(1981年西武ファンブックより)
ライオンズが欲しかった若いバリバリのコーチ。
選手からは兄貴のように慕われている。
作新学院、早大、ロッテと常に優勝に貢献した輝かしい球歴を生かして、若手にうまみのあるピッチングを指導している。
【1981年の八木沢荘六】
西武コーチ:1年目(37歳)、背番号73
高校時代
1962年:作新学院3年時に春の甲子園大会でエースとして同校の初優勝へ導く。
※作新学院は夏の甲子園大会も制して史上初の春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に赤痢菌が検出され準々決勝からベンチ入りするも不出場だった。
大学時代
早稲田大学へ進学しエースとして活躍。
東京六大学リーグで通算24勝をあげるなど3度のリーグ優勝に貢献した。
オリオンズ時代
1966年:第2次ドラフトで東京オリオンズから6位指名で入団。
1973年:10月10日対太平洋戦ダブルヘッダー第1試合で完全試合を達成。同年には、7勝1敗、勝率.875で最高勝率のタイトルを獲得。
1976年:コーチ兼任となる。
1979年:現役を引退。
通算投手成績:394試合71勝66敗 8セーブ、投球イニング1200回、自責点443、防御率3.32、567奪三振。
1980年:ロッテ二軍投手コーチ。
プロ入りから前年までオリオンズ一筋14年だったが、1981年は、西武一軍投手コーチとして招聘された。
西武は八木沢が投手コーチに就任するまでの2年間、投手コーチ適任者が見つからずにいた。
前年まで投手コーチだった浦田直治は捕手出身であり、根本監督から「手伝え」と半強制的に投手コーチを任されていた。
しかも、スカウトを兼務していた為、浦田自身スカウト専任の希望を強く出し続けていた。
そんな状況下でようやく現役引退から3年、年齢もまだ37歳と若く、プロ、アマ時代に選手として輝かしい実績を残し、ロッテ時代にコーチ経験もあった八木沢に白羽の矢が立った。
【1981年当時の記事写真とコメント】
実績をかわれライオンズ入りした八木沢コーチ