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チトラのブログ

◆ 母の肺の腺がん ◆ 大きさステージⅣa 転移ステージⅡ 1010年9月28日判ったです ◆
肺の腺がん2020年9月16日に確定、2020年10月19日から初めての抗がん剤治療入院~翌月11月5日17時19分天国へ★あまりに急変で、置いて逝かれちゃった

私は、退院した、お袋に体力をつけさせ、社に戻り、翌日、実家に電話すると、弟が出て、お袋は、歩けるようになって、軽い仕事を、やつているが、お袋は、私の事を凄く怒っていて、出入り禁止だと言っていたと聞かされたが、私は、とんでもない事を、しってしまたけど、お袋が歩けるようになって、軽い仕事が出来るようになった事を聞き、私は、お袋を、怒らしてしまったけど、これで良かったじゃないかと思っています。

それから、日も大分経ち実家からは、何の連絡も無かったので、私も、夫Kや従業人との問題が日夜続いて、スッカリ忘れていた時、実家から電話が有り、母が倒れて入院したと連絡が入った。

私は、母の二度目の退院後、兄弟達に喧嘩にならないように、また入院するような事が有ったら最初の病院に入れるようにと、

二度目の病院での母の精神状態を話していたので、近所の最初に入った病院に入院できた。

連絡が入って、直ぐ母の所に行くと、母は、完全に無表情な姿になり、私が話し掛けても、返事も無く、母が如何に兄弟達夫婦との凄まじい喧嘩をして、精神的苦痛を受けて、それが元で倒れたと、ゆう事が私には、良く分かります。

お袋を引き取ろうと、しても、お袋は、世間体を気にして、世間体に縛られていて、ガンとして、私の所に来ない事は、分かりますので、私は、どうしたらお袋が、表情を戻し、声を出すか考え、親父の事を出しました。

私は、この時、実家には、寄らず、直接、病院に行きましたが、母には、いま親父の所に寄って来たけど、親父は、お袋が入院した事で、今までと違って凄くオロオロして私に、俺は行かれないけど、母ちゃんに、頑張れて言ってくれ、外出が出来るようになったら、俺の所に連れて来てくれて言っていたよ。

と話すと、無表情だったお袋は、怒りの表情になり、私に怒り出した。

あの馬鹿親父がそんな事、言う訳ないだろ、向こうの味方して、私の事何か、どうでもいいんだ、皆も、私の事を早く死ねば良いとそう思っていやがるくせに、チトラそんな作り話は、聞きたく無い帰れと、お袋に怒られましたが、私は、お袋に、もう一度、希望を持って貰って元気になって欲しかったので、私は必死になて、お袋に言いました。

兄弟達夫婦も、親父もこの三度目の入院で、皆、本当に心から心配しっている。

親父も今までとは、全く違うよ、お袋が、い無い事で相当参っているよ。

お袋、不器用な親父の気持ちも分かってやんなよ。

母ちゃんを早く歩けるようにして、俺の所に連れて来てくれて、何回言ったと思っているんだ。

そんな事を今まで言った事が有るか、親父わね、本当にお袋がいなくって寂しそうだったよ。

いま来る時だって、親父は表まで出てきて、母ちゃんに早く外出が出来るようになて、来いって、言っていたよ。

親父の事は、お袋が一番良く知っているじゃない、と言ってお袋を見ると、お袋の顔に柔らかい表情が出てきて、お袋は、嬉さを噛み締めて、本当にお父ちゃんがそんな事いったのかよ、と言ったので、私は、スカサズお袋に私がそんな下らない嘘言う訳ないでしょと言ってやると、お袋は、嬉さと安心の表情を見せたので、私も安心して、帰り際にお袋に、親父に何か言わなくっても良いのかと、言うと黙っているので、私は、お袋に、お袋も愛しているて言っていたよと、親父に言うよと言うと、お袋は、恥ずかしさと、嬉さの表情でうんうんとうなずいた。


