砂に埋もれた遺書その9 喪に服したテント小屋より歴史の闇へ | サズ奏者 FUJIのブログ

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1932年長老のテント小屋における最後のデリスタン民衆議会

砂塵の向こうにかすかに見えるのは赤地に白い月と星をあしらった見慣れぬ旗であった。シリア、トルコ、メソポタミアの境に住むデリスタン人にはそれが何か不吉な前兆にみえた。

「ジェンギース、あれは何じゃ。むかしわしがスルタンにはげたかを献上するするためイスタンブルをたずねたとき、うまれてはじめて旗という物を見たんじゃが、だいぶデザインがちごうておるようじゃのう」

「シャイフ、それはイェニチェリの軍旗でありました。しかしイェニチェリはとうに廃止され、スルタンもトプカプ宮殿を追われ、ドイツに追放されたと言う話です」

「なんじゃと。わしらのスルタンが。では帝国は、オスマン帝国はどうなったのじゃ」

デリスタンの長老シャイフケリブのテント小屋を重苦しい空気が包んだ。

「帝国はすでに滅んだそうです」去年の3月アゼルバイジャンのカラバックで開かれた全カフカス吟遊詩人大会にデリスタン代表として参加し、優勝してみごと羊五頭を持ちかえったバッサムが口を開くと、沈うつなため息があちこちからもれた。

「それはイスタンブルが例のヨーロッパ人どもに蹂躙され略奪をほしいままにされておるということか」

「シャイフ、あれはヨーロッパ人ではなく、ムスタファケマルという軍人に率いられたトルコ共和国軍です。ケマルはすでにギリシャ軍を撃退し、アンゴラ、今はアンカラというそうですがそこを首都としてオスマン帝国にかわるトルコ共和国を樹立しました。ケマルはイスラムをトルコがヨーロッパに敗れた一因と考え、徹底した政教分離をとり、フランスに倣って民族主義による近代国家を整備し、ヨーロッパの一員として花の都パリの社交界に出ても恥ずかしくない洗練されたトルコ民族の育成を目指しているそうです。かれは田舎くさいチフテテリはもうやめにして、男と女が組んで踊る優雅なソシアルダンスこそ文明化されたトルコ紳士の必須の教養であると側近に語ったそうです」

「ばかものめが、たわけたことをぺらぺらぺらぺら」

「わたしが言ってるのではありません。これはあくまでケマルの」

「このロバ男めが。ところでその民族というのがわしにはよくわからんぞ。それは信仰を同じくするものではないのか」

「違いますよシャイフ。それではオスマン帝国におけるミッレト制度と同じになってしまう」今年の春留学先の東京帝国大学を卒業して帰ってきたジャフェル・ユルドゥズが言った。

「民族というのは共通の言語をもち、共通の文化、習慣、歴史的信念に生きる人々のことで、イスラムに代わってわれわれを結びつける紐帯となるべきものとされています。トルコは遠い昔北アジアより移住したトルコ系遊牧民の末裔であるトルコ人の国であり、ザカフカスのアゼルバイジャンからブハラサマルカンド、シンジャンウイグルにいたる中央アジア一帯に住む者は、みなトルコ語の兄弟語を話す広い意味でのトルコ人である。つまり昨今はやりの表現を用いれば『ボスフォラスの船頭からカシュガルのラクダ曳きまで』みなトルコ人というわけです。しかしエンベルパシャがコーカンドのトルキスタン自治政府の支援に駆けつけ、ソ連軍と戦って戦死して以来、汎トルコ主義の熱はさめ、一国トルコ主義に転換したケマルはソビエトとの暗黙の了解のもと、国内の完全なトルコ化をめざしているのです。学校なるものが各地に作られ、そこではアラブやペルシャの影響を廃した純粋トルコ語による学習が行われ、子供たちはこんな歌を歌っています。『緑の山を持つ祖国よ、今おまえに挨拶がささげられた、勇気ある父が吉報をもたらした、トルコ人は偉大だと言った、わたしはもうつぎはぎの服を着ない、抑圧者には従わない、文明の民となろう、万歳共和国、わたしたちに完全な自由を与えてくれた』

