チトラのブログ -12ページ目

チトラのブログ

◆ 母の肺の腺がん ◆ 大きさステージⅣa 転移ステージⅡ 1010年9月28日判ったです ◆
肺の腺がん2020年9月16日に確定、2020年10月19日から初めての抗がん剤治療入院~翌月11月5日17時19分天国へ★あまりに急変で、置いて逝かれちゃった

私は、夫Kの姉で次女の夫N男の紹介で入れた職人B男を斬った事で、KとKの母、兄弟達に目の仇にされ、KとKの母兄弟達の策略に寄って、Kの母の所に、ちょこちょこ呼ばれ、B男を斬った事が如何に私が悪かった事か、Kと母兄弟達に罵られていた。

そして、私の、兄から強引に紹介させた職人のA男も、何度、話し合っても、通じなく、ちょっと、私が目を離せば、追い回しをするので、私は、他の従業人がA男から追い回しを、されないように目を配っていたが、B男を斬った事で、その箇所を次の職人が決まるまで、Kがやらなくっては、ならないので、今まで以上に、皆の居る所で私を馬鹿にし、店の仲も纏らないように引搔き廻し、社の弱い人達を怒鳴ったりして、問題を絶えず起している時やっと次の職人が決まったが、私が従業人の仲を纏めて旨く行きそうになると、Kが又、仲を引搔き廻し、従業人がKの、その横暴さに、言う事を聞かないと、何時ものように、Kは皆を睨みつけて、大きな声で、金を払うのは、コイツじゃあない、俺が払っているんだぞ、俺の言う事が聞けなければ、払わねえぞ、辞めても良いんだよ。

と言って、脅かすので、従業人の仲も中々纏らず、簡単に終わる仕事も、いくら私が教えても、時間を巧妙に掛けて、私が、注意すると、さも元もらしく、職人も従業人も、決まって言う事は、これからやろうと思って、計画を立ててやっているのに、奥さんは、焦りすぎで、皆のやる気を無くす事ばっかし言っていると言って、

私を平然と威嚇する事の繰り返しの中、私がS社に拾われて5年が過ぎていた時、私を拾ってくれた幹部管理職達は、殆どの人達が出世して居なくなり夜勤の幹部管理職一人だけになり、後は当時班長だった人達が、管理職になっていた。

その中の一人にKの性格に良く似た人でS課長とゆう人がいた。

このS課長は、Kに良く似ていて、社の弱い立場の人達を平然と虐め、何時も誰、彼無く睨みつけ、挨拶しようものなら、今にも怒鳴られそうになるので、皆怖がっていた。

S課長は、上の人に、ゴマを摩って取り入るのが巧みで、這い上がって来た人で、社の人も何かS課長に言って、有る事、無い事を、店長に言われたく無いとゆう感じで怖がっていた。

そのS課長とKが食堂で喧嘩してしまった。

それが元でS課長は、自分の言いなりになる、部下を使って、美味い不味いを平然と言わせ、食堂がやりずらくなるように、巧作して部下に食堂で嫌味を言わせるようになっていった。

それと同時に癒着とゆう言葉が飛び交い社の人達も、私も、得体の知れない恐怖を口には出さなかったけど、強く感じていた。

私は、ある時、何時ものように、知っている社員の人に挨拶しょうと思って、名を呼んだ時、社員の人は、戸惑いと凄い恐怖の表情を見せられた時、私も凄い恐怖と怖さを感じ、この癒着とゆう、言葉で今まで覚えた社の人達の名を一切忘れ、知っている社員の人達とも、お互いに暗黙の内に親しく無い、とゆう態度で接するようになっていた。(この時の、恐ろしさと恐怖で、今も人の名を覚える事が中々できません。)

表も中もガタガタ揉めている時、B男の後、入った職人とKの横暴さの積み重ねが原因で喧嘩になり、辞められてしまい、またKに従業人との仲を引搔き廻されている時、私の、住んでいる、町の町会の役員の人が(この人は、私の実家の親兄弟達の知り合いでも有り、私ともKとも知り合いで有る)

