14
ウードゥルの赤いりんご
蜂蜜のように甘いりんご
恋人が戻ってから心の傷が癒された
死にそうになる
何をしても満たされない
蜂蜜のようなりんごが好き
恋人が好き
ウードゥルのチャイ屋で男が歌っている。
「いい歌だ」
「この村の国歌みてえなもんだ。恋人とはピルのことさね」
「ピルってピルスルタンアブダルのことかい」
「そうだ。デリスタン解放戦争のときカラマンルの戦車にラクダで立ち向かった英雄さ」
「ピルは16世紀オスマン帝国に抵抗した吟遊詩人じゃあないのか」
「同じことさ。デリスタンでは英雄にはみんな彼の名前をつける」
「その歌の二番はこうじゃ。
ウードゥルでりんごを買った
恋人が逝ってしまってからかりんのようにしおれてしまった
海には海の法則
水の中で泳げるのは魚だけ
こんな恋に落ちなければ
こんな別れにならなかったのに
いつのまにか白髭のやせた老人がかたわらにたっていた。
「あなたは」
「さよう。あんたが探しているデデ。アドナン・ヴァルヴェレンじゃ」
度の強いメガネをかけた老人がだぶだぶのコートに身を包んで立っていた。
「東部アナドルのアルメニア共和国をつぶしたトルコ軍の次の標的はアッシリア人じゃ。アッシリア人はイギリスの支援を当てにしてシリアで反乱を起こすが、トルコ軍はアッシリア人と歴史的に仲の悪いクルド人を操って討伐隊を組織し、反乱軍は全滅する。イギリスはアルメニア人虐殺のときと同じくこれを黙認する。ケマルが徹底した反共主義者であることもあって、トルコ政府と妥協しソ連をけん制したほうがいいと思ったのじゃ。クルド人は心ならずもトルコ軍の最前線に立たされ、キリスト教徒の憎悪の的とされる。オスマン時代から支配者の駒として操られてきた歴史が、またも繰り返されたのだ。当時のクルド人は昔ながらの部族対立を克服できず、民族の連帯だの近代国家だの一握りのインテリの発想でしかなかった。だから1925年にケマルが神秘主義教団の道場を閉鎖したのに抗議して、保守的なクルド僧シャイフサイドがイスラム復古の立場から七千の兵と共に東部アナドルのワン湖周辺を占領したときも、多くのクルド人は傍観していた。しかしトルコ軍の容赦なき弾圧ぶりに、ムスリムの連帯というクルド人の牧歌的幻想は砕かれ、やがてケマルと共にトルコ解放戦争を戦ったクルド人将校イーサンヌーリが、シャイフサイドの乱の残党と共にアララット山で蜂起する。これが最初のクルド独立戦争じゃ。
デリスタン200万の住民は、トルコ系とクルド系、ザザ人を中心とした約40の多民族のよせ集まり。つまりわれわれは多民族の共存というオスマンの最後の遺産だった。その中には虐殺を逃れたアルメニア人や強制送還を免れたギリシャ人、仕事を失った宮廷楽師やジプシーたちが身を寄せていた。トルコ共和国が成立したとき、スンニー派による支配に服従を強いられてきたトルコ系アレウィーの中には、ケマルの理想を信じトルコ軍に身を投ずる者もいたが、一方でクルド人コミュニティはアレウィーとクルディスタンの二つの立場に引き裂かれて分裂。クルディスタン派はアララットの軍隊に合流してクルド独立闘争に加わってゆく。一方独立クルディスタンの支配を嫌う他の少数民族、特にザザスタン人の多くは、トルコ共和国にもクルディスタンにも帰属しない自由デリスタン運動を開始する。その武器はただサズのみ。サズだけが、民族に引き裂かれる以前の原初の記憶を回復できる。そこにはインドの蛇使いの音楽、東方正教の典礼音楽、カフカスやアゼルバイジャンの民謡、黒海の漁師の歌も、エチオピアのコーヒー労働者の歌も、今や腐敗堕落の遺物としてトルコ政府から禁じられたオスマン宮廷音楽まであった。あらゆる音楽が渾然一体となった芸術運動。あらゆる文化は本質において雑種である。それが彼らの主張だ。地中海世界がトルコとヨーロッパに、アナドルがトルコ系とインドヨーロッパ系に引き裂かれて行く時代に、音楽のみによって、国境に有刺鉄線を敷くことの無意味を感じさせようとした」
