西武ライオンズタイムマシーン(第325回):1980年 毒島章一 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

(1980年西武ファンブックより)

自らバットを持って、腰の使い方など実際にやってみせる熱意の持主。
努力すれば打てるが信念。

 

【1980年の毒島章一】
西武コーチ:1年目(44歳)、背番号77

 

1954年:東映へ入団。
1957年:6月23日サイクル安打を達成。
1968年:通算100本塁打を達成。
1969年:コーチ兼任となる。
1971年:通算2,000本安打達成にあと23本まで迫る通算1,977安打を放っていたが、肩の怪我が悪化。現役続行を断念し引退。

 

現役時代は、東映フライヤーズ一筋18年『ミスターフライヤーズ』と呼ばれた。
リーグの三塁打王を4回獲得、通算でも福本豊に次ぐ106本の三塁打を放っている。

引退後の1972年、1973年は、東映・日拓で二軍打撃コーチを務めた。
その後、1978年、1979年は、太平洋・クラウン・西武でスカウトを務め、1978年オフには、巨人に決まりかけていた松沼兄弟を逆転で獲得するなど手腕を発揮した。

1980年は、スカウトから二軍打撃コーチに転身。
グラウンドで若手選手の指導と育成を任されることになった。

 

【1980年当時の記事写真とコメント】