一人の職人を紹介してくれた。

この職人の事を、これからS代(男)と書きます。

S代は、私の実家の近くで料理屋を経営していた。

このS代に付いて、私は、母から何度も聞かされていた事が有る。

S代が店を持った時、私の母がしてきたように、S代は、まず隣、近所に挨拶して、店に招待して、お土産まで呉れて、周りの人と仲良くやれるように、謙虚な態度で徹底的に努力した事と、S代の結婚式に母が呼ばれた時の、S代の招待客に対する立ち居振る舞いの立派さに驚いていた。

母は、S代が近所で店を改装している時から、近所の人達から色々S代に付いて話しを聞いて知っていた。

S代は、店を構える前は、帝国ホテルの和食の料理屋で花板をしていた。

母は、最初どうせ偏屈な変な人だろうと、思っていたが、全く違い大変な立派な人が町に来たもんだと言って、内の奴等も見習わなければ駄目だと良く言っていた。

そして、帝国ホテルの結婚式場に来た招待客の立派さに驚き、あの若さで、これだけの人脈を持ちながら、威張らず、生意気にならないで、謙虚さと感謝を持っているS代に驚き私に、良く見習えと言っていた。

町会の役員の御茶屋さんのお陰で、S代を朝から昼に掛けての3時間だけ手伝って貰えるようになり、見る見る間に、S社の社員及び他の人からもS代が来た事を喜ばれ、何時しか、S課長の露骨な嫌がらせも、少し収まった。

私も、S代が来てくれた、お陰で、疲れ切った体と頭の中を休める事が出来た。

私が、S社に拾われて、5年経った時、夫Kの姉で次女の夫N男の父親違いの兄TがS社の会長の顧問をしている事を知らされた時、私は職人を斬る斬らないの問題事の中にいた。

この時の職人は、2人いた。

1人は、私の兄から強引に紹介して貰った。(頭文字が重なるので、A男、B男と書きます。)

A男と、もう1人は、Kの姉次女の夫N男の友達で芸能界に当時、籍を置くB男だった。

そして、この時、Kがレース鳩を飼っていた時、私の家に出入りしていた子供でM男が見習いとしていた。

この時の私は、M男がA男とB男に凄まじい追い回しをされていた事を全く知らなかった。

A男とB男が来て、暫くの間は、店の従業人も、落ち着き、M男も明るくニコヤカニ、和やかに、いっていたので、少し安心して任せられる所は、任せるように、しっていったが、次第に厨房の中の様子が、乱れて来ていたので、私は、また店に居る時間が長くなっていた事でKと絶えず喧嘩になっていた。

A男もB男も気分やで、裏表が出来る内は、良かったが、次第に自我出て、私やKがいても、A男は、不機嫌な顔と態度で注意しても聞かなくなり、B男は、S社のパートの小母さんと飲み歩く内に不倫の仲になり、朝仕事場に来ても、ヨッパラテいて、だらしなさを、社の中でも、丸出しとゆう状態を繰り返すようになり、店の示しが付かないので私は、Kに、これだけB男と話し合って分からないんだから斬るとKに言うと、Kは、何時ものように、それを如何に旨く使うかが、お前の仕事だ、お前の使い方が悪いの一点張りを、罵倒を入れながら、言葉巧みに、有耶無耶に持っていかれる中で、M男が突然、辞めた。

M男が辞めて、暫く日が経ってから、M男の母から、Kに電話が入り、家の方に来ると、言う事で私は、Kに一緒に居ろと言われ家で待っていると、M男の母は、一人で来た。

そして、なぜM男が辞めたか話し始めた。

A男とB男の凄まじい虐めに合い耐え切れなくなって、辞めたと話したので、私は、何でKに相談しなかったのか聞くと、私やKが来る時間がその時は、ダイタイ決まっていたので、私達が来る前に、M男が、虐められたとゆう素振りを、私達に見せないように、A男もB男も追い回しを隠す事を知っているので、世間、社会をまだ知らないM男を誑かし、惑わす事なぞ簡単な事で、私達が来る前に、M男が元のように素直で明るく振舞うように、A男とBが巧作していて、また私達が帰ると直ぐ追い回しを初め、その繰り返しで、相談が出来なくなり、辞めたと聞いている時、Kは、何一言、言わないので、私は、困りKを見たが何も話そうとしないので、私は、思わず、M男の母に、気が付かなくって済みません。