「つまりデリスタン社会はトルコ共和国派、クルド独立派、自由独立派の三つに分かれて反目しあっていた。そして自由独立派だけが民族主義を超える道を求めた」
「そうじゃ。ケマルによってトルコ分割の夢絶たれたイギリスとフランス、ギリシャは、まだどの勢力と手を結んだらよいか決めていなかった。ところが実に厄介な問題が、連合軍の側からすれば願ってもない事件が発生したのじゃ。ポグロムじゃよ」
「なんですかそれは」
「虐殺じゃ。ヨーロッパに移住したカラマンルがソ連の各地で殺されたのじゃ。その波は東欧にも達し」
「ちょっと待ってくださいよ。そのカラマンルとはなんですか」
「おおそうか。あんたは日本人じゃった。カラマンルとはな、オスマン帝国建国よりはるかに昔、東ローマ帝国、いわゆるビザンチン帝国の傭兵としてアナドルに住んでおったトルコ人の末裔じゃ。ビザンチン帝国の軍隊は異民族の傭兵で成り立っており、その中軸は実はトルコ人部隊じゃった。その傭兵の子孫はビザンチン滅亡ののちもアナドル一帯に住んでおった。彼らはトルコ語を話すギリシャ正教徒であり、1922年の住民強制交換によってギリシャ人とみなされてギリシャに追放された。デリスタンに住む約5万人のカラマンルもサズと共に去っていった。それはむごいものじゃった。宗教が違うと言うだけで言葉も習慣も違う異国へ追放されたのじゃ。当然社会にはなじめず、しかもトルコ出身者ということだけで差別を受け、犯罪に走る者も出てくる。特にデリスタンのカラマンルの持ちこんだサズはアテネやテッサロニキでも大いに力を発揮する。難民の下積み生活の中から生まれたレンベティカは、トルコ出身者のアウトローな生活を歌ってギリシャ当局の神経を逆なですることとなり、たびたびのサズ禁止令に対し、カラマンルは袖の下に隠せるような小型のサズをつくって対抗、ひそかに刑務所で演奏を続けたのじゃが、結局彼らはギリシャに失望し、ヨーロッパに移り住むことになる。しかしここでもトルコ人扱いされてゲットーに押し込められ、何か異常な犯罪が起こると、決まってカラマンルのせいにされて犠牲者が出た。ヨーロッパ人というやつはなあ、あきれるほどに執念深くて、十字軍のエルサレム略奪作戦に兵を送らなかったビザンチン帝国をいまだにうらんでおり、カラマンルはビザンチンの傭兵の子孫ということだけで、ヨーロッパ人の潜在的な敵意をかきたてたのじゃよ.。つらい日々の中で彼らの信仰は深まって行った。イスラム支配のもとでも改宗に応じなかった土着のキリスト教徒としての特別の誇りが、紀元前2000年にアナドルに初めての国家を作ったヒッタイト人を先祖と仰ぐ選民思想に通じてゆく。もっともこれは途方もない作り話にすぎんのじゃが、いまではだれもがそれを認めておる。というのはカラマンル虐殺があいつぐと、ドイツに住んでおったカラマンル人のギュネッシュ・オクタイという人物が、カラマンルの父祖の地ヒッタイトアシュラム帰還をめざすヒッタイティズム運動を始め、アナドルにカラマンルの国家を作ろうと呼びかけたのじゃ。そしてキョトゥ湖のほとりでカラマンルが古代ヒッタイトの部族として神からアナドルの土地を授かったと記された紀元前の文書が発見された。これまたとんでもない偽ものじゃったが、これを機に、ヒッタイティズム運動はますます盛んになって行く。といってもほとんどのカラマンルが国家建設など夢のまた夢と思っておったはずじゃ。ところがヒトラーの登場ですべてが変わる。言わずと知れたホロコーストじゃ。