はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

図書館で借りていた『92歳、広岡達朗の正体』を、約1カ月半かけて読了しました。
全400ページ近くあり、非常に読み応えのある一冊でした。



本書は、広岡達朗氏の野球人生を、以下の章立てで振り返っています。

第1章 出生~早稲田大学篇
 戦火の時代、そして野球との出会い

第2章 読売巨人軍篇
 “打撃の神様”との確執

第3章 広島東洋カープ篇
 指導者としての原点

第4章 ヤクルトスワローズ篇
 “ぬるま湯球団”の改革

第5章 西武ライオンズ篇
 現代野球の礎を築く

第6章 千葉ロッテマリーンズ篇
 GMとしての球界復帰

やはり、西武ライオンズ篇ですね。
石毛宏典、工藤公康、辻発彦、森繁和、大田卓司、田淵幸一、江夏豊といった錚々たる面々が、広岡達朗という人物像を証言しています。

広岡監督は西武在任4年間で、3度のリーグ優勝と2度の日本一を達成し、西武を全国区の強豪チームへと押し上げました。
唯一リーグ優勝を逃した1984年も、シーズン途中でいち早く若手主体へと舵を切り、翌1985年には日本シリーズこそ敗れたものの、世代交代に成功してパ・リーグのペナント奪還を果たしています。

しかし、結果を出していたにもかかわらず、1985年シーズン終了後に任期を1年残して辞任。
当時は、持病である痛風の悪化と治療専念が表向きの理由とされていましたが、本書ではそれとは異なる真相が語られています。
根本管理部長や坂井球団代表との関係悪化により、事実上の「解任」に近い形で西武を去ることになった経緯は、特に興味深く読みました。

興味のあるプロ野球ファンの方には、ぜひ一度読んで欲しい一冊です。

私自身が本格的にプロ野球にハマり、西武ライオンズの応援に熱を上げ始めたのが1985年。
その当時の監督が広岡達朗さんで、今でも個人的に大好きな野球人の一人です。

ブログを書くのに色々と調べていたら2月9日は、広岡達朗氏の94歳の誕生日でした。
このタイミングでこの記事を書いたのは、まったくの偶然です。
今なお球界のご意見番として健在な姿には驚かされます。
その存在感、やはり別格ですね。

 

2020年 BBMベースボールカード 読売ジャイアンツヒストリー1934-2020 No.11(裏面)
 

2022年 BBMベースボールカード 東京ヤクルトスワローズヒストリー1950-2022 No.24(裏面)
 

2023年 BBMベースボールカード 埼玉西武ライオンズヒストリー1950-2023 No.27(裏面)

今回は、森昌彦「レオの強さを探る」前参謀のメモから(中) のつづきです。

 

 

 

森昌彦「レオの強さを探る」前参謀のメモから(下)

"V3”フロントの勝利

ニューパワーも表面に出てきたゾ

バックアップ態勢

 

西武入団が決まった昭和56年(1981年)オフのことだ。

坂井球団代表が広岡新監督のもとに驚くようなニュースを持ってきた。

「レジー・ジャクソンがフリーエージェントになっており、獲得できる」というものだ。

聞けば8億円余りの金をつぎ込むという。

他の球団にとっては、夢のような話だ。

結局は広岡監督が「そういう扱いにくい選手はいらない」と断り、レジーはエンゼルスと契約してしまった。

大リーグのスーパースターを獲得しようとする意欲は「(日本の)SEIBUは金持ち球団」という大リーガーたちの評価を作った。

 

多少の犠牲を払っても獲物は逃さない。

今年の代表例が郭だ。

足かけ6 年、巨人との激しい争いに勝って獲得したオリエント・エクスプレ ス。

かなりの札束が飛んだと想像できる。

登板過多で途中リタイアしてしまったが、一年目でノーヒットノーランを達成するなど、スター不在のチームに光を与えた。

 

