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チトラのブログ

◆ 母の肺の腺がん ◆ 大きさステージⅣa 転移ステージⅡ 1010年9月28日判ったです ◆
肺の腺がん2020年9月16日に確定、2020年10月19日から初めての抗がん剤治療入院~翌月11月5日17時19分天国へ★あまりに急変で、置いて逝かれちゃった

私は、お袋が泣き崩れて、夫Kとの離婚は私が死んでからして、くれと言われ、そんなお袋の姿を見て、私は、尼寺に行く事を断念し、また安心して、もらう為に夫Kと、もう一度やり直す事を、お袋と約束してしまいました。

Kが、なぜ、お袋を巻き込んだかと、言うと、Kは、ドライバーさんや、夜勤の人達に、殴られても、仕方の無い事ばっかし遣っていた事を完全に忘れ、売り上げ金だけを見ていたので、私がいなくっても出来ると思っていた。

そして、Kが、手術してからの1週間、Kは毎日、朝から夕方まで仕事をし、私と夕方交代していた。

その1週間の間に、Kは、管理職から、お前達の代わりは、イクラでもいる、私の代わりは、いないと言われたそうです。(この話は、ずうと後に、人から聞きました。)

Kと、やり直す事になった私は、今まで、Kに教えて来た事や、Kに対する自分の態度を考えて見ました。

私は、今まで、Kと経営の有り方で喧嘩に何度もなりましたが、Kを一家の主として立ててきました。

どうすれば、Kに私の一念が通じるか思案にクレる毎日でした。

Kは、何時もの事ですが、ちょっとの間は、協力的にやってくれましたが、そんな中また職人が代わり、Kは今までと違って、職人を、たき付、私に喧嘩を売らせたり、職人と一緒になって、私を追い回し始めた。(追い回しとゆうのは、人が畏縮してしまう状態にして馬鹿にしながら、次から次に仕事を押し付け精身的苦痛だけを与え、辞めて行くか、体がオカシクなって倒れるまでイジメる事です。)

私の、それまでの人生は、人をイジメタ事も無いし又イジメられた事も有りません。

そして私は、食堂を始めてから、この時までに、夜勤の職人や雑用人と包丁を持つ修羅場の喧嘩を、もう何回か体験していました。

この追い回しが始まった時は、昼間の雑用の人が足りなく、私は、24時間体制でやっていました。

中々、雑用の人が決まらず、そうかと言って喧嘩すれば、料理が間に合わなくなり、社の人に迷惑が掛かってしまうので、我慢しなければ、なりませんでした。

また、Kの態度の悪さが原因で社の人達からのクレームが食堂のカウンターの前で相次ぎ、私は、段々、体がオカシクなり、神経がビリビリになり、音が、まるでガラスの破片で体中を刺されている感じになり、自分でも限界を感じ、Kと喧嘩にならないように話を付け、当分の間は、夜勤だけする事にしました。

話をKと付けた私は、家に帰り娘の部屋のカーテンを締め切り、部屋を真っ暗にしてビリビリになった神経を休める為、寝ていた。

暫らくしてから、お袋の声が聞こえた、チトラどうしたんだ、子供が、お前が帰って来て寝てるて聞いて来たんだと言って、お袋は、娘と一緒に部屋に入って来て、電気を付けた時、娘は、私を見て、これは、お母さんじゃない、化け物だーと言って部屋から飛び出していきました。

お袋は、そんな私を見て、何か言おうとしましたが、私は、心配するな、ただ疲れが溜まった、だけだから、暫らくの間は、静かに寝かして欲しいと言って、帰してから、私は、娘に言われた事が気になり、鏡を見に行った。