ユダヤ人粛清の十年もまえに、多くのカラマンルが十字軍非協力の罪によりガス室送りとなっている。しかし驚くべきことに、ヒッタイティズム運動の指導者はカラマンル粛清についてナチスに協力しておった。なぜかというと、ナチスのような狂信政治が行われれば行われるほど、カラマンルにとってのシェルターとして、カラマンル国の建設が必要になるからだという。ナチズムはヨーロッパのまぎれもない正当な後継者じゃ。かつて異端審問によりイベリア半島からすべてのイスラムとユダヤ人を追放した精神、異民族への徹底した不寛容のシンボルが、アウシュビッツなのじゃ。そして傲慢にも彼らはわしらの土地を犠牲にすることで自分たちの罪をあがなおうとした。きのうまでカラマンルをアナドルの羊野郎と罵っていた市民たちが、猫なで声で人権擁護を叫ぶ。こうして1920年代からカラマンルのアナドル帰還運動が始まるのじゃが、問題はなんといってもヒッタイト建国の地であるアンカラがトルコ共和国の首都になっていることじゃった。そこで選ばれたのがデリスタンじゃ。確かにアナドルの一部には違いないし、14世紀までカラマンルの同族のカラマン人の国家があったこともある。しかし何よりも決定的なのは石油じゃよ。イギリスはすでにデリスタンの砂漠の地下に眠る無尽蔵な石油の存在をつかんでおり、その利権確保のためにキリスト教徒によるかいらい国家を必要としたのじゃ。イギリスは石油の利権欲しさに、ギリシャはビザンチン帝国帝国復活のための橋頭堡としてカラマンル建国を支持。一方デリスタン併合をもくろむトルコは、一気に南下して南部のイギリス委任統治領イラクも手中に収めようとしていた。そしてアララット山を血に染めたイーサンヌーリ部隊の生き残りが、体制建て直しのためデリスタンに帰ってくる。こうして1936年の大破局を迎えるのじゃ。」
俺の生まれ故郷はシノップ刑務所で
歌を歌った罪でつかまった
もう覚悟はできている
反逆者は世界を支配できないのだ
1936年当時トルコ共和国軍志願兵として東部アナドルに進駐していた
アドナンヴァルベレン少尉の回想
その年、トルコ軍が北からデリスタンに入り、北部の山岳地帯を占領した。そこはかつてアナドルとカフカスの吟遊詩人たちが山の聖者に音楽を捧げ、その力を競うアーシュク祭りの本拠地でもあった。わたしはなつかしくも苦い思いで山の方角を見つめる。あれはいつの年だったろうか。吟遊詩人の父に連れられてはじめてあの山のふもとに出かけた。ヴァンからやってきたデルヴィーシュのサズに、すべての岩山が呼応し、深いうねり声を発した。そのとき私の体は電気が走ったように熱くなったのを覚えている。「蛇神様の降臨だ」父はそう言ってサズを弾いてくれたのだ。
おれの故郷はシノップ刑務所で
歌を歌った罪でつかまった
もう覚悟はできている
反逆者は世界を支配できないのだ
「アドナン、何を感傷にふけっているんだ」
志願兵仲間のケナンは陽気に声をかけた。イーサンヌーリがアララットで自決した。自由デリスタン運動も無抵抗で降伏だ。反乱ごっこはもう終わりだよ」
私の体内でむなしさが広がって行った。
「ケナン、俺たちはトルコ革命に夢を託して結集した。宗教による差別のない明るく楽しいトルコを目指していたはずだ。ところがどうだ、やっていることといえば無数の少数民族に無理やりトルコ語を教え込み、フランスパンとドネルケバブの食事を強制し、私はトルコ人であると言える事は、なんと幸せなんだろう、と唱えさせることでしかない。宗教の代わりに民族が絶対的な価値になってしまった。みろよ、この町にはかつてグルジア人やアルメニア人がたくさん住んでいた。彼らから豊かな音楽を吸収して育ったデリスタンの文化は今やすっかり退屈なものに落ちぶれた。いったいキリスト教徒と言うだけで追い出してまで忠誠を誓わせる国家とはなんだ。なにがトルコ共和国万歳音頭だ、これが音楽か。だれがこんなもの歌えるってんだ」