「V3」はフロントの勝利でもある。

昨年オフ、広岡監督は「大 砲をとらなければ、とても優勝は「ねらえない」とことあるごとに言っていた。

フロントは中日・大島と杉本、大石のトレードを推し進めたが成立しなかった。

年が明けて、田尾との交換が決まった。

この三番打者の加入は大きかった。

監督の望む大砲ではなかったが、クリーンアップの一角を任せられ、三番候補だった石毛を本来のトップに持っていけたからだ。

外人獲得、トレードと並んで戦力補強で欠かせないのが新人補強。

今年売り出した秋山を頭に松沼兄弟ら10人ものドラフト外入団選手が主力を形成している。

これは金の面でだけでなく、スカウト陣に確かな目があることの証明だろう。

現場の立場でいうと、ホントにいい体をしている選手が多い、ということだ。

ドラフト制が敷かれる前、自由競争時代に有望と思われる選手を片っぱしから集めて「多摩川に何億円も眠らせている」といわれたかつての巨人と似た面が少なからずあった西武に、少しずつ変化が起きているように見える。

ようやく「西武第二世代の男たち」が、表面へ出てきた。

 

聞こえてくる「西武王国建設」のツチ音。

そこには、現場を強力に支援する態勢がある。

練習場に代表される施設面。

ささいな例をあげると、広岡監督が自然食を提唱すれば、即座に選手の食生活を変えさせる実行力。

移動に使うバスは「一台では狭苦しく、体にもよくない」と常に二台を用意する。

スコアラーから「高性能ビデオカメラが欲しい」と要望が出れば即座にOK。

毛色の変わったところでは、西武建設が毎月、西武と他チームの選手のバイオリズムを調べて一覧表を送り届けてくれる…。

7年前の球団発足当時、関連企業からの出向社員で構成され、ギクシャクしていたフロントも、今ではスムーズになってきたようだ。

ただ、オールスターに出場したからといってお祝い金を出すことには閉口したが、球界一、二を争う厚遇に、最高に近い環境。

言い訳のきかない状況で、現場には無言の厳しい要求を出す。

すべてが目に見えない力になって、選手たちを後押ししている。

おわり

 

【写真】電撃トレードで田尾(中央)を獲得するなどフロントのパックアップ態勢は万全だった

 

1985年(昭和60年)10月3日(月)報知新聞より抜粋

今回は、森昌彦「レオの強さを探る」前参謀のメモから(上) のつづきです。

 

 

森昌彦「レオの強さを探る」前参謀のメモから(中)

実った米国「 野球留学」若手の台頭

激しい競争社会で貴重な体験を積んだ

 

今、私の手もとに、分厚いリポートのコピーがある。

二年前、米1A、サンノセ・ビーズへ野球留学した若手選手たちの報告だ。どれもが見知らぬ地での体験に大きく刺激された様子を感じさせてくれる。

その中に秋山のリポートもあった。

日本では想像できない激しい 競争社会であること。その中でいかに自己をアピールするかが問題で、日本での環境がとても甘く思 えたこと......。

そういったカルチャーショックが文字になっていた。1シーズンの1A留学や、秋季教育リーグ派遣などを通じて秋山をはじめ、工藤、高山、安部、駒崎、白幡ら"西武流教育法"を受け、プロ意識の素地を作っていった。そんな彼らが、今、異国での競争体験を生かしている。

 

誕生間もない西武を動かした田淵、山崎らが抜けた新生レオ。

広岡監督にしてみれば、若手を使わざるをえない状況にあったが、「これからは君たちの時代だ。力のあるものを登用していく」とオープンな競争開始を宣言した。「がんばれば試合に出られる。ポジションをつかめる。

今年は何とか100試合に出るんだ」と誓った金森は、それを勝ち抜いた代表例だろう。

上から押さえつけるのではなく、選手に自らやるんだ、と思わせることができたのは、選手たちに競争意識があったことと、スタッフの雰囲気作りが巧みだったからではないか。

 

【秋山が伊東が…ベテランの抜けた穴見事に埋める】

ヤングレオの代表選手は、五年目の秋山と四年目の伊東。

スティーブの動きが悪くなり三塁から一塁へ固定したため、当初は外野兼任だった秋山をサードへ回した。

ディフェンス強化がねらいで、広岡監督も「打率は2割5分程度だろう。ホームランをどのくらい打ってくれるかな」と言っていたほどで、40本近い数字は予想外だったろう。

「やっぱり責任を感じますから」と秋山は言ったが、レギュラー競争の激しい米国で積んだ経験と無縁ではない。

伊東も言っている。「オフに大石さんがトレードされた。あれでやらなければと思った」

五十八年の日本シリーズ、そして二 度のオールスターと大きな試合を経験して成長した若き女房役に、今度は責任を持たせたのだ。

「お前はレギュラー捕手。これからずっと、マスクをかぶるんだから」広岡監督は声をかけている。

不調・森に代わって渡辺が。郭、東尾が故障すれば工藤、小野、高山がといった具合に投手陣は見事なカバーリングをみせて、シーズンを乗り切った。もちろん独走態勢に入ったからこその起用もあるが、これまで素質はありながら、生かし切れなかった若手が、チャンスを自分のものにできるたくましさを備えた結果だと思う。