私は、鏡に写た自分の姿を見て驚いた。

これが私の姿か、顔は、青黒、クマドリのように太い線が何本も入り、目はキツク吊り上って、姿は不気味に曲がっていた。

私は、忙しくって、鏡を見る暇も有りませんでした。

こんな姿を人前にサラシテいたのかと分った時、恥ずかしくなり、それからは、鏡を絶えず見るようにしました。


私は、この追い回しを体験して、それで辞めて行く人が如何に多かったかを知り、話しても分らない人は斬る事にしました。

斬ると言う事は、クビと言う事です。

私は、S社J店に来て二、三年経った頃、私を拾ってくれた、幹部管理職達は、次から次に出世して、後、何人もいなかった。

残っている人達も、イヅレ出世して、いなくなる事は、分っていました。

その頃の私は、アイも変わらず、Kがドライバーさんと喧嘩したり、夜勤さん達を怒鳴り付けたりの問題を起こし、絶えずその尻拭いに追われ、また厨房の中も、何とかS社J店に合うように、職人、雑用の人達を統制し掛けても、コトゴトクKに壊され、私は心の休まる事も無く、頭の休まる事も無く、そうかっと言って、親に相談すれば、心配を掛けるだけと、ゆう事も良く分かり、誰にも相談できず、一人で考えながら、進むしか有りませんでした。

そんな時、夜勤のM課長が食事に来たので、私は、何時ものように、お茶を入れて持っていた時、何時も何も話さないM課長が、声を掛けてくれ、優しく情けのある有る言葉を掛けられた時、私は、うっとなった。

今まで我慢していた心の苦しさ、悲しさが、爆発し思わず泣き崩れそうになり、私は、トイレに駆け込み、声を殺して泣きながら、思いました。

これだけの情けの有る言葉を頂ければ、もう本望だ何にも要らないと、思った、その時、私の涙は、嬉涙に変わり、Kと別れる決心が付きました。

Kは、私が、いたら何も変わらないだろう、全てKに与え、子供もKに渡し、私は、身一つで家を出れば、問題は無いだろう店も子供が要れば、今まで見たいな、馬鹿な事をやっていたら潰れてしまうと、ゆう事も分かり、嫌でも子供が要れば、子供の為に、働くだろう思い、私は、その日から私を引き取ってくれる尼寺をKに分らないように探し、やっと見付ける事ができ、Kに私は、別れ話をした。

私は、Kに私は、何も要りません。裸で出て行きます。

別れて下さい。

と言うと、Kは嬉しそうに、良いよ、分った、でもな、お前が何所へ行くのか、教えなければ別れない、と言うので私は、仕方なくKに尼寺に入る事を話、私は、一度尼寺に入ったら、私は、二度と表には出ない、また誰が来ても合う事は無いと言うと、Kは分った別れてやると、言ったので、私は、出て行こうとしたら、Kがチョット待ってくれ、その前に、俺、肛門にザクロ見たいにイボが沢山出来ているから、明日、行って、手術して来るから、1週間だけ待ってくれ、そうしたら出て行ってもいい、と言われ、話も付き別れる事も決まったし、1週間は、ショウガナイかなと思い承諾したが、私は、もう家には、いたくなかったので、ホテルから社に通った。

そして、その間の費用を、Kは一日二万、日払いで払うとゆう事で話が付き、1週間、社にホテルから通っている時、Kは、従業人の前で、何回も、私に、お前は、良く働くから、日払いで二万払っても惜しくないと私を馬鹿にして高笑いしていたが、私は、もうKに腹も立たないし、何を言われても何も感じませんでした。

やがて1週間経ち別れの時が来たので、私は、社から其のまま出て行うとしたら、Kが慌てて、私を止めた、Kは、私に、お袋に会って行かないのか、と言うので、会わないで、このまま行くと言うと、Kは、それじゃ残る俺達が困る、何にも話さなくっていいから、顔だけ、お袋に見せてから行けと言われ、私は、話が抉れるのが嫌で、一人で顔だけ見せに行こうとしたら、Kも一緒に行くと言い出し、俺は一切、口出しはしないから、でないと後に残る俺と子供達が困ると言われ、仕方なく、Kと、お袋の所に行って顔を見せ、帰ろうした時、Kは、お袋に別れる事を喋ってしまい、お袋は、パニックを起こしてしまい、いままで誰にも見せた事も無い涙を流し、別れないでくれ、我慢してくれ、私が死んでから別れてくれ、これが最後の親孝行だっと思って、頼むから、私が死ぬまで待ってくれと言ってお袋は、泣き崩れてしまった。

