謹賀新年
2020年も西武ファン、プロ野球ファン、野球カードコレクターの皆様、本ブログをよろしくお願いいたします。
今年はライオンズ誕生から70年目の記念年ということで、ライオンズブルー時代の西武ライオンズ中心ですが、私も花を添えられるように、毎月10回以上の更新を目指したいと思います。
さて、新年1回目の記事ということで2020年という数字にかけて背番号20にちなんだ選手を人選することにしました。
その中でも西武球団が誕生した1979年に背番号20を背負った=即ちライオンズブルー初代背番号20の鵜沢達雄選手を特集することにします。
あくまで自己満足のマニアックブログですので、2020年のはじめに相応しいピッタリな人選だと思っています。
(1979年西武ファンブックより)
天性のバネを生かしたスピード。
フォームを固め迷いがなくなればローテーション入りもできよう。
【1979年の鵜沢達雄】
西武在籍:1年目(27歳)、※大洋から移籍、背番号20
成績: 2試合 0勝 2敗 0セーブ 防御率6.00
(イースタンリーグ成績)
投手成績:16試合 3勝 0敗 0セーブ、防御率3.38
打撃成績:22試合 3安打、0本塁打、0打点、0盗塁、打率.273
1970年ドラフト4位で大洋に入団。
1976年7月23日、巨人の王貞治に通算700号本塁打を打たれた投手でもある。
1978年オフに基満男との交換トレードで、根本隆と共に大洋から西武に移籍。
移籍1年目の1979年は、登板機会になかなか恵まれず、シーズン終了間際の10月にようやく一軍昇格し、10月8日対近鉄後期13回戦(日生)で初登板を果たした。
この試合先発・森繁和が6回裏に2点を失い0-5と近鉄に5点のリードを許した6回で降板。
ところが、その直後の7回表に西武が一挙5点を奪い同点に追いつき試合を振り出しに戻した。
そして、7回裏から鵜沢がマウンドに上がったが、その7回裏にマニエルに勝ち越しとなるソロホームランを浴びてしまう。
続く8回は無失点で抑えたものの、マニエルの一打が決勝点となり、そのまま5-6で西武は敗れ、鵜沢は敗戦投手になった。
その3日後の10月11日対ロッテ後期11回戦(西武球場)では先発のチャンスが与えられた。
しかし、7打者に対して被2安打、2四球と不安定な立ち上がりで2死を奪っただけで1回持たずに降板。
自責点は1点だったが、代わった二番手投手の永射がピンチで踏ん張りきれず、初回から4失点しこの試合は3-10で大敗した。
鵜沢はこの試合で敗戦投手になり2敗目を喫し、シーズン終了まで登板機会が無かった。
【1979年当時の記事写真とコメント】
迷いをなくして一気に爆発を
本来ならフロリダ・キャンプへ参加する実力の持ち主。
ここ数年故障に悩んだこともあって、グアムで調整。
根本監督は6月に出てきてくれればピッチング・スタッフが楽になると、期待をかけている1人。
この1、2年勝ち星に恵まれていないが、迷いをふっきってもらいたい。
二軍グアムキャンプで奮闘する鵜沢