はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)8月29日(木)

【高山やったぜ 初先発、初完封、初勝利】

 

○西武11-0南海●

西武にまたニュースター飛び出した。

それもプロ入り初先発で2安打完封の離れ業。

秋田商で甲子園に三度出場、三年春にはベスト8までいったあの高山郁夫だ。

「自分でも信じられない。三日前に『東尾さんの肩がおかしいから行くかもしれない』と言われて…。代役でここまでやれるなんてデキすぎ。次のピッチャーにうまくつなげればいいとだけ思ってましたから」と高山。

宮田投手コーチもひそかに高山の好投を期待していたというが、さすがに2安打完封は嬉しい誤算だったようだ。

 

社会人時代のプリンスホテル二年目に右足骨折の手術をした時は「野球を辞めようか」と秋田に帰ったこともある高山。

昨年は練習生。

今季もこれまで7試合10イニングで防御率9.00の敗戦処理役だった。

「野球をやっていてホントによかった。まだ右足の筋力は弱いし、スピードも高校時代のまでは戻らない。でも今日はスライダーとカーブのコントロールが良かった。」

 

松沼雅、郭、東尾…。15勝以上を期待できる三本柱がいなくなったと思ったら、4年目の工藤が、わずか四日前には5年目の小野がプロ入り初完封した。

そして、今度はルーキーの高山が続いた。

三本柱不在でも、こんな投手がまだまだいる西武は強い!

(西武球場:観衆2万5千人)

 

【写真】西武の苦しい投手陣にまたも救世主。

プロ入り初先発で南海を2安打、完封した高山

 

昭和60年(1985年)8月30日(金)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)8月2日(金)

【工藤2勝 毎回の12奪三振】

 

○西武5-2日本ハム●

快記録達成につきもののプレッシャーなど、自分の辞書にはありません、といわんばかり工藤のピッチングだ。

最終回、先頭の島田誠を得意のカーブで仕留め、毎回奪三振を簡単にやってのけた。

続く高代も三振で料理して、今季パ最多の12個。

180球を投げる力投で三振ショーを締めくくった。

「ホントですか。知らなかった。三振は多いなと、思ってたけど…。リードのおかげですよ」と工藤は同期の伊東を持ち上げた。

1、2回こそ制球がままならず、ピンチを作ったが「リリーフで投げているつもりでいったら」相手は三振の山を築き上げていたというわけだ。

無欲の投球を強調したレフティーも、名古屋電気高校のエースとして出場した五年前の甲子園・北陽戦では、延長11回で21三振を奪っている。

高校時代は三振奪取王だったが、プロ入り後は期待度の割には伸び悩んでいた。

今年も自主トレで左肩を痛め最悪のスタートだったが、郭の戦線離脱などもあって先発ローテーション入り。

完投で2勝目をあげて見事に穴をカバーしている。

郭のために作ったスピードガン表示がこの日始まったが、その「代役」工藤がスピード表示の数字よりも打者との対決にファンの目を引き寄せた。

これで14イニング連続奪三振を継続中。

江夏、木田ら先輩サウスポーの持つ23イニング連続に今度は挑戦だ。

(西武球場:観衆3万人)

 

【写真】毎回の12三振を奪って、完投勝ちした西武・工藤。180球を投げる力投だった。

 

昭和60年(1985年)8月3日(土)付 報知新聞より一部抜粋

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算354枚目】

カルビー1985年 No.217(表面)

 

カルビー1985年 No.217(裏面)

 

実は人生で初めてプロ野球チップスを買って引いたカードがこのカードでした。

単なる思い入れの強い1枚と言うレベルではなく、その後の私の人生も変えたと言っても過言でない1枚なのです。

詳細については、別の機会にブログに書きたいと思っております。

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算352枚目】

カルビー1985年 No.146(表面)

 

カルビー1985年 No.146(裏面)

 

1985年は来日1年目で開幕から期待通りの活躍を見せていただけにタイムリーなタイミングでカード化されました。

郭泰源のカルビーファーストカード(=初登場カード)であり、ルーキーカードでもあります。

そうそう1985年~1986年の2年間は背番号は「12」でしたね。

背番号の「12」が確認できる写真が使用された野球カードは、それほど多くの種類は存在していないかと思います。

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)7月8日(月)

【夢か!!郭出たぞ『日本最高』だ156キロ】

 

●西武4-5日本ハム○

ついに『日本最高』夢の156キロが出た。

1回高代への3球目と2回津末への1球目に計測した。

郭は昨年のロス五輪で158キロを出して『オリエンタル超特急』と話題に。

来日してからは153キロが自己最高記録だった。

日本では昭和54年頃からスピードガンが登場すると各マスコミが話題にするようになった。

当初は中日・小松辰雄152キロ(54年5月10日)や巨人・江川卓151キロ(54年8月26日)らの速球派が脚光を浴び始め、昨年6月20日に巨人・槇原寛己が計測した155キロが日本最速記録だった。

 

郭の156キロ最高スピードを体感した日本ハム・高代は「確かに速かった。でも、ボール一つ外角へ外れていたよ。だが、球審は速さにつられてストライクと言ったのじゃないのかな」と苦笑いで語った。

 

郭はこの試合で156キロの快速球を披露した一方で制球力を欠いていた。

1点リードで迎えた6回裏は四球で一塁、二塁へ走者をためた直後に田村に左越え逆転3ランを浴びた。

この一発が致命的となりチームも敗れた。

郭自身来日初の3連敗とあって、不機嫌そのもの。

日本最速を記録したことを問われた際も「156キロですか。暖かくなって、スピードが更に出るようにボク自身も願っています。それはいつ頃だって?分からないね」と味も素っ気ない。

郭自身はスピード記録よりも14試合で14本も浴びている本塁打が悔やまれるのか「コントロールミスね。まだ勉強することがたくさんある」と反省も忘れていない。

日本よりも暑い台湾で過ぎしてきた郭だからこそ、本人が語ったように暑さが増すごとに球速スピードもまだまだ上がる可能性は十分ある。

郭のスピード狂騒曲のボルテージも一層盛り上がること間違い無いだろう。

(後楽園球場:観衆1万8千人)

 

【写真】ついに出た!!郭は日本記録の156キロを記録する力投を見せた

 

昭和60年(1985年)7月9日(火)付 報知新聞より一部抜粋