そんな、お袋の姿を見たら、今までの親不孝の数々だけの私の固い決意も、もろくもガタガタに崩れてしまい、私は、お袋が安心するように、分った、もう一度やり直すと言うと、側にいたKも、スカサズお袋に、もう大丈夫、俺達はもう一度ちゃんと、やりなおすからと言って、お袋を安心させてから、家に帰りました。


この後も何も変わらないKの事で私は、地元の神社、仏閣、だけじゃ無く色々な所にお参りに行ったり、時には、行者を使って、Kの人格を直そうとしていた。

S社J店に入って、初めての冬を向えた時、中々決まらなかった夜勤を担当する職人が決まり、夫Kが職人に仕事の流れを教えていた。

その時、私は、雑用の仕事が殆どでした。

雑用する人も職人も激しく代わり、私が、24時間、通しをやる事が良く有った。

そして、私と、もう1人の雑用をする夜勤のM男の仕事も一段落して、Kの方も職人との仕事の話も終わり、雑談している時、表を見ると雪が降っていました。

そんな時、厨房にO部長が来た、Kが厨房の入り口にいたので、O部長とKが何か話していましたが、2人の話している様子が、険悪な感じに見えたので、直ぐ2人の所に行くと、O部長は、出て行ってしまたので、Kに何を話したと聞くと、Kは偉そうに、おにぎりを作ってくれと言ったけど、メニュウーに無い物は作れないと断ったんだよ。

それがドウシタとゆうKの態度を見て、今は話にならない事が分り、私は、直ぐO部長の後を追い、追い付き、O部長に済みません。

と謝りきって私が作ります。

と言ったのでO部長の怒りも何とか腹に治めて貰う事が出来た。

この時、管理職達は、全員、昼飯も食べられない程、ドライバーさん達の事を心配し、飛び回っていた。

私は、厨房に戻り、雑用のM男と職人に、これから、おにぎりを作るからと言うと、直ぐ支度に掛かろうとしたM男と職人に、Kは作らなくって良い、受けたのは、私だから、私一人に作らせろと怒鳴り誰も手を出すなと威嚇した、私には、Kと喧嘩している時間は有りません。

私は、時計を見ながら、急いで、おにぎりを作り始めました。

作り始めから終わりまで、私は、Kに睨み付けられ罵倒される中、何回かM男も職人も手を出そうとしたが、Kに威嚇され畏縮して、下を向いてしまった。

私は、Kの馬鹿さ加減に情け無く心の中で泣きながら、おにぎりを作り続けました。

やっと出来上がり、持って行こうとしたら、M男と職人が手伝おうとして、またKに2人共、怒鳴られ私一人で持って行く事になりました。

おにぎりを持って行った時の管理職達、全員の待機している姿は、腕組みをし、誰も一言も喋らず真剣でした。

そして、その時、管理職達の心の声が聞こえました。

皆、無事に帰って来てくれ、とゆう心の声を聞きいて、私は、管理職達の待機している姿を見た時、この人達は、本当の武士だっと思いました。

この時、私は、S社J店の武士達から見たら私の苦労も涙も対した事じゃあ無いと思いました。


この日は、雪が降っていて、管理職達、全員が、ドライバーを心配して、見回りに行き、皆、昼ごはんも食べていなかった、それと雪の為、道路の状態も悪く、事故も起こり易い状態だった。