 

昨年、毎試合後、石毛以下の若手を集めてミーティングを行っ た。

いわば勉強会だが、その席で私は「君たちは将来を背負う人たちだ。西武誕生以後に入団してきた選手で優勝するためにも、互い勉強、研究していこう」と話した。その「生え抜きたち」の活躍が将来を明るくさせる。

 

 

【写真】ベテランの抜けた穴を見事埋めたヤングレオの代表は五年目の秋山と四年目の伊東だ(今年のオールスターで)

 

昭和60年(1985年)10月2日(日)付 報知新聞より抜粋

1985年12月西武ライオンズは新監督として森祇晶が監督に就任した。

森は1981年~1984年までの3年間西武で広岡達朗監督のもとでヘッドコーチを務めていたが退団。

1985年は野球評論家として文化放送ライオンズナイターや報知新聞紙上で解説をしていた。

森は評論家として活動していたこの1985年の一年間のことを「別の視点かつ客観的に外から西武を見ることができた良い機会だった」とのちに語っている。

 

さて、私の所有していた資料を探っていたところ1985年西武のリーグ優勝がほぼ決定的となった10月上旬、報知新聞で西武の強さを語っている記事を見つけました。

今回から3回に分けて紹介したいと思います。

 

 

森昌彦「レオの強さを探る」前参謀のメモから(上)

広岡監督の変ぼう「選手操縦術を方向転換」

独走の要因は昨秋の猛特訓「練習…実戦…練習」で若手育てる

 

四年間で三度目の覇権獲得という輝かしい瞬間を目前にして、広岡監督は、こう私に語りかけてきた。

「こんなにうまく答えが出るなんて…。開幕前は、いいところまで競り合うと考えていたが、優勝なんて頭になかった」

今は立場が違ってしまったが、かつて同じユニホームを着て戦った私には、その言葉が正直なもの、とみえた。

 

巨人を倒して日本一となった五十八年のチームに比べると、今年はかなり見劣りがする。田淵、テリーの両大砲に、石毛、山崎、大田といった素晴らしいワキ役がいた。投手陣も先発、中継ぎ、抑えがそれぞれに十分な働きをした。

大砲、ベテランが抜けた今年のチームはすっかり小粒になった。

それは昨年からある程度予想されたことで、広岡監督は優勝が絶望視された夏場にもう、オフの徹底練習を決意していた。

今年の独走の要因を探っていけば、昨年の秋季、冬季練習に当たる。

この段階では、田尾の加入はわからなかったわけで、広岡監督が「三番・石毛以外は白紙。どういうチーム構成にしていこうか」と思案していた時期だ。

昭和三十六年、川上監督一年目の巨人が、やはり長島だけだったのと酷似している。

当時、川上監督は宮崎―伊東―ベロビーチと続くキャンプで猛練習を課した。

体験者である広岡監督は、その再現をと思っただろう。

 

評論家時代、当時アスレチックスの監督だったビリー・マーチン(現ヤンキース監督)をキャンプ地・スコッツ デールに二人で訪ねたことがある。「実戦経験の少ない選手に休みを与えてはいけない。緊張感を解きほぐすことなく練習、実戦、そして練習で鍛え上げていくしかない」という話は、そのまま監督の考えの根底にあるものだ。

暮れの二十日過ぎまでバットを振り、ボールを追った。今年も開幕以後、百日以上も休みを与えなかった。

マーチンの思想は西武流の中にしっかり根付いている。

 

造けいの深い方象学によって、背番号80から91に替えた人。選手操縦術も方向転換したようだ。

かつては田淵、大田、東尾ら主力ベテランに対して、マスコミを通じて猛烈なコキ降ろし戦術を使った。

選手たちの反発を計算した上での発奮を促す手だてだった。「力を持っている人間が単純なミスをしてしまうことにイラ立ちがあったから。彼らの思想を変えたかった」というのが広岡監督の言い分だった。