私は、まだこの時、知らなかったけど、一回目の入院の時、弟の嫁T子は、お袋に黙って、いない留守に、お袋の、2000万近く入って入る通帳を見ていて、その外に、たんす貯金が何百万か有った、それもT子に見られていた、そして次男を外して、長男の嫁S子と結託していた。

この時の、長男、次男、三男は、お袋から、皆、家を貰っていた。

私は、家を買うとき300万円貰いました。


そして、弟の嫁T子と親父は大分前から肉体関係を持っていた。

私は、この時点では、知りませんでした。

私は、この三度目のお袋の入院中に実家に行った時T子が、親父に体をコスリ付けて行ったのを見て、何か起きなければ、いいけどと心配しました。

腹ー減りましたー


チトラがーあめぶろのーパスワードとかー忘れてー

大変でしたー(((゜д゜;)))ありええねえええええええ


腹減ったー!!

たっけてー!!!ふぎゃー!!!!

私が、S社J店に拾われ、色々有る中で、実家に35年位、住み込みで働いていた、かねとゆう人が亡くなった、このかねは、忙しい母に代わって、私達、兄弟の面倒を見てくれた、育ての母とも言える人でした。

その、かねが亡くなるチョット前から実家の親兄弟達の、大喧嘩が始まるようになった、喧嘩の元は、何時も決まって次男夫婦の事でした。

私も、忙しい中、何度か仲裁の為、親兄弟の所に呼ばれ争そい事を収めてきましたが、また直ぐ兄弟達夫婦に呼ばれ仲裁の繰り返しをしている頃、兄のマージャン友達で職人のN男を兄に紹介してもらい、N男に仕事を覚えさせ、私も、少し時間ができ、お袋の事が気になり、実家に行くと、お袋の姿が無く、店のホールの方を見ると、座敷にお袋が座っていたので、声を掛けようと思ってお袋を見た時、驚きました。今まで、どんな事が有っても、身だしなみだけは、きちっとしていたお袋が、髪は乱れ、顔は薄汚れ人相まで変わり、そのお袋の回りをハエが何匹も飛んでいた。

その、お袋の姿を見て、私は、お袋に何が有ったんだと聞くと、離婚した次男の事と子供達の事で、隣近所からも苦情がき、兄弟達夫婦とも喧嘩が続いていると聞いて、私は、お袋を、このままにしっていたら、お袋は、精身的苦痛で倒れる事がその姿を見て分り、私も、忙しかったけど、次男の子供達を引き取り、年中家に帰っている夫Kに子供達を見る用に頼んだ。

これで、お袋も少しは、楽になるかと思いましたが、暫らく経ってから、弟の嫁T子から夜勤を遣っている私の所に、絶えず電話が有り大変な親子喧嘩になっている、止めに来てくれとゆう電話が何回も入り、その都度、私は、実家に行き、仲裁し事を収めてきましたが、遂に母は、倒れて入院しました。

その時は、昼間、新しく入った職人も仕事に慣れ、私は、夜も昼も多少、自分の時間が有り、入院している母の元に毎日、顔を出す事が出来ましたが、長男の嫁S子も、三男の嫁T子も、良い顔をしなくなり、S子とT子は、兄と弟をタキツケテ私に喧嘩を売るようになっていった。

母の入院は、短く済み、退院して来た日の夜、母は、私達、兄弟夫婦を全員呼び食事をした後、母は、皆に、生きている内に、言っておきたい事が有る、これは遺言だっと思って聞いて欲しい、私が死ん時、綺麗にお化粧をして必ずカツラを付けて欲しいと母が言うと、S子とT子は、返事をしないので、私は、後でS子とT子と気まずくななる事は、分かっていましたが、私は、お袋に何にも心配するな、そんな事、言わなくたって、皆やってくれるよ。

