小説 「砂に埋もれた遺書」その2 アレッポの娼婦サーサーンの秘密 | サズ奏者 FUJIのブログ

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シリア入国以来十日がすぎようとしていた。シリアのヴィザは二週間で、その間に外人局に出頭すればさらに14日間の延長が認められる。手続き上の書類はすべてアラビア語またはフランス語なので、俺は途方にくれていたのだが、たまたまフランス人ツーリストがやはりヴィザの延長申請にきており、そいつに頼んで記入してもらったと言う訳だ。外人局のすぐ近くには十字軍やチムールの侵略にも耐えた難攻不落のアレッポ城がある。エジプトやインドと違い、この国の名所旧跡には外人料金というものがなく、入場料はコカコーラ一本にも満たないコインで事足りたと記憶している。城内のすこぶる閑散とした道を抜け、穴倉のような石造りの邸内に足を踏み入れると、すぐ近くからすこぶる調子のよい音楽にのって、うたうような女のペルシャ語が聞こえてくる。 



「さあ親愛にして果報なるわが宝、誇り高きバルワクの血をひくアレッポのお客様よ。あたいのうまれはペルシャのシラーズで、おとうは道化香具師、お袋はパルミラの孔雀の名で知られた評判の娼婦さ。女だてらに猿や熊と一緒に育ち、さまざまな芸を仕込んで15年、あたいもさまざまな技を覚え、火を食ったり水を吹いたり、ついでにセタールの手ほどきも受けて、おとうとともにバルチスタンからコンスタンチノープルまでめぐりめぐって20年。かのカドキョイ士官学校のベイレルベイが更紗の薄物の間に見え隠れするわが胸の谷間に惚れさえしなかったら、今ごろ日の本ジャポン国の優雅な専業主婦として、ケエタイ片手にコウエンデビューなどしていたに相違ない」



女はサズをかきならしながら踊り始めた。体の線もあらわにしたノースリーブの上着にふんわりした襞の多いスカート、それに両手両肩に幅1センチほどの腕輪を幾重にもつけ、薄いヴェールをとったりはずしたりするさまは、イスタンブールのナイトクラブなんぞで踊られている今風ベリーダンスとはまるで違っていた。一言で言えば身の毛もよだつエロスというのだろうか。女の黒い髪がむちのようにしなり、汗ばんだ白い肌にまとわりつく。俺はムハンマドが女の髪が男の欲望をあおるので隠すようにと言った心境がよくわかる気がした。もっとも