「もういいジャフェル。おまえの物知りはようわかった。しかしわしは納得がいかんぞ。そもそもアナドル、トラキアを問わず、国という器はいろいろな言葉を話す異邦人の集まりであるのが普通である。現にこのデリスタンひとつとってもシリア付近にはアラブ、アッシリア、北東の山岳地帯にアルメニー、クルド、アゼリー、グルジスタン、チュルケズ、バシキールと住んでおる。みな言葉が違う。ここにおられる諸衆、たとえばジェンギースはアルメニー、バッサムはクルド、ジャフェルはアッシリアーニーである。わしの父親はダゲスタンのチェチェンで、妻のシーリーンはイランのバルチスタン出身じゃ.。そこに何か問題があるかの。みななかよくイスラム神秘主義の一派であるハイダルアリーを信仰しておるわけじゃし、こうしてペルシャ語やトルコを共通語にしておるではないか。またデリスタンとモスール州の境にあるハラン村にはトルコ語を話すカラマンも住んでおる。やつらはごりごりのキリスト教徒とばかり思っておったが、魔よけのまじないの文句などわしらとそっくりなのじゃ」

「シャイフ、ハラン村のルームどもは先年ギリシャとの住民交換条約により全員サロニカに追放されました。アルメニーはデリスタン州内を除いてすべて虐殺またはソビエトとシリアに追放されています。アゼリー人に今のところ動きはないようですが、すでに東部のクルド人はヴァンを首都とする独立国家をめざし、トルコ軍と戦闘中との情報が入っています。デリスタンのクルド人の中からも武器を取るものが出始めたそうです」

ジャフェルはクルド人のバッサムをにらんで言った。

「なっなんということじゃ、つまりそれは……この国を単一民族の国という幻想で固め、強制的な同化か、戦争による死かの選択を迫るものなのじゃ。これに間違いはないか」

「そういうことです」一同は口口に述べた。このとき、一人の若者が疲れきった様子でシャイフの小屋を訪ねた。

「シャイフ、大変だ。クルディスタンに抜ける街道がトルコ軍に押さえられちまった。俺はさっきマハバドのお笑いサズ寄席に出演するため、楽器ひとつで出かけたのさ。そしたら去年までアルメニアの修道院があったあたりに見慣れぬ旗が立っていてさ、武器を持った軍人が言うのさ。これからは州の外に出るのに共和国の許可がいるんだと。それでおれがくってかかったらやつら「こんなものがあるからわが国の治安が乱れるのだ」とかわめいて、俺のサズをこえだめに投げ込んじまった。あんまりだ、こりゃああんまりだ。サズに対してあんなことをする奴は人間じゃねえ、人間じゃあねえよ」

このときすでにイーサンヌーリ将軍率いるクルド人部隊がこのトルコ軍検問所を襲い、デリスタンはトルコ=クルド戦争に巻きこまれつつあった。多民族からなるアレウィー派の人々は、同化を押し付けるトルコ共和国と内部で台頭する民族主義者の二つの敵に直面していた。

「なんということじゃ。かのセリム一世とのいくさのときでさえ、オスマンの兵士はピルスルタン先生のサズの演奏に敬意を表し、デリスタンを直轄領とせず事実上の独立を与えたものじゃ。それが今サズを持つ者に無礼を働き、完全なる自由なぞと称してわれらにとって死活的な移動の自由を奪おうとしておる」

「シャイフ、この際共和国軍に加勢し、クルドの狂信的なイスラム主義者を打倒すべきです。オスマンの統治のもと、ペルシャに通ずる内部の敵と疑われ16世紀以来弾圧を受けてきたわれわれにとって、この革命はまたとないチャンスではありますまいか」

