミッキーマウスをやっても兄貴達が怒らなかったので、余計面白かった。この遊びは一番長く続いた。
この映画がきっかけで、名作と言われる映画は親と兄貴達の影響でほとんど見ている。
中でも「ウエストサイド物語」は三回見た。
これには、兄貴達二人が指を鳴らしてかぶれていた。
また、長男の兄貴は喧嘩用に自転車のチェーンを探し回ってやっと手に入れ、何度か喧嘩をしてきたようでした。
また、空手で拳を鍛えるため、板を二~三枚叩き割り、拳を握り締めてコブが良く見えるように振り上げて、私達三兄弟に「喧嘩はこうやるんだぞ!」とすごんでみせて悦に入っていた。
当時私達下の三兄弟は、長男の兄貴の鍛える姿を見せられて「すげーな。すげーな」と言いながら、兄貴に向かってウエストサイドストーリーのように両手で鳴らない指を鳴らし兄貴にじり寄って行った。
すると、長男の兄貴もより気分が高まり、拳を振り上げて「うぉおおお!」とすごんでくるので、、そうすると私達三兄弟は逃げて行くという流れで、それが定着した遊びなりました。
この遊びもしばらく飽きる迄つづきました。
ウエストサイドストーリーの不良ごっこと銘打って盛んに遊びました。
私は、ジョージ・チャキリスという俳優が来ていた黒のスーツに紫のシャツの格好がしたくて当時探したけれどサイズがまるっきりなかったりして、ついに着る事はかないませんでした。
※後にお袋が死ぬ五年くらい前に聞いた話しですが、H子おばさんは、夫の在日韓国人の男性との間に出来た一人息子を交通事故で亡くしました。
その時一人息子には、韓国人の奥さんとその間に子供がいました。
そして、夫の韓国人男性も亡くなり莫大な遺産をH子おばさんが全て引き継ぎました。
この時、H子おばさんに一人息子の韓国人女性の奥さんと子供達から、「これからは、おばあちゃんを大事にしていきます。」と口ぐちに言われて、H子おばさんもお袋のところに来ては、「幸せだ。良い嫁と孫達に恵まれて、本当に幸せだ」と言っていたが、間もなくして故夫の隠し妻と娘二人が名乗りをあげてきました。
その途端に、今までの嫁と孫の態度ががらっと変わり、「くそばばあ。早く財産を分けろ」とぎゃあぎゃあ騒ぐようになり、H子おばさんはいたたまれず、何回もお袋のところへ(H子おばさんはお袋の事を「姉さん姉さん」とよんでいた。)「姉さん姉さん」と来て、愚痴をいうようになり、しまいには「もう誰にも財産をやらない。国に全て自分の面倒も見てもらう代わりに全ての財産をやる」とまで言い出し、泣きに来ることが多くなっていきました。
そんな中、お袋の家も嫁(三男の嫁)と舅(お袋の夫)の普通じゃない問題が毎日起こり、ついにお袋も精神的にハエがたかるほどズタズタになって倒れて入退院を繰り返すようになり、H子おばさんの話もどうなったか聞く事ができなくなりました。(お袋の入退院の話しはチトラの生い立ちの方に書いてありますので、そちらの方をみてください)
私がまだ小学校へ入った頃の町には、色んな地元の名物人と言われる人達がいました。
その中の一人に町の人達からTの親分と呼ばれている人がいました。(子分は一人もいませんでした。)
Tの親分に関して、いくつかの説があるので良く分かりませんが、元は良い所の若旦那だったが、ヤクザもんにおだてられて身体に刺青をし、親分とおだてられて財をなくして家族で近所に住んでいますが、家族の方々はそういう人との関係がなく、品があって真面目な人達ですが、Tの親分だけが「Tの親分」とヤクザもんにおだてられて華やかに肩で風切っていた時の事が忘れられず、そういった行動も捨てられずいつも一人で気持ち良くいきがって町を歩き流しながら町の人や子供に芝居がかった口調で声をかけていた。
『おおう!どうだい!儲かってるかい?そうかいそうかい。」とか、家のお袋をみるとお袋に『母ちゃん、てえーへんだなー。てえへんな親父を持っちゃったなー。頑張れよ!』とか、子供達をみると、子供に『早く家にけえって手伝えよ』とか『勉強しろよ!』とか言って私を見ると(私は親分には、店の屋号で呼ばれていました)『N屋!喧嘩ばっかりしてんじゃねえぞう!かあちゃんのいう事を聞くんだぞ!あぁん?』と言って凄みをきかすが、全てが芝居がかっていて私は、口答えはしませんがおどけて『へぇえ!』と言ってやり過ごしますが、他の私と同じようなまだ悪ガキと呼ばれるようなチンピラの構成員みたいなのは、馬鹿だからやり過ごす事ができず良く喧嘩していました。
※その中の一人に私の元夫が加わっていました。
悪ガキにT親分は、『お前の時代は終わったんだよ!てめぇえこそ家に引っ込んでろ!』と言われ、よく悪ガキと喧嘩していました。
T親分は、洋服を来たところは見た事がありません。