と言って皆の方を見たが誰も返事をしないので、私は、お袋に、私達がいるんだから、安心しろ、ちゃんとカツラを付けて、化粧も綺麗にするからと言って帰り、翌日からは、お袋が歩けるようになるまで、少しの間、付いて歩き、内の風呂に入ってもらいユックリした時間をお袋に作って上げられ、大分元気になり、私は又、仕事に戻っていた。

しばらくの間は、実家から電話も無く、仲良く遣り始めたんだなと、思い私も何時ものように忙しくなり、母の事も忘れていた時、実家から電話が有り母が倒れて入院したと聞き、病院に行くと、お袋は、オロオロして、何でこんな遠い病院に入れた、家に帰りたいと言い出し私も、本当に困りました。

最初に入院した時、近所の病院に入院しましたが、母にトッテ見れば、とっても遠くに感じて、不安な思いをしてた事は、兄弟達夫婦は、皆、知っていたのに、どうして、こうも母の神経を逆撫でするような事ばかりやるのか、腹が立ち、私は、兄弟達の所に怒鳴り込みに行こうと思った時、お袋は、私にチトラ兄弟達と喧嘩しなでくれ、頼むと今にも泣きそうな、その姿を見て、私は、お袋に、内に来い、お袋の事も守れない親父なぞ捨てて、内で余生を、ゆっくり送ったらどうだ、と言ったが、お袋に断られた、親父は、私がいなきゃ駄目な人だ、親父一人を残して行く事は出来ないし、世間体とゆう物が有る、お袋は、小さい世間の人達から、お宅は、良い嫁さん達が来て、仲良くって良いわねえ、と言われたい願望が強すぎて、その弱点をS子とT子に簡単に読まれ、精身的苦痛だけを、与えられ続けられ色んな病気になってしまていた。

二度目の入院で、退院して来たお袋は、前と違って体はガタガタになっていた、シャツのボタンもハメラレズ歩く事も儘ならず、何も話さなくなり、声もか細くなり、体力も落ちてしまい、見る影も無い位、変わってしまいました。

私の方も、職人がガタガタ遣り始めて来たので、お袋に付いて、いられなくなり私は、体力の無くなった、お袋の体に1回で体力を付け歩けるようになる、方法はナイかと考えた時、地元の神社の女坂を思い出し、あの坂を、お袋に上がらせれば、体に力が入り歩ける用にもナルと考え、嫌がる、お袋を車イスに乗せ、神社の女坂に連れて行き女坂の、真ん中で、車イスから、お袋を降ろし歩くように言うと、お袋は、怒り出し、歩けないと、言うので、私は、お袋に、この残りの坂を上がれば、歩けるようになる、たった、これだけの事だから上がれと言った。

お袋は、怒り狂い、泣き叫んだ、苦しいー助けてくれー親を殺すきかー誰かー助けてー人殺しーと、泣き叫びながら、上に上がって行く中で、私は、一心に、神、仏、先祖代々に、どうか母を、お守り下さいと念じながら女坂を上がって行き、グッタリした母とお参りして、車イスに乗せ実家に帰り、お袋を置いて、私は、会社に戻り仕事をし、翌日の昼過ぎに実家に電話すると弟が出たので、母の様子を聞くと、帰って来てから、そのまま寝てしまい、今日は、朝から元気に動いて軽い仕事をしているけど、お前の事は、凄く怒っている、出入り禁止だて言っていたと、聞いたが、私は、憎まれようが、何しようが、お袋が、歩けるようになり、軽い仕事をやっていると聞いて、ほっとしました。

メルシーチョコ有り難うございます。

この間、頂いた、まだ、お返しも出来ない内に、また頂き、本当に有り難うございます。

まだお返しが出来るほどアメが無いので、済みません。

S社J店に拾われて4年近く経った頃、私は、どの位、人を斬ったか分らない程、(斬るとゆう事は、クビとゆう事です。)人の入れ代わりが凄まじいかった時、私は、兄の店に出入りしてる、兄のマージャン友達の職人を強引に内に勤めるように兄を説得し、店に勤めて貰った。