「もうよせよアドナン、それ以上しゃべったら指導者侮辱罪でシノップ監獄ゆきだぞ。いいか、トルコ共和国ほど音楽を重視している国はない。今や国民の二人に一人がサズをもち、サズは音楽学校の正規の科目にも採用され、優れたサズ奏者はトルコ名誉芸術家として生涯年金を保証されている。卑しい音楽乞食扱いされ、貧窮の中に死んでいったオスマン時代と何たる違いだろう。われらがアタテュルクほど音楽に理解を示した指導者はかつてなかった。名うてのサズ奏者であるおまえに、それがわからないはずはなかろう」」
「そうだったな」
私はうなずいた。たしかにケナンのいうとおり、トルコ共和国はサズに代表される民衆音楽を重視する政策をとった。共和国の音楽大臣ズイヤギョカルプは国民に向けて演説した。あの気持ちの悪い明るい口調を今も覚えている。
「サズ奏者の皆さん、諸君らの素朴な音楽こそが、中央アジアから今に伝わるトルコ人の純粋な精神の表れです。これにくらべればスルタンの奴隷たちによって伝承されたいまわしいアラブ音楽など、本来のトルコ人の剛毅の気風に害をもたらし、柔弱と退廃と臆病を蔓延させた毒物以外の何物でも有りません。たとえばオクターブを九つに分割する微分音が元凶のひとつです。いいですかみなさん、皆さんの目指す音楽はただひとつ。西洋音楽です。この西洋音楽の魅力はなんと言ってもハーモニーですね。ソビエト連邦の人々の歌声のあの素晴らしさは、まさにこの和声の響きにほかなりません、ところがアラブやペルシャの悪しき影響がもたらした半音の半分の音などと言う大変気持ちの悪い音を、あたかも洗練された繊細な美意識の表現であるかのごとく思いこむ愚かな幻想が、いまだにわが国の民族音楽界を支配しておるのであります。それでは試みに微分音の音程に和音をつけてみるとよいでしょう。なんときたならしい、蛇がのたくっているような不快なノイズではありませんか。残念ながら皆さんがたの民謡の中にも、悪しき伝統から免れているとは言いがたい不純物が存在することは否定できない。これは音楽大臣として見過ごすことのできない問題であります。そこで私は提唱します。これからはすべての民謡にコードをつけ、ハーモニーで演奏することが望ましい。ナチュラルはナチュラル、シャープはシャープ、フラットはフラット、この明瞭にしてめりはりのある音感こそが、新生トルコにふさわしい文明開化の音、ヨーロッパに近づく進歩と統一のリズムなのであります」
耳を疑うような卑屈な植民地主義はいまでもトルコ音楽界を支配しておる。あのオスマン朝の時代、サズをもった吟遊詩人はイスタンブールに立ち入りを許されなかった。アレウィー蜂起につながる過去の歴史は、オスマンの支配者にこの楽器へのぬぐいがたき偏見を植え付けた。サズは宮廷芸術の器楽のリストからはずされ、宮廷ではウードやカヌーンナーイなどのアラブやペルシャ起源の楽器がつかわれた。このことが、つまり宮廷芸術に汚染されていない唯一の楽器であると言うことが、トルコ共和国政府の印象をよくしたのであろう。しかしかれらにとってサズはトルコ西洋化のための材料に過ぎなかった。確かに現在トルコではサズが国民的楽器とまで呼ばれて隆盛を見せておるが、かつて1オクターブを24に分割した先人の音感覚はもはや伝わっておらず、1にちを99の時間帯に分け、それぞれの時間の旋法を使って奏された即興音楽の流儀も、ほとんど姿を消してしまった。まして蛇の耳にのみ感受できる特殊なドローンを保ちながらの演奏法など、ほとんど消滅してしまったわい」