ジャフェルがいきおい込んで言った。

「ジャフェル、トーキョウーにいっておる間におまえはどうやら心眼をなくしてしもうたらしい。見えないものを見る。これがハジベクタシュ以来のわれわれの伝統じゃ。おおかたギオンかヨシワラカブキチョー、あるいはカワサキホリノウチ、ハナゾノジンジャ裏のユーカクあたりで落し物をしたんじゃろう。まあよい。土産の茶碗をみせなさい」シャイフは西洋文明の及ばぬ砂漠に住んでいるにしては極東の地理にくわしかった。

ジャフェルが新聞包みをあけると、そこには当時日本の都会人士のあいだで流行っていた朝鮮風の素焼きの湯呑茶椀のセットがあった。「高麗焼じゃな」シャイフサイードはしばし無言でその文様に見入っていたがやがておもむろにチャイをたてると、集まったもの全員にそれを飲むように奨めた。「一杯目の茶は人生のように苦く、二杯目に茶は愛のように濃い。そして三杯目の茶は死のように甘い。トルコ軍はまさに三杯目の茶だ。無知にしてこれに従うものはわれらの誇りのすべてを失うことになろう」

しかしシャイフの警告も空しく、ジャフェルは一族を率いてトルコ軍に加わり、デリスタンは内戦に引き裂かれて行く……・

第一次大戦の敗北により、オスマン解体は現実のものとなった。オスマン帝国のスルタンと連合軍の間で交わされたセーブル条約によれば、バルカンのすべての民族は独立し、東部アナドルにはアルメニアとクルドの共和国、黒海沿岸にギリシャ系の国家が作られ、いずれ西部アナドルとともにギリシャに併合される。ボスフォラスとダーダネルスの二つの海峡及びイスタンブールは戦勝国の管理化に置かれ、一定期間の後にイスタンブール周辺のみがスルタンに返還される。この屈辱的な状況からトルコを救うため、第一次大戦でダーダネルス海峡防衛に成功したムスタファケマル将軍をリーダーとするトルコ共和国軍が組織される。ケマルは英仏軍相手に戦闘を開始し、ビザンチン帝国復活の布石として西部アナドルに駐屯するギリシャ軍をエーゲ海に撃退して一躍救国の英雄となる。そして連合軍の傀儡と化したオスマン帝国を滅ぼし、あらゆるイスラム制度を廃して1923年の新生トルコ共和国樹立となる。トルコの小学生は胸を躍らせてこの建国の美談を学ぶのだが、実はトルコ共和国公式の建国はこの年ではない」

「どういうことなんだ」

「トルコ建国は西暦552年さ。この年に何があったか知ってるかい。アルタイ山脈のかなた、バイカル湖のほとりに住む突厥の伊利可汗がモンゴル系国家の柔然から独立した。これがトルコ人による最初の統一国家建設なのだ、と法律に書いてある」

