新連載小説  愛と幻想とミトコンドリア | サズ奏者 FUJIのブログ

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 タール砂漠の砂が眠りから覚めて起き上がったように、要塞都市ジャイサルメールは昔と変わらぬ優美な姿で国境線を見下ろしていた。しかし町の中は24年前となにもかもが変わっていた。龍二が当時投宿していたゲストハウス『ラムラム』の支配人のガンガーはラジャスタン解放軍の兵士となって、西部地区駐屯地にいたし、キャメルサファリのガイドとして龍二を砂漠の村に案内してくれたアマルディンは、ムスリム連合軍の指揮官の一人だった。土産物屋で、この地方特有の文様をあしらったベルトを商っていたローヒットは半年前にインド軍に入隊し、旅行代理店のアザドはパキスタン軍のスパイとなっていた。住民は四つの勢力に分かれ、誰が敵か味方かわからぬ疑心暗鬼の中で息をひそめながら、早晩起こるであろう破壊のときを待っているように思えた。


 カムラサペラは龍二の訪れを予期していたように、オレンジのペチコートと青のロングスカートのいでたちで手提げかばんを持ち、玄関に立っていた。あでやかな衣装に比べた肉体の印象の薄さは相変わらずであった。龍二は以前どこかで同じ光景を見たような気がした。


「昨日来たわ、ジャイプールから鳩が」

「カーン老人の指示でね。君に会う必要ができた」

「前に見たことのある光景だなんて思わないで。すべては新しい体験なのだから」

カムラは龍二の心を見透かしたように言った。

「行きましょう。夫は今いない。国境でパキスタン軍と戦闘中よ。去年国境警備隊」に入ったの」

「かまわない。ここを出よう。すべてはあの老人の指示通り。ジャイプールに帰るのだ」

「カーンはひとつだけあなたに話してないことがある、と書いてたわ。この町はもうすぐ内戦になるって」


人ごみを掻き分け、シルクロードの時代に立てられた隊商宿にたどり着いた。従業員は誰もいなかった。

「もうすぐここにインド軍が進駐してくる。少しの間だけ、体を休めたい。この24年いろんなことがありすぎたから」


 窓の割れた部屋にはむき出しの木のベッドがひとつあるだけで、強烈な午後の太陽がさえぎるものもなくふたりを刺した。


「不思議だ。まるで印象の薄い君に磁石のように吸い付けられていくのはなぜだ」

「あなたはわたしなの。わかった?24年前のあなたは見えるものしか見えなかった。自分に起こっている感覚にふたをして、作り上げた幻想にひきこもっていただけなの。ラジキという幻想に」

「ラジキ、、、、君の姉でサペラ随一の踊り子だったラジキ」

「そう、あなたは私たち姉妹にプレゼントをくれた。姉にはセイコーのブレスレット式の金時計を、わたしには犬のぬいぐるみを」

「君はまだ子供だったからね」

。わたしはあのとき隣村の男に嫁がされることになってたのよ。ある事件がきっかけでね。あったこともない二十歳も年上の男のもとに」


 沈黙の中で二人は接触し、息と熱が絡まりあった。

「この湿度はなぜ懐かしいのだろう」

「だめよあなた、目を閉じて。耳をふさぐの。ラジキ=女の幻想と縁を切るために」


 龍二はカムラの用意したアイマスクと耳栓をつけた。彼の視聴覚は停止し、女の皮膚の下の柔らかな細胞の息遣いまでがたちまち触覚に伝染してゆくのが感じられた。そこに器官があることさえ忘れられ、全身の細胞膜がもうひとつの細胞膜に入り込もうとした。突然カムラが龍二を突き飛ばした。耳栓が取れた。


「どうしたんだ、カムラ、いったい」

アイマスクをはずして龍二が叫んだ。

「どうしたんだろう、やっぱりだめなんだ、わたし」

「だめって、なにが」

「ゆがんでるの、わたしも。あなたとは違う症状だけどね。わたしにはあれが必要なの。リュウジ、ここじゃだめ。砂漠につれてってちょうだい」


 庭先で大きな物音がした。百人ほどのインド連邦軍が乱入しようとしていた。どうやら敵対勢力の隠れ家だったらしい。ほぼ同時に、町全体に空襲を知らせるスルナイの音がけたたましく響いた。パキスタン空軍の戦闘機が目の上を飛んでいた。龍二はとっさにカムラの上におおいかぶさった。


つづく