なぜ私が、この職人を強引にスカートしたかと言うと、これから、この職人の事をN男と書きます。

このN男は、実家の前の食堂に長く勤めていて、私も知っていた。

そして、N男は、その食堂で仕事を覚え、他所を渡り歩いていない、から、スレカラシじゃあないだろう、追い回し(追い回し、とゆうのは、威嚇したり、罵ったり、しながら、精身的、苦痛を与えて、辞めるか、病気になって体を壊す、までいじめる事)何て知らないだろう、マシテヤ近所だし、悪い事も出来ないんじゃあ無いかと思って店に勤めて貰った。

そしてN男も仕事を覚えたので、たまたま私は、夜勤も早く終わり、トウシの雑用一人を残し、久し振りに夜中の1時半頃、家に帰る事が出来た時、タクシーの運転手が道を間違え、旧道で降りることになり、路地を通って帰る途中、白い犬のように大きな猫が出てきた。

私は、その猫を見て、久し振りだなと猫に声を掛け、こんな方まで遊びに来ているのか、と言うと、猫は、私の方を見ながら、これでイイのかと言いながら横切っていた。

猫に、これでイイのかと言われて、何だっけ、と考えなければ、思い出せないホド私の頭の中は、仕事で一杯でした。

猫に言われて、S社に行く前に、この猫と猫の子分達に助けられた事を、思い出し、それから何日か、してから、猫のいる寺へ、行き助けられた事を忘れていた事を、謝り、お礼をして、猫に有って謝って帰ろうとしたら、その猫は2年位前に死んだと聞いて

私は、いくら仕事が忙しかったとは、いえ猫に助けて貰った事を忘れた事を悔み、自分の勝手さを反省し猫の供養をした。

その後も、忙しく、絶えず人が入れ代わり、職人との修羅場を繰り返しながら、私は、このS社の為なら命を落としてもイイと思うようになりました。

(私を拾ってくれた、幹部管理職の人達も、その他の人達も、よく真剣に、このS社の為なら命は惜しくないと言っていました。)

私は、この時、死んだら、どうなるのか、考えるようになりました。

夫Kも、Kの母や兄弟達も、神、仏、先祖代々に手を合わせる人達ではない、人がいる時とか見ているときだけ、人を惑わし、誑かし、泣いて見せ、さも信心深いとゆう所を平気で見せる人達だっとゆう事を私は、見せ付けられてきたので、自分が死んだらどうなるか、気になり、さり気無くKに聞いた所、そんな、お墓を幾つも立てる事はない、お前は、内の墓に入ればイイと言ったが、Kは長男ではない、兄がいる。

それとKの家の墓は二つの名が有る。

なぜ二つの名が有るかとゆうと・Kの姉で長女が、養女に行って、養女先の親が死んだ時、姉も親兄弟も、養女先がお金を持っていると、思っていた。

だが死んで分ったのは、一銭も無かった事が分り、姉も母も怒り、養女先の墓を片付けたが、近所の手前が有ってKの父が亡くなった時に一つの墓にしたが、Kの家族達が集まると死人に口無しの悪口ばっかし聞かされ続けていた事と、長男がいるのに、誰でもカレデモ入れるとゆう事にも抵抗を感じ、このままに、していたら、筋道から、外れるので、私は、自分が死んだ時を考え墓を立てる事にしましたが、筋道を通して、Kの家の墓が有る寺に行くと、寺の住職は、内は今、一杯で、永久に待ても開く事は無いと断られたので、私は、助けられた猫の寺に行き、墓を作って貰い、Kと子供達に見せた。

私も、Kと色々,有る中で、墓を作った以上は、間違いなくKは、その墓に私を入れるだろう、と安心した時、私は、何時、死んでも、この世に悔いが残らない事を確信しました。