でしたと謝った。

M男の母は、私の、この言葉を待っていたかのように、私は、奥さんがいたから、M男を安心して預けたのに、辞める前から、M男は段々、行動が、おかしくなり、狂暴になり、もう誰の言う事も聞かなくなり、家にも寄り付かなくなってしまったと、聞かされたが、Kは、ただ黙っているだけで何も言わず、私は、手を付いてM男の母に誤りきって話しは付きましたが、M男の母が帰った後、私は、KにB男を斬ると宣言しました。

Kは、私を憎々しげに睨みつけて、いちいち、こんな事位で、人を斬っていたら、誰も務まらないと、言うので私は、ジャー食堂は辞めると言うと、Kは、態度を一転させて、分かった、と言ったので、話は付き、B男を斬ったが、その後、Kと、Kの親兄弟達から何年もB男を斬った事は、私が、何でも自分勝手で、人の使い方を知らず、店の中を引っ掻き廻しているのは、私だと、言われ続けて憎まれてきた。


私は、B男を社で斬った時、B男は、私を睨みつけ、このままで済むと思うなよと、言って出て行った。

B男は、Kの親兄弟達が私の事を内心、憎んで嫌っている事を知っていたのでKの姉、次女夫婦の所に行って、泣きながら、自分は真面目にやっていたのに、私に追い出されたとゆうような、有る事、無い事を言われ続けられた。

私は、母の49日ちょっと前に、夫Kの横暴さの積み重ねに寄って、食堂の経営の存続が出来無く、なりそうになり母の導きによって、私の命と引換えに難局を切り抜ける事が出来た。

それから何ヶ月か過ぎた頃、Kの母親から電話が有り、Kの母の借りているアパートで食事をする事になった。

その時、kの母は、次女の夫Nの兄(父親違い)がS社の会長の顧問をしている事を話したが、私は、この話を聞いて、思い出した事が有った。

私が、S社に拾われた、最初の元旦の日、Kの母親の所に、Kの兄弟達家族が全員集まった時、次女の夫Nから、Nの兄がS社の会長の顧問をしている事を聞いたが、Nは私に、その話しをした、途端にウッカリ、口を滑らかしてしまった、とゆう態度になり、直ぐ私から、離れて行った事を思い出した。

その時の私は、殆ど家には、帰れず、24時間体制の中にいたので、疲れきっていたのと、余りにも考える事が有り過ぎていたので、気にはなったが、何時しか忘れていた。

この話をKの母親から聞いた時は、S社に拾われて5年が経っていた。

Kの母親から話しを聞き終わった時、私は、何で今頃になって、そんな話をするのか、ダイタイの見当が付き、私は、Kの母に5年も同じS社に居てお互いに知らないと、ゆう訳には、逝かないでしょう。

私達の方から挨拶に行きたいがと、言うと、Kの母は、待ってました、とゆう態度で、恩着せがましく、次女と話してみないと分からないとゆう返事のしかただった。

それから大分、日が経ってから、次女の夫Nの兄Tと会う事になった。

Tは、虎ノ門で出版社の会社をしていた。

私達がTの所に行くと、Tは、心から嬉しそうに良く来てくれたと、ゆう態度で迎えてくれた。

そして、Tは、絶えず私の顔を見ながら、話しの流れの中で、何度も、何か有ったらTの名を出しなさいと言われ、家にも遊びにくるようにいわれた。

そして何ヶ月か過ぎてから、Tの奥さんから凄い怒りの電話が私の所に有った。

Tの奥さんは、怒って、あんた達が、ヤタラにTの名を使い、Tが何度も窮地追い込まれた。

二度とTの名を使うな、親戚としての付き合いは、もうしないと、怒鳴られて、電話を切られ、私は、吃驚した。

私は、Tの名をTから何か有ったら出しなさいと、言われたが、問題事は、何時もKが起すので、Tの名を出す事なぞ考えてもいませんでした。

そして、Kに、Tの奥さんの話しをすると、Kは、ストボケって、俺は、知らないと言い切り、何時の間にか、Kと母兄弟達に口裏合わせをされて、私が、Tの名を使ったがごとく言われてた。