ところが、現在の若い選手たちに対しては違う。考えてみれば、自分の息子と同じ年ごろなんだ。今は彼らにいかに力をつけさせるかなんだ」という。いわばクールな管理者の目から温かい親の目への変ぼうといおうか。

 

他の五球団のふがいない戦いぶりが独走に拍車をかけたとはいえ、広岡監督の思想が、選手たちに十分浸透した結果が出ている。球場を訪れると選手たちが「去年まで森さんに言われたことが、よくわかりました」と言ってくれる。広岡監督の考える野球を伝える役目だった私に嬉しい言葉だった。

広岡監督はシャイな性格で、昔から「この選手は自分が育てた」と自慢できる人ではない。が、秋山、伊東をはじめ才能のあるプレイヤーが出てきたのは事実。

西武をかつての巨人のように常勝チームにすることに燃えた男。

単なる優勝請負監督ではない。

 

【写真】昨年秋からの猛練習で、素質を開花させた秋山を見つめる広岡監督。3度目のVは目前

 

昭和60年(1985年)10月1日(土)付 報知新聞より抜粋

今から40年前の1986年の西武ライオンズは、森祇晶監督が就任。

その後1994年まで9シーズン指揮を執り、日本一6回、リーグ優勝8回という輝かしい成績をおさめ、ライオンズの歴史上でもっと輝いていた時代でした。

その1986年~1994年の第2次黄金期、まずは1986年当時の記事を中心に振り返っていきたいと思います。

 

1985年(昭和60)12月5日
森新監督を迎えて選手も一段と張り切る!
広岡監督の突然の退団で新監督が誰になるか注目されていた西武ライオ ンズだが、一昨年までコーチを務めていた森が3代目監督に就任した。

森は3年間コーチをしていただけに、ライオンズの選手の特徴はすべ 手の内にある。

とくに若い選手の素質を見抜き育てる点では定評があるだけに楽しみだ。

就任の抱負を「機動力を生かした野球をしたい」ときっぱり。

選手たちも新監督を迎え、一段と明るく、日本一奪回に張り切っている。

2026年も「はっきりいってライオンズびいきでした」ブログをよろしくお願いします。

 

さて、今年は森祇晶監督指揮のもと第2次西武黄金期の幕開けから40年という節目の年になります。

森監督時代(1986年~1994年)は、ライオンズの歴史上でもっとも輝いていた時代と言えるでしょう。

私自身も一番夢中になった時代です。

年末年始の休み中に当時の記事を引っぱり出してきましたので、順次振り返っていきたいと思います。

 

1986年(昭和61年)

西武ライオンズのチームスローガンは

「飛躍」
 

リードオフマン石毛宏典は、1986年MVPを獲得する活躍を見せます。

 

1986年、秋山幸二は41本塁打、115打点と球界を代表するスラッガーに成長。

注目の新人清原和博は高卒新人最多本塁打記録を塗り替えるなど、打率304、本塁打31本の大活躍で、文句なしの新人王を獲得。

AK砲が誕生した年でもあります。

 

やっぱりこの頃の西武ライオンズは強いし華があってカッコ良過ぎます!!

今年最後の投稿として「私にとっての2025年ライオンズ」を書こうかと思いましたが、正直、強く印象に残る出来事は多くありませんでした。

 

思い浮かぶのは、西武グループの「昭和100年事業」として行われた「ライオンズ75周年シリーズ」くらいでしょうか。

限定ユニフォームの着用やOBイベント、各種コラボや記念グッズなど、球団営業部の盛り上げは十分に感じられました。

ただ、グラウンド内から球団史に残るような話題が生まれなかった点は残念です。


オフの補強は久々に球団の本気も見え「強いライオンズ」の復活へ向けて第一歩を踏み出したと前向きに捉えることもできます。

歴史的低迷だった2024年を底と考えれば・・・。

あとは上を目指すだけです。


【私にとって2025年の一大野球ニュース】
 

長嶋茂雄氏の逝去です。
2025年は「昭和100年」にあたる年でした。
昭和プロ野球の象徴である「ミスタープロ野球・長嶋茂雄」が、奇しくもこの年に世を去るとは――。
まるで「昭和」という時代に区切りをつけるかのような、象徴的なニュースだったと感じます。