ほとんどが着流しで下駄、冬は着流しにマントを羽織り、町を気持ちよく肩で風切ってふんぞり返って歩いていました。
夏は、親分の一番楽しい時期で、商店街にある銭湯に毎日行き、毎日白のふんどし一丁で背中の刺青を出して気持ち良さそうにいきがってふんぞり返って行き帰りを楽しんでいましたが、町の人達は陰で笑っていました。
T親分は、まだ自分を若いと思って、ふんどし一丁で刺青を見せつけて歩いていますが、その刺青は年とともに色あせ、シワがよっていてちっとも格好良くありませんでしたが、T親分は全く気がついていないので、まるで喜劇役者が歩いているようでした。
その頃のチトラの親父は、近所の家にあがりこんだりして酒乱で暴れるので、近所からも商店街の店からもお袋の所に迎えに来てくれと怒鳴りこまれる事もしょっちゅうでした。
店でお酒は扱っていますけど、酒乱になる前に店のお酒は隠してしまうんですが、2件となりが酒屋なので、そこへ飲みに行ったり、持ってきたりどうにも止めようがありません。
そんなある日、近所の人達が入れ替わり立ち替わり来て『大変だよ!親父さんがT親分家に行って喧嘩してるよ!早く迎えにいったほうがいい』とか、『家の人達がみんな困っている』とか、『T親分が怒って日本刀で斬ってやると刀を抜こうとしている。』一斉に集まって来た。
T親分の家族の人達も止めているけど、T親分自身も刀を抜いたら大変な事になるのは分かっているので、誰か早く親父さんを連れ出してほしいと言う態度も見え見えでしたが、親父は『斬れるものなら斬って見ろ!』と言って、前後見境のないほど酒に酔い呑まれ、気が狂い人間が変わってしまうほどの凶暴性が増す酒乱でした。
今度はT親分の日本刀を取ろうとしている、早く来てくれと言われ迎えにきた近所の人とお袋は、T親分の家に親父を迎えに行って、ようやく家に酒乱の親父を入れたが、親父は怒り狂い、お袋を捕まえて殴りつけた。
が、お袋も慣れたものでそれを振り払い、捕まらないように距離を置いたが、親父は包丁を持ち出し、お袋を追いかけようとしたので、お袋は表に逃げたが、親父はお袋に見える用に包丁を振りかざし大声で『どいつもこいつも一歩でも家に入ったら皆殺しだぞ!』と言って奥の座敷に行ったので、しばらくたってお袋が親父に見つからないように様子を見に行くと、親父は座敷で一升瓶を片手に胡坐をかき、その前には包丁を突き刺していたので、店はもちろんできないし、私達もいつものように親父が飲みつぶれて寝るか、表に遊びに出て行かない限り、家には入れませんでした。
また、そういう時はお袋の知っている人の家に兄弟それぞればらばらで泊るかの生活状態でした。
当時、親父が包丁を持ってお袋や私達兄弟を殺してやると言って追いかける事はよくあり、そんな時は、お袋が大声で『みんな早く逃げろ!』と叫ぶので、みんな着の身着のまま裸足で逃げ出し、商店街の色々な店に飛び込んでかくまってもらう事はたびたびでした。
でも、かくまうほうもハラハラだったと思います。
親父が酒乱でたちが悪いのを町の人達はみんな知っているから、かくまっている事がばれたら本当に人を斬ることなどなんとも思わない酒乱の気違いだという事を町の人達も知っていたからです。
かくまってもらった店に、包丁を片手に親父が入ってきた時は、お袋も私も裸足で、お袋の洋服は親父に掴まれて振り切ったせいでぼろぼろに破れていました。
親父を見た時は声を殺して調理場の下に隠れましたが、寿命が縮む思いでした。
かくまってくれた人も親父に、『うちのやつらは来たか?』と包丁を片手に言われ、恐怖で顔は青ざめながらちょっとひきつりながらも『来ていない』と言ってくれましたが、本当に私達をかくまって怖かったと思います。
そんな親父だから、お袋は闇屋をやっている時から自分の兄弟・親戚に心配かけたくなくって相談も出来ず、そうかと言って知っている人に親父のそういう事を相談するという事は、家の恥をさらす事だと思って誰にも言えず、自然と占い師のところへ行くようになり、親父がよくなるようにと色々なおまじないとか名前を変えたりしました。
二男を残して全員親父もお袋も兄弟も私が小学校6年になるまでに、2回から3回名前を変えましたが、何も変わりませんでした。
二男の名前は一番良いと言いと言われたが、親父にへそを食われて馬鹿になってしまいました。(占い師に相談した所、色々神社・仏閣で祈祷してもらったり、お祓いをしてもらいましたが、今現在もそのまんまです。姪の父親です。)
親父が兄貴のへそを食って馬鹿になる話しは、チトラの生い立ちの方に詳しく書いてあります。
そして、最後になりますが、Tの親分の家から親父が出て行ったあと、Tの親分はどっと疲れ、数日寝込んだと聞きました。