そして、この時、次女の夫Nは、職人で、Nから紹介して貰った職人を私が斬る、斬らないで、次女夫婦から、憎まれていた。

後から、知った事ですが、Kは、社員の人達にTの名を乱発して虎の衣を着たキツネをやっていた。

Kがやった、虎の衣を着たキツネの事で、一時、私も子供も、坊主憎けりゃケサマデ憎いとゆう事をやられるハメになりました。


当時、Tは、S社に私が、入った事を最初から知っていたが、なぜ声を掛けなかったかと、言うと、当時のS社は、簡単に食堂だろうが何だろうが、代えてしまうので、声が掛けられなかったと言い、また5年もS社でやれて来た事、自体が摩訶不思議な大変な事だっとTは、私の顔をじっと見ながら、私に言った。


Kは、S社の要望の事で、管理職達と話し合う席で、管理職達が何も言えなくなるように、Tの名を乱発して、何か俺に言ったら有る事、無い事をTに言うぞと、ゆうような態度を見せ付けていた。その積み重ねが、社員達の心を傷つけ憎しみを持たせた、結果が、私と子供が坊主憎けりゃ袈裟まで憎いをやられる、引き金となった。


坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは、私の場合は、不味い、不味い、辞めてしまえ、を料理を出すカウンターの前でいわれたり、S社きっての不味い店と、怒鳴りとばされ続けられ、威嚇されたが、それだけの事をKがやったとゆう事も良く、私自身も分かっていましたが、一度だけ、我慢強い息子が耐え切れず、私に助けを求めて来た時、私が、息子を助けに行こうとした時、Kと喧嘩になった。

Kは、自分が蒔いた種で、こう成った事を、知っている癖に、正当化して、この位の事が取り仕切れなければ、何にも、この先できねえ、お前が甘やかすからだと、怒鳴られたが、私が行こうとするので、しかたなくKは、私を連れて息子の店に行くと、息子は、精神的苦痛で精神がズタジタになり、厨房の中で何もかも、オッポリだし、呆然とダラシナク据わりこんでいた。

その息子の姿を見た時、私は、思わずKを睨みながら、会社中に聞こえるように、怒鳴りまくってしまた。

どうして、どうして、ここまでやるんだー。

私は、怒鳴りまくった後、全てKが悪いと言う事が分かっているだけに、S社の人達に対して、申し訳ないとゆう気持ちと恥ずかしさで一杯になり、息子を宥めて、跡片付けをしながら、心の中で、S社の人達に謝りながら、このS社の人達の怒りと憎しみが納まりますようにと心の中で、強く念じました。


このとき息子は社の人に暴言と物を投げられ、呆然として、しまっていた。


息子の、この話は、10年位、先の話しでKが、そこまで、S社の人達の怒りと憎しみを、かう事をやってしまったのです。






お袋が亡くなってからも、何時ものように夫Kの横暴さで問題が絶えませんでした。

そして、とうとう、今までの、KがS社J店の社員達に対しての横暴さの積み重ねが、引き金となり、食堂を取り替えるとゆう話が持ち上がってしまい、私は、土壇場に立たされてしまいました。

私は、今までも、散々、Kに経営とは何かとゆう事を、罵倒されようが何されようが、Kの立場を立ながら人間の一念を持って、教えてきましたが、何時もの用に罵倒され聞いてもらえず、私は、人間の力には限界が有ると、ゆう事を思い出した時、何も見えません、聞こえませんが、お袋だっとゆう事が分かるように、亡き母が私の前にいて、しちめんざん(字を間違えるといけませんので)に作法に従って一念を持って上がれと、言っているように、強く感じ、私は直ぐ、調べ、行き方を知っている寺で聞き、しちめんざんに、上げる作法も、教えてもらった。