そゆう事でO部長が何も食べていない管理職達の事も心配して、頼みに来た、おにぎりです。

どうして、こんなに管理職達がドライバーの事を心配したかと言うと管理職達全員が、タタキアゲのドライバー上がりだったからです。

私は、職人全員に辞められ、夫Kは、調理と券売機をやると言って、後は、全て私がやる事になりました。(ずうと後で分かった事ですが、Kは全てを握るために、楽な調理と券売機をやり、私が、経理の事にたずさわれ無いように、雑用と他の用事と社の人に喧嘩を打って問題を起こし、後始末に私が追われるように、絶えず、惑わされ、タブラカサレ、Kの思い道理に誘導されていた。)

この時、募集して人が来ても直ぐ辞めてしまい、凄い勢いで人が入れ代わる中、私は24時間をフルに働いていました。

こゆう状態が何ヶ月か続いていた時、私は、次第に意識がモウロウとなり気力だけの動きになって行った時、汚い話ですが、ベンが少しずつ、垂れ流しのような状態になり、私は、夜勤の人達が休憩に入る時は、家に風呂に入りに帰って又、社に戻るとゆう日が何日か続いていた時、私は風呂から出て何十分か休憩した後、社に行こうと立ち上がった時、意識が無くなりそうになり、寝ている夫Kに気を振り絞って、起きろ社に行け、駄目だーと言って私は、倒れてしまいました。

私が、気が付いたのは、二日目の昼過ぎでした。

私は、気が付いて、驚いた、二日も経ってしまったのか、と思うのと同時に、倒れた時と同じ状態のママの姿に又、驚いたとゆう事は、Kも家には、帰って来てい無いと分り、直ぐKに電話.を入れた、Kは、今は、俺がいるから大丈夫だから、夕方まで休んでくれ、それから交代しょうと、ゆう事になり、私は、久し振りに母に電話し、おかゆを持って、きてもらった。

その時、お袋に私は、凄く怒られました。

もっとKに仕事をさせなきゃ駄目だ、ヤツは年中プラプラいるぞ、こんな事をやっていたら、お前は、その内、体が駄目になってしまうぞ、子供達も内で寝るまでは、皆と遊んでいるから心配ないけど、父ちゃんも兄弟達もKに、もっと仕事をさせろと心配してたぞと怒られました。

が、私も、本当は、そうじゃないんだよ、Kを店に長く置くと社の人と喧嘩したり、従業員の前で私を馬鹿にして店の中をヒカキ廻すだと、言いたかったが、そんな事を言ったら、大変な心配事を増やしてしまうので、お袋には、Kをカバウ事しか、いわなかった。

それから実家に行き、元気な姿を親兄弟に見せて、家に帰って風呂に入りながら考えました。

一つ嬉しい事が分りました。

私の、それまでの人生で、汗水垂らして働いた事が有りません。

そして、私の、人間としての労働の限界を超えて、垂れ流しながら倒れた事に寄って、S社の倒れて行った人達と、同じ体験をした事で私は、これから誠の気配りが出来る事が分り、この体験に感謝しました。

倒れた事によって、如何に倒れずやれるか、考えた時、何が間違っていたのかが分り、直ぐ改善しようと思い、Kに話した所、Kに怒られてしまった。

Kは私に、職人も使い、こなせないで、馬鹿な事を言うな、社員の事も、お前が直ぐ謝ったり、チヤホヤするから、ズに乗ってギャア、ギヤア言うんだ、だから俺が怒鳴り飛ばすんだ、俺が出ている時は、俺が一発、怒鳴れば皆オトナシクなるのに、お前が全て打ち壊す。

こんな調子で何時も話しになりませんでしたが、私は、Kも人間だ、人間なら人の一念が通じる筈だ、人の一念は石をも貫くとゆう、まだまだ私の一念が通じないのは、私の勉強が足りないと思い、色々と考え方を変えながら、何時かは、Kも人間だ必ず私の一念が通じる時が、必ず、必ず、来ると思っていました。


