西武ライオンズタイムマシーン(第161回):1986年 大田卓司 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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【1986年の大田卓司】
西武在籍:8年目(35歳)、背番号25
成績:59試合、36安打、打率.235、7本塁打、22打点、1盗塁

 

1986年は、開幕戦で本塁打を放つなど幸先よくスタートしたものの、その後は調子が上がらず、秋山、清原ら若手の台頭もありプロ通算18年目にして現役引退を決めた。

日本シリーズは、第6戦の2回表に広島・大野からソロホームランを放ち、3-1で西武が逃げ切り勝利打点を記録した。
そして迎えた最終第8戦は、5番左翼で先発出場。
2-2の同点で迎えた8回表、先頭の清原が安打で出塁し、大田に打席がまわってきた。
次の1点が大きく日本一を引き寄せる事になる試合展開だっこともあり、大田は送りバントを試みたものの、痛恨のバント失敗で二塁をアウトにされて一死。続く秋山が三飛に倒れ、二死となりチャンスが潰えかけた。
続くブコビッチが打席を迎えたとき、一塁ランナーとして残っていた大田に一塁コーチャーの伊原コーチが耳打ちし「俺が声を出したら、行け」との指示を出した。
これには大田自身も驚いたそうだが、金石のクセを見抜いていた伊原コーチが投球6球目にその声を発し、大田も思い切り走り意表を突く二塁への盗塁を成功させた。
直後にブコビッチがタイムリーを放ち、大田がホームに生還し3-2に。
これが決勝点になり西武が大逆転日本一を決めた。

大田は、日本一で有終の美を飾り現役引退を決意していた。
しかし、球団管理部長の根本陸夫は、大田を大洋へ移籍させるべくトレードを画策していた。
根本の説得に一瞬、心が揺れ動いたが、最終的には「もう体が無理だから」という理由で引退を決断。
翌年は評論家になり、テレビやラジオで解説を務めた。

 

昭和61年度(1986年)タカラプロ野球カード

 

1986年8月6日対近鉄戦(藤井寺)の8回表に西武は驚きの1イニング6本塁打を放ちました。

西岡良洋→清原和博→石毛宏典→ブコビッチ→秋山幸二→大田卓司。

これは現在も「1イニングチーム最多本塁打」のプロ野球記録です。

大田は、その6本目となる5号ソロを代打で登場し放ちました。

BBM2016年球場物語 No.126

この野球カードには、その時のシーンの写真が使われています。