 

ルーキー・清原和博に熱い視線を送る長嶋茂雄(1986年春季キャンプ)

 


取材で西武球場を訪れた長嶋茂雄が、話題の大物新人・清原和博と笑顔で記念撮影(1986年)

 

【私と長嶋茂雄】

今から25年ほど前のことになりますが、長嶋さんにファンレターをお送りしたことがありました。
その手紙にはカードを同封し、「よろしければサインを書いていただけませんか」とお願いの言葉を添え、返信用の封筒も一緒に入れていました。

すると後日、本当に長嶋さんご本人がサインを書いてくださったカードが、返信用封筒に入って戻ってきたのです。

返信封筒が届き、サインカードが同封されていたのを見た瞬間の驚きと嬉しさは、今でもはっきりと覚えています。

その時の思い出とサインカードは大事な宝物です。

 

↓↓いただいた直筆サイン入りのカード↓↓

 

 

 

 

送ったカード5枚すべてにサインを書いて返信して下さいました。

 

返信用封筒裏面

長嶋さんのご自宅住所が記された判子が押されていました。

※掲載写真は、住所の一部をマスキングしています。

 

私は普通にご自宅住所を書き送りましたが、「田園調布・長嶋茂雄 様」宛てで手紙を出しても、きちんと長嶋さんのご自宅に届く――そんなエピソードは、当時ファンの間ではよく知られていました。

 

さて、西武ライオンズに話を戻すと2026年は、清原和博が西武ライオンズに入団し、森西武黄金時代の幕開けからも40年という、大きな節目の年になります。

本ブログでは、そんな1986年の出来事を中心に振り返りながら、更新を続けていきたいと思います。
来年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

40年前1985年(昭和60年)のライオンズ関連ニュース

「文化放送ライオンズナイター」が日本で初の大リーグ方式で放送

 

以下、1985年当時の番組紹介記事より

 

今年で4年目を迎える「文化放送ライオンズナイター」は、放送時間を昨年の1時間30分から3時間30分(午後6時~9時30分)と一気に拡大。しかも、毎週月曜日から金曜日の5日間は、西武を中心としたパ・リーグのカードを独占放送することを決定した。

 

だが、これだけなら何も驚くことはない。

文化放送が日本で初めて、「大リーグ流の思い入れ放送」を行うという。

つまり、いままでの公正中立な立場からの放送を、アナウンサーのおしゃべりから、企画まで、すべてライオンズ一辺倒にするというものだ。

「ハッキリいって、ライオンズびいきです。」が、今年の「文化放送ライオンズナイター」のキャッチフレーズだ。

 「秋山打った、これは大きいぞ!さすがロングヒッターだ!!期待にこたえてくれての大リーグ級のホームラン!!!」

「郭、投げました、超速球が外角低めに決まって、8個目の三振!さすがに速い!!相手打者は手も足も出ません!!!」といった、西武サイドに立った放送が流れてくるわけだ。

 

アメリカの大リーグでは、地元のマスコミが本拠地一辺倒の放送をするのはあたり前になっているが、日本では初めての試みだけに大いに注目されている。

ライオンズファンにとってはうれしい知らせだ。

また、雨で中止の場合は、ライオンズナインが登場して楽しいおしゃべりをする企画を考慮中だという。

アナウンサーは戸谷真人氏をメーンに中田秀作、坂信一郎、菅野詩郎の4氏が担当、またライオンズOBの森昌彦、山崎裕之氏に加えて、豊田泰光、関本四十四氏らの解説陣も期待できる。

今年の文化放送は、いまから大いに楽しみだ。

 

1985年当時の広告
 
【私の思い出】
私が文化放送ライオンズナイターを聴き始めたのが翌年1986年から。
ですが、当時の私はまだ実家で暮らしていた時代で関東地域ではありません。
すなわち文化放送が聴取できる地域ではありませんでした。
 
