西武ライオンズタイムマシーン(第298回):1979年 浜浦徹 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

(1979年西武ファンブックより)

速球の速さは球界でもトップクラス。
あとはコントロールと落差の大きなカーブに磨きをかければ一線級投手の仲間入りができる。

 

【1979年の浜浦徹】
西武在籍:1年目(27歳)、※クラウンライターから残留、背番号13
投手成績:6試合 0勝 0敗 0セーブ、投球イニング12回、自責点11、防御率8.25

打撃成績:9試合、0打数0安打、打率.000、0本塁打、0打点、0盗塁

 

(イースタンリーグ成績)
投手成績:13試合 3勝 5敗 0セーブ、投球イニング72回2/3、自責点19、防御率2.35

打撃成績:15試合 25打数6安打、打率.240、0本塁打、3打点、0盗塁

 

1970年ドラフト会議でロッテから2位指名を受け入団。
1972年春にサンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学していた際、SFジャイアンツがロッテに譲渡を申し入れる。
ロッテ側は交換トレードなら応じると回答したことから、初の日米間の交換トレードとしてフランク・ジョンソンとの交換でフェニックス・ジャイアンツに移籍。
アメリカでは1Aフレスノに所属し、奪三振王に輝き2年連続で10勝した。
1974年に太平洋クラブへ移籍し、日本球界に復帰。
太平洋、クラウンでは1978年までの5年間で11勝の成績だった。

球団が西武へ変わった1979年は、開幕から二軍暮らしが続いていた。
ようやく8月22日対近鉄戦でシーズン初登板。
しかし、2イニングを投げ自責点5だった。
8月27日対日本ハム戦では、投手でありながら代走として起用されると、その後も8月30日対ロッテ戦、9月9日阪急戦でも代走として出場した。
本職の投手としては、チームが一方的にリードされた展開での登板に限られた。
この年は、6試合のみの登板も全ての試合で失点。
投球回数12イニングを上回る14失点(自責点は11)だった。