西武ライオンズタイムマシーン(第408回):1981年 林義一 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

(1981年西武ファンブックより)
若いバッテリーに打者との駆け引き、投球術、呼吸などを教えられるベテランコーチ。
選手が理解できるまで、懇切丁寧に話し合うタイプ。
いくつもの球団で、監督、コーチをつとめた豊富な経験の持ち主だけに、説得力も十分。

 

【1981年の林義一】

西武コーチ:1年目(61歳) 、背番号80

二軍バッテリーコーチ

 

徳島商業高校、明治大学を卒業し大王製紙に就職。
その後、徳島新聞記者を務める傍ら、地元徳島のノンプロチーム「全徳島」で野球を続ける。
同チームではエース兼4番打者として2年連続の都市対抗野球出場に貢献した。

1949年秋に大映へ入団し、11月に早速プロ初勝利をあげた。
プロ入り後に上手投げから横手投げの技巧派に転向。
2年目以降は、5年連続開幕投手を務めるなどチームのエースとして活躍。
3年目の1951年には第1回オールスターゲームに選出され、第3戦でMVPを獲得。
4年目の1952年4月27日対阪急戦で、パ・リーグ初のノーヒットノーランを達成した。
9年目の1957年に阪急へ移籍。
10年目の1958年限りで現役引退。

引退後は近鉄コーチを経て1964年に国鉄の監督に就任。
1年目は5位に終わると、2年目は開幕から6連敗。
その直後に球団経営が国鉄からサンケイに一本化され、サンケイ側の意向もあり4月27日に退任に追いやられた。
その後、阪神コーチ、テレビ解説者、スポーツ紙評論家を経て、1981年シーズンから二軍バッテリーコーチとして西武へ入団した。

 

【1981年当時の記事写真とコメント】

投手の個性を大切にして教える林コーチ