そして、行こうと思っていましたが、Kに妨害され、行きずらくされ、私は、行者を代わりに行かせようと、思いましたが、行者の所に着いた時、何かの強い力に寄って、私の考え方が変わり、私が行く事にしました。

私が、出られるのは、日曜日しか有りません。

その日曜日も、Kによって、遅くっても、午後3時30分までには、家に帰って、家に居ないとKと喧嘩になるように、状況を作られていましたので、私は、身延山の花が、どうしても見たいとゆう事で、Kを押し切って行きました。

私は、この時まで山など一度も上がった事は、有りません。

私は、ジャケットとテイシャツを着ジーパンにスニーカで行きました。

電車の都合上、着いたのは、10時ごろだったので、私は、タクシーの中で、上がれないんじゃないかと思いながら、作法道理、本山に挨拶して、暫く観光してから、運転手さん、に時間を聞くと11時だっと言うので、運転手さんに、聞いて見た。

今から、しちめんざん、に上がりたいが、間に合うかと、聞くと、運転手さんは、一瞬、驚いて、黙ってしまい、暫く経ってから、私に、あんた身体の病気は、無いか、と聞かれ、私は、今まで、病気をした事は、無いが、山に登るのは、初めてだと言った。

運転手さんは、私に山の、上り下りを教えてくれ、初めて上るのなら時間は、お参りして、4時間30分有れば、間違い無く下山出来る、途中で売店が一軒だけ、その時間なら開いている、そこに公衆電話が有るから、そこまで来たら電話してくれれば、迎に来て呉れるとゆことで、話が付き、運転手さんは、私に杖を一本貸してくた。

その時間帯は、沢山の降りて来る人と、すれ違いながら上って行きました。

上りながら強く感じた事は、私は、誰だか分からない人達に、導かれ、守られている、とゆう感じでした。

でも初めて山に登る私は、凄い地獄の思いを何度も、何度もし、とうとう気を失って倒れてしまいました。

気を失って倒れる寸前、私は、この命と引換えに、今まで道理食堂が経営できて、Kに、私の一念が通じ真人間に生まれ変われますようにと、お願いした。

その時、もう一人の私が出て来て、私に、この世に思い残す事は、無いかと聞かれ、私は、何故か不思議な位、清々として、何も思い残す事は、無いと、言った途端に気を失ってしまいました。(この時、私は、死んだと思いました。)

私には、とっても長く気を失ったように、思えましたが、実際は、そうでも無かったみたで、気が付いた時、一人のお坊さんが目の前に、立っていた。(この時お坊さんは、私を見るでも無く、遥か、かなたを、仰ぎみていた。)

私は、お坊さんを見た時、あー生きて、しまったのか、やらなくちゃならない事が有る、と思って起き上がった時は、お坊さんの姿は何処にも有りませんでした。

その時の私には、何でお坊さんが出て来たのか、考えている、時間なぞ有りません。

やっと頂上に着き、お参りを済ませ、急いで下山し、途中で売店から運転手さんに電話をいれ迎えに来てもらおとした所、登山の入り口までしか車が入らず、入り口で待って貰う事になりましたが、日がドンドン降りて来て、暗くなり始め私は、焦り運転手さんから聞いた降り方を無視して、転びそうに何回も成りながら、やっと下山出来ましたが、その場で、動けなくなり、もどしてしまい、暫く休みましたが、何としても、立って歩く事も出来ず、運転手さんに言って、新幹線の止まる新富士の駅まで行って貰いました。