それまでは、巨人戦のテレビ中継がメイン。
野球が好きだったので巨人の試合も観ていましたが、時々流れる「各地の途中経過」で西武の試合経過を確認する事が本当の目的でありました。
そして、20時50分頃になると…。
「一部の地域は、20時54分で野球中継を終了します」的なアナウンスが流れると、私が住んでいた地域は80年代はまだ一部の地域に該当していて、21時前には巨人戦の中継も終了していました。
となると、21時のNHKニュースのスポーツコーナーまでの空白の時間を埋める術は、ラジオでの野球中継でした。
ラジオも巨人主催もしくは中日主催試合の中継がほとんどでした。
ある日のこと、地元のラジオ局が放送していた野球中継も21時には終わっていたのですが、それでも諦めずラジオの周波数を合わせるダイヤルを少しずつゆっくりゆっくり回していると雑音の中、遠くで中国語やら英語といった外国語番組などと戦いながらかすかに野球中継が聴こえたのです。
雑音:野球中継=8:2くらいの状況下でラジオに耳を付けて野球中継を聴き分けていると何と!西武ライオンズの試合だったのです!
これが私と文化放送ライオンズナイターとの最初の出会いでした。
その後間もなくして文化放送ライオンズナイターという番組だと知ることになるのですが、まだ小学生だった私は「文化放送」という放送局が存在していたことすら知りませんでした。
その日を境に夕方からラジオの周波数を文化放送に合わせ、ラジオにかじりつくのが日常になりました。
ラジオのスピーカー部分に耳を付けて聞いていると雑音が多く難聴になると母親から注意されたので、今度はラジオの音量を大きくして野球中継を何とか聞き分けようとしていると雑音の方がバカでかいのでうるさいと父親に怒られ…。いつしか家の奥の部屋で聴いていましたね。
次第に少しでもラジオを聴取しやすい場所、ラジオを向ける方角や角度、気候によっても左右されることも知り、知恵がついてきた私、ついにその数年後、高校生になっていた私は通常のラジオ音の7割程度のレベルで聴取できる場所を見つけたのです。
それは、家の前の道路脇にあった電信柱の下でした。
悩みは、実際試合が行われていても私の住んでいる地域が雨天だとこの作戦は不可能で、雨天時は電波が届き難いのか家の中だとほぼ聴こえない状況になるのです。
夏、夜は涼しかったですが蚊との戦いでもありました。
こんな事も。夜に家の前で私がずっと座り込んでいるからご近所さんにも家を追い出されたか?と不審がられた事もあったと思います。
そうそう、終盤に西武が逆転されるとよく電信柱を思いっ切り蹴って発散していたな~。
1980年代私の実家の地域でテレビでの西武戦中継はペナントレース中はNHKで土日祝でたまにあるくらい。
でも平日はテレビ中継ほぼ無し。だから文化放送ライオンズナイターを重宝し、雑音のラジオ中継を聴きながら西武の試合を聴き分ける、そんな日常が約8年間続きましたけどとても幸せでしたよ。
 
あれから40年信じられないくらい便利な時代になりました。
その間に、球場へ行かなくなりましたし、ラジオで野球中継を聴くこともほぼ無くなりました。
ネット中心に身近になり過ぎると「価値観」を感じないと言うか麻痺してしまったと表現するべきか…。
だから、最近は記憶に残らない試合や出来事ばかりになってしまいました。
そして、残るのはいつも昔の思い出ばかり…。
そうそう文化放送でよく耳にしたスジャータのCMとかは、私にとってはライオンズナイターとセットで懐かしい思い出なのです。
記憶を辿っていたら、まだまだ書けそうですが今回はこれくらいにしておきます。

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算366枚目】

カルビー1985年 No.456(表面)

 

カルビー1985年 No.456(裏面)

 

「おめでとう1500奪三振」

タイトル獲得選手を表彰する金枠仕様のカードです。

金枠仕様のカードは、シーズン終了後の短い流通期間だった為、発行枚数も他のブロックよりも少ないと推測されます。

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算365枚目】

カルビー1985年 No.447(表面)

 

カルビー1985年 No.447(裏面)

 

「おめでとう最多勝利打点」

タイトル獲得選手を表彰する金枠仕様のカードです。

金枠仕様のカードは、シーズン終了後の短い流通期間だった為、発行枚数も他のブロックよりも少ないと推測されます。

秋山選手は人気もあった為、1985年に発行された西武ライオンズ選手のカルビーカードの中では最も入手難易度が高い1枚です。