【1979年の吉田大介】
西武在籍(練習生):1年目(16歳)、※クラウンライターから残留、背番号82
一軍、二軍試合出場なし。
1977年秋平和台球場で行われたクラウンライターライオンズのテストに参加。
テストには、約80人の中学生が集まり、2名が合格した。
そのうちの一人が投手志望の吉田大介だった。
(1979年当時の記事コメントより)
小学校5年生の時からリトルリーグで活躍していたし、野球好きの父にずっと鍛えられてきた。
テストは新聞広告で知って中学生が相手なら絶対に負けない自信はあったから父に言ったんです。
中学を卒業後すぐに練習生としてクラウンライターへ入団。
昼は野球の練習に励み、夜は高校の夜学に通った。
練習場から高校へは割と近い場所にあったが、自宅からはそれぞれ20キロ以上も離れていた。
自宅からバス移動を利用していた為、毎日移動の所要時間は片道で2時間以上かかっていた。
朝は午前9時半からの練習に間に合うためには、自宅を早朝の6時半までに出る必要があり、夜は高校が午後9時半に終了し最終バスで自宅に着くのが午前0時近くになっていた。
当時の記事には「最大の悩みは過度の睡眠不足になる事」とありました。
そんなハンデを背負いながらも野球選手と高校生の両立を続けた。
だが、4年目が終わった1981年秋にもう一人の練習生・太田浩喜とともに解雇を告げられ引退した。