一部伏字にしてございます。
4 砂漠の逃避行 タール砂漠
えそにかかった右足を引きずりながら、私はとうとう世界の果てまでやってきた。初めてこの地を訪れた時の光景がよみがえる。砂漠のなだらかな丘の上、数十頭のラクダにまたがったターバンの戦士たち。沈みゆく夕日に照らされ、彼らの尻にしかれた色とりどりの敷布に縫いこまれた小さな無数の鏡が、水面に飛び散る太陽のかけらのように、清く白い光を放っていた。あれから何年が経ったのだ。
「ここが、本当の行き止まりだ。もうどこへも行くことはない。だがなんと美しいところだろう。」
「サンチェ、もう帰ろうよカルカッタに。ここは、あたし怖い。なぜならあんたがあたしを必要としなくなったのがわかるからよ」
「テスリーヌ、俺はごらんの通り夢を失った人間だ。人はある時期、自分を超えようと、自分ではない何者かになろうとして盛んに夢を見る。遠い日、谷底を流れる河にかかる橋の欄干につかまって、遠い街の、瞬きにも似たちらちらする家々の明かりをながめ、訳もわからず高揚した気分に包まれたものだ。あの小さな灯にともされた無数の人生が、これから世界に出てゆく俺の不安をあたたかく見送っているように思えた。人生には傷ついた血や不条理な涙がころがっているが、それでも生きるに値する素晴らしい世界なのだと言っているように思えた」
「何を言ってるのあんた。もうあたしが欲しくはないのかい。あたしの中であんなに元気に暴れまわったちん○んはいったいどうしたっていうのかい」
私のしなびたちん○んをくわえながら、女は泣いていた。
「もうよそうやテスリーヌ。ついに俺は機能を停止したんだ。ちん●んだけじゃないぞ。何処かが狂ってしまったんだ。たぶん、いつのまにか夢が死んでいた。それはな、絶えず水や肥料をやり、こまめに適度な光に当ててやらねば生きつづけられないんだ。不幸なことに、人は夢の死を知らずに育ってゆく。そして、すっかり成長しきったとき、ひび割れて擦り切れた心にはもはや夢のかけらもなく、ただ死滅した細胞の残骸を発見して驚くのだ。そして、人は夢をなくした後も、それなりの誇りを持って生きなくてはならない。気が遠くなるほどの長い時間を」
「もうやめようよあんた、そんな話」女はまだ泣いていた
そのとき、遠くから難民の群れと思しきラクダの隊列が近づいて来るのが見えた。先頭の男がラクダを降り、出来の悪いロボットのような口調で言った。
「われわれは朝鮮天皇国近衛師団の一行である。キムウンヨン天皇陛下のご家族もおられる。われわれに食と宿を提供するしかるべきおおやけの機関はないのか」
ずいぶんと格式ばったこっけいな言い方だった。私はテスリーヌにちん●んをなめさせたまま言った。
「ここらは風がつええや。よかったら俺のテントで休んで行け。ナツメヤシの実とハッシシのかけらぐらいだったら分けてやってもいいぞ」
将校らしいその男はうじでも見るような不快な表情で俺たちを見やり、つばをはき捨てた。
「しかるべき公共機関と言っている。わからないのか、この朝鮮語が。おまえは何処の国家に所属している。いってみろ」
「もう島には何年も帰ってねえんだ。島のことはわからねえ」
目の前の威張り腐った男は、私におもらしをなじった軍隊上がりの担任教師の安部を思い出させた。
「てめえさっきから何いばってやがるんだ。不愉快だぞ。誰が砂漠の支配者だと思ってるんだ」
私はちん◎んをくわえたままのテスリーヌを突き放しテントに戻ると、ありったけのさそりを砂の上にぶちまけた。
「この工場で培養されたサイボーグ人間どもに一人残らず毒汁をお見舞いしてやれ、さそりちゃん」
さそりときいて色を失った難民たちは、ラクダにケリを入れてあわてふためきながら地雷原の荒野にむけて走って行った。
「さそりもいねえ温室で暮らして何が天皇国だよなあ、あいつらこれから苦労するぜ」
私は男たちが落として行った煙草を拾って火をつけ、フェ×チオに疲れたテスリーヌの顔をゆっくりとなでながら、ふっくらした唇にそいつをそっと差し入れてやった。
「もうすぐ雨季が始まるよ。そしたらあんただって」
テスリーヌはなぜか含み笑いをした。そして鼻歌を歌いながら髪をすき終えると、いつのまに手に入れたのかジャスミンやらひなぎくやらを花輪にして器用に髪に飾り始めた。南東の空で、墨を吹き散らしたような雲の束が急速に厚みを増していた。風がますます強くなってきた。
「さっきからしゃっくりがとまらねえんだテスリーヌ。汲み置きの水が入った水がめはどこにあるんだ」 おわり
あとがき
アメリカ合衆国国務大臣を暗殺した男たちの逃避行を描いたこの小説は、前作『砂に埋もれた遺書』の続編にあたるものだ。世界で起きていることの真実も背景も、我々はほとんど何も知っちゃあいない、というのが私の見解である。新聞はうすっぺらな事実らしきものであふれており、わかったような気にさせる麻薬でしかない。少しばかりの海外体験のある私にはなんとなくそれがわかるが、真実のからくりを見抜くほどの材料を手に入れようとすればかなり危ない橋を渡らねばならないだろうし、真実を隠すことにおいては追随を許さない巧みな世界支配のシステムに、一個人が立ち向かうのは至難の業だ。せいぜいがこんな小説でも書いて、自分の確信を強化し、自己満足の悦に入るくらいが関の山、というものだ。だが、最近思ったのは、世界を支配する者たちの戦略がどれほど巧緻なものであろうと、一人一人の人間は戦略によって動いているわけではないということである。結果的に何者かに利用されているにせよ、個人の行動は常に支配者の望み通りに進むとは限らないということだ。それにしても、こんな文章、いったい誰が読むんだ?