青空のように 小細胞肺がんの母とわたし -10ページ目

青空のように 小細胞肺がんの母とわたし

母の闘病記。当初限局型でありながら完治しないと言われ2ndオピニオン等諦めてしまった母。しかし標準治療を取らなかった最初の病院に疑問を持ち県立がんセンターに転院、完治目指すも間に合わず多発転移、放射線治療抗がん剤を終えて在宅で緩和ケアがはじまりました。


珍しく一日に二度目のブログ投稿です。


他県でひとり暮らしの息子が

母(祖母)に会いに来てそのまま泊まるので

わたしも実家に泊まることにしました。


明日は仕事をお休みし、弟とわたしで

がんセンターに午前中行くので
(ソーシャルワーカーさんと面談)

夫と娘に断り入れて、もう泊まっちゃえと。


夫と受験生の娘がどうぞどうぞと

言ってくれ、本当助かる、ありがたい。






父もこの急な母の変化で毎日が主夫業。

特に「毎日の炊事」これは八十に近い父には

少しアップアップしてる様子。


二階の弟夫婦からの差し入れや

わたしの差し入れを有難りつつ、

でも出来るだけ自分でやるよ、と。

それでもひとり分の献立を考えるだけで

負担なんだろうなぁ〜。




先日のがんセンターから帰宅し

もう母も食欲がなくて寝てしまい

父がじゃあと自分の献立を悩んで

作ったのがお雑煮

ほんだし、醤油、白菜にレンチンしたお餅

あとは冷奴でいいや、と。



そばに居て献立考えるところから口も手も

出さずに見守りつつ、

なんか味が決まらないなぁとヘルプが有り

万能の麺つゆのチョイ足しを勧めました。


そうしたら、おおっヨシいいぞチューグッ

味付けの微調整を覚えました。


「麺つゆは麺にだけと思ってたよぉ〜」
 
「これは便利だ、麺つゆ様々だ」



醤油味の煮物スープに困ったらOK麺つゆ

後期高齢者でもまた一つ勉強になったウインク

なんて言って笑ってた。



母の事で心労があるだろうけれど

こうして少しでも笑う父を見れると

わたしもホッとする。



こんな感じで頑張る父に、

今夜は少し主夫業に、特に台所仕事を

休憩してもらおうと

夕飯は実家の台所でわたしが鍋作り。




ひとり飯が多くなる父と

普段ひとり飯の息子と3人で

あったかい鍋🫕を囲みました。


普段父もアルコールを飲まなくなって

居たけれど、

今夜は孫とビール🍻を酌み交わして

これまた表情がほころんでいました。


鍋の材料を求めて料理をはじめる前に

食材チェックで母の冷蔵庫や冷凍庫の

ストックをゴソゴソと…発掘作業的。



手前の方にはだいたい直近で母が作ろうと

思っていた材料達がひしめいていて。

例えば焼きそばの麺とかあれこれ食材が

ギュギュっと。


そして奥に行けば行くほど

賞味期限切れやダメになったもの

同じ食材が出るわ出るわ。


竹輪がなぜこんなに?と言うくらい。

あと干物やお惣菜なんかが。

野菜室でももう残念なものがあれこれ。


先月冷蔵庫整理してたけれど

それからまた母なりにまたせっせと

料理を頑張ろうとしてたんだな。



食べれなくなり、認知症もあり

管理も難しくなりつつも、

この数週間前に母がかろうじて台所で

調理をしようとしていた姿が

目に浮かびます。



母も突然の体力体調の悪化に、出だしは

戸惑っていましたが…

もう今は仕方ないと少しずつ覚悟を

決めているのか…、

それとも意識もまだらに浮上したり

夢うつつなのか…。


泣いたりなぜ?どうして?等の

心の乱れが現れなくなりました。


ほんの3日前でしたか

リビングダイニングまで起きだせた母が

ポツリ

「ごめんね先におじいちゃんより先で。

 ひとりでおじいちゃんがここで

 ご飯食べるのを思うと可哀想で

 申し訳ない…」と

ハラハラと泣きながら父に語ったそう。


鍋を囲みつつ、父が話してくれました。

だから、ばあちゃん今日こうして

お前たちが俺とご飯食べてるの

笑わなくてもわかって喜んでるだろうよ、

と。





少しずつ

少しずつ

母の命の仕上げなのでしょうか。




なんとか往診医の手配が間に合って

自宅で出来る限り側に居てあげたいです。

そしてできればこの家で旅立つのを

見送りたいです。




ケアマネージャーさんや訪問看護師さんも

先に出来る事はどんどん動いてくれていて

ほんとありがたいです。



皆んなの想いが叶いますよに。