その間、運転手さんは、色んな話を聞かせてくれました。

今度また来る事が有ったら、力持ちさんを頼みなさい。

在る一流企業の社長は、自身で上がれないので、籠で上がる。

私は地元の者だが、この、しちめんざん、を日帰りで、一人で来て、一人で上がって、一人で降りて来た何て、今まで聞いた事も無ければ、見た事も無い、あんた大変な事をやったね、と言われ、駅に着いた時、運転手さんから、何もやれ無いけど、杖を記念に持っていきなさい、と言われ杖を貰い、後は、私の身体は、全身、炎症を、起しているから、風呂は1週間位、入るなと注意された。

家に杖に、しがみ付きながら帰った私は、この姿をKに見せたら、大変な事になるので、精神力を使って、Kの前では、毅然としていたが、2日間、体中地獄の痛みに苦しみ、もう駄目かと思った時の3日目の朝、うそのように、全ての身体の痛みは、消えていた。

そして、食堂も、何事も無かっかのように、今まで道理、営業ができました。

私は、母の葬式が終わり、怒っている暇も無く、また忙しくなり、母の初七日とゆう事さえ忘れていました。

その日は、従業員が2人休みで、私は、夜勤をやって、1回、家に帰り、仮眠を取っていると、私を呼ぶ声が聞こえ、目を覚ますと、お袋が、私の枕元に立っていた。

その時の私は、夢か幻か幻覚か分からない中で、ごく自然な精神状態で、お袋と話しました。

私は、お袋に、どうしたんだと聞くと、お袋は、頼みがあって来た、生前、世話になった、地元の神社と、荒神様と成田山(一心寺)虚空蔵様に、有難うございました。とゆう挨拶に行って欲しい。

と言われたが、私は、今日は、人が2人休んでいて行かれない、他の兄弟達に頼んでくれと断ったが、お袋は、他の者じゃ駄目だ、お前で無ければ駄目だ、お前にしか出来ないんだ、頼む行ってくれ、午後3時までに、全ての挨拶を終わらせて欲しい。

お袋に、そう言われても、その日は、無理でした。

もし、この話しを夫Kに話して、仕事を代わってもらうとしたら、私は、Kと喧嘩になります。

Kの母、兄弟達は、神、仏、先祖が大嫌いで、手を合わす人は、馬鹿かキチガイと私は、言われ続けてきていました。

Kと親、兄弟達が、神社、仏閣、墓で、泣いて見せたり、手を合わせて見せるのは、人を惑わし、誑かす為だけでした。

Kに言えば、なに馬鹿な事言っていやがる、お前は、本当に頭がおかしいと、怒鳴られ、より一層、仕事をやりずらくされて、しまう事も良く分かっていますので、私は、お袋に、今日は、本当に、無理、行かれない、と言うと、お袋は、頼む行ってくれ、私は、動けない、前へ行く事も戻る事も出来ない、頼む3時までに、全ての挨拶を終わらせてくれ頼むと言って、お袋は消えた。

会社に着いた私は、2人休みで、その分やらなければ、ならず、

またKに押し付けられた、仕事も有り、お袋に頼まれた事も忘れ揚げ物を揚げっていると、お袋が怒って出てきて、仕事の邪魔をし、危なくって仕事が出来なくなり、私は、お袋に分かった、3時までに、全ての挨拶を終わらせると言ってしまた。

本当に参りました。

12時が過ぎた時、私は、近所から来ている、私を子供の時から知っている雑用をしてもらっている、Mさんに、母の事を話し、私の話しが分かりますかと聞くと、Mさんは、はい分かります。

と言ったので、私は、Mさんに、理解できますかと、聞くと、はい理解できますと答えたので、私は、Mさんに、これから出かけるけど、私が帰ってくるまで、責任を持って店をやってくれと頼み、直ぐ挨拶に行った。

時間は、2時間ちょっと、しか無く焦りました。

全ての挨拶が終わったのは、2時55分に終わり私は、ほっとしました。


母が亡くなってから、成田山(一心寺)の住職と母の話しをする時が良く有ります・

住職は、私に、貴方は、お母さんから、遺産を一銭も貰っていないと良く言うけど、貴方は、お母さんから、大変な良縁を沢山、貰っているんですよ。

本当に有り難い事だっと思っています。