食堂のホールで毎日、夜ドライバーさん達がミイーテングをやりますので、お茶を取り替えたり、灰皿を取り替えたり、時には、コーヒを出したり、ジュウースを出していました。

S社の人達が食堂に来たとき、花が有れば、気分転換にもなり、癒されると思い、意気の良い花を沢山生けていました。

同じ体験を、した事で、私も寄り一層の気配りが出き、ドライバーさんや社員の方々から、益々喜ばれ、私は、皆さんから凄く可愛がって頂きました。




私が、階段から落ち怪我をしてからは、職人達は、前と違って、そんなに喧嘩をしなくなった。

私も、なめるんじゃめえよ、ヤレルもんなら遣って見ろ、この野郎、と言う気持ちも、余にも私の、やる事が多く、何時しか忘れてしまいました。

(この当時は、どの業界も人手不足の時代でした。)

そして不思議な事が始まった。

喧嘩しなくなったとはいえ、和食も洋食も、腹の中では、お互いに、この野郎と一物持っている事は、誰が見ても歴然としていた。

それが急に仲良くなり穏やかに談笑するようになり、夜勤の中国の人も交えて、楽しそうに、語る姿を見て、私は、あー色々有ったけど、こーゆう事が雨降って地固まるって事なのかなと、思いました。

お互いに、それぞれの料理の真髄を語り合い、また和食、洋食、中華の職人が教え有った物を作り合い、私は、この時、社員食堂で、これだけの本物の腕の良い職人を使っているのは、内だけだっと確信した。(この頃には、社員食堂の殆どの情報が自然に私に入っていた。)

私は、これで社の人達に益々喜んで貰える良い仕事が出来るなと自信を持った時、朝7時半に来る職人達が誰も来ないので、私は、職人達.が上がった事を感じ一瞬、血の気が引いたが、直ぐ気を取り直し、Kに連絡し職人達が上がった事を話た。

Kは、直ぐ来たが、職人達が来ないのは、電車の事故の遅れか、腹でも痛くなって医者にでも行った事がタマタマ重なったんじゃないか、と言って、それぞれの職人達の所に電話したが、誰も出ないので、9時まで待って見ようとゆう事になり、冷蔵庫の中を私と見て、ほら仕込みは、全部出来ている、と言って、私に怒り出した。

お前は、余計な事を言い過ぎる。一々要望を聞いていたら、誰も勤まらないし、直ぐ皆辞めてしまう、セットだけに力を入れれば良いんだ、メニューウに無い物を聞いていられるかとKに言われたが、私も、経営とは、そゆうモノでは無い、こゆうモノだっと、色々その都度Kには教えてキタが何時も喧嘩になり中々分ってもなえなかった。

そしって、9時になり、誰も来ない事で職人達が上がった事が分り、Kは動揺したが、私もKも、それまでに、仕込みの仕方、作り方を見ていたので、Kは自分が仕込みと料理と券売機をヤルから後は、私にやってくれと言いって、直ぐ料理に掛かり何とか、急場を乗り切った。

この時から職人が決まる迄は、Kは急に優しくなり、真面目に働いたので、私はKは土壇場に立って見て経営とは何かと言う事が少しは分ったのかと思って、今まで嫌な思いをしながらKに教えてきた事が実れば良いなと思い、私は、益々ヤル気に燃え上がりました。

そして私は、食堂を始めた時から人が直ぐ辞めてしまうので、家には風呂に入りに帰る位で、日曜日以外は会社で寝起きしていました。

当時は、S社J店の夜勤の人達も沢山いて休む部屋が少なく、食堂のホールは、食事が終わると、仮眠所になり、イスが無ければ、床に新聞紙を敷いて休憩を取っていました。

食堂も、部屋が無く、私は倉庫で米の開いた袋を床に敷き休憩していました。