「なんだって。そりゃまたむちゃくちゃな」

「それが民族主義というものだ。民族には実体がないから、誰もが都合のよい建国神話だの救国の英雄伝説だの持ち出して煽りたてる。いってみりゃあガラスのような人工物なのだ。しかしとにかくオスマン帝国の子孫は、器はだいぶ小さくなったものの世界地図から抹消されずにすんだ。そしてケマルの次の仕事は、トルコを純粋なトルコ人の国に作り変えることだった。新生トルコに残された領土の3%はヨーロッパ側のトラキア、残りの97%はアジア側のアナドルにあった。実際にはトラキアの面積はもう少し大きいのだが、 トルコのヨーロッパ国家としての印象を少しでも薄めたい国連によって少なめに公示されている。だがそんなことはまあどうでもいいんだ。当時トルコ領内には70を超えるトルコ語を話さない人びとがモザイク上に全土にわたって住んでいた。地域的にまとまってないからインドのように言語別に州政府を作ることもできない。とくに目障りなのはデリスタン砂漠に住む音楽遊牧民どもだ。トルコもクルドも隠れキリスト教徒どもも同じ村に住み、いまだに異民族で結婚し、ますます民族の識別ができなくなってしまっている。公用語は音楽などとうそぶき、神秘主義の修行と称して飲めや歌えの大騒ぎが大好きで、いつイランに寝返るかもわからぬ信用できない連中だ。しかし、イスラムと訣別し、政教分離の世俗国家としてトルコをヨーロッパの仲間入りさせたいケマルは、新しいトルコ人意識を作り出すにあたって、結局イスラムに頼るほかはなかった。アナドルのキリスト教徒をギリシャに追放し、ギリシャ領内のムスリムをトルコに移住させるギリシャトルコ住民強制交換条約がそれだ。これがのちのカラマンル建国問題につながり、200万人のデリスタン難民を生み出すことになるのだ。ケマルはすべてのよきムスリムはよきトルコ人である、という苦し紛れの建前をかかげ、少数民族の存在を無視してトルコ化政策を推進する。それまでのアラビア文字に変わるローマ字の採用。ペルシャやアラブの悪影響を受けたオスマン時代のトルコ語を駆逐する、純粋トルコ語運動。トルコ語の名詞のほとんどがペルシャとアラブからの借り物である事実は、堕落した過去の象徴であるとされ、次々に珍妙な新語がつくられ、地名もまた純トルコ風に改められた。フランスの教育がモデルとされ、トルコ語以外の言葉を学校で話した生徒の首には『方言札』がかけられた。その生徒は自分と同じ間違いをしでかした者を見つけない限り、いつまでも札をかけていなくてはならない。学校だけではなく、トルコ語以外の言葉を公の場で使用することを禁止したのもフランスをまねたものだ。こうして、人々が出自を隠してトルコ人を装うシステムが出来上がる。」

「セーブル条約で独立を認められたクルド人とアルメニア人の運命は」

「悲惨なものだった。すでに独立国家を樹立していたアルメニアは、ケマルの軍隊とソ連軍の挟み撃ちにあってわずか半年で崩壊する」

「ソ連が」

「トルコとソ連は少数民族の分離独立という共通の難問の解決にあたって手を組んだ。トルコは東部アナドルの支配のため。ソ連は独立派アルメニア人による共和国をつぶして共産主義者による傀儡国家を作るためだ。いっぽうクルディスタンの状況は」

突然アイテキンがりんごを口にしたまま倒れた。近くで銃声が聞こえ、数人の武装した兵士が馬に乗ってやってきた。兵士の一人が俺に言った。

「アイテキンは心臓が悪いんだ。さあもうお勉強はおしまいだ。ハッキャリ村がカラマンル軍の空爆にあった。シイルトも、ザホも、めちゃくちゃだ。奴らはいっきにドウバヤジットを占領し、さらに植民地を拡大する気だ。トルコもシリアもそれを望んでいるのだ。俺たちが戦闘状態に入る前に君はここを離れ、北のウードゥルに行くがよい」

「ナオト、きいてくれ。かんじんのデリスタンの運命は、ウードゥルのデデだけが知っている。だから君はデデに会って話の結末を聞いたらよいだろう。だがおれ自身はもはや音楽を信じない。サズで何が変わると言うのか。ゲットーに閉じ込められ、四方を民族主義者の銃口で囲まれたおれたちは、銃で武装するほかないからだ」

「この状況を見てみろよ。おれたちにはもともと失うものなど何もないのさ。俺たちがテロリスト呼ばわりされる理由はたった一つ。国家がないからだ。圧倒的に武装した敵の銃口の前で、音楽が何の役に立つかね。カラマンル市民が俺たちの帰還を求めて署名運動でも起こしてくれると言うのかい。奴らが俺たちから盗んだ土地を返して、おとなしく出て行ってくれると言うのかい。戦場から車で1時間のリゾート海岸でおたわむれの市民たちに、占領下の俺たちの痛みをわからせるのはもはや愛じゃない。俺立ちが味わっているのと同じ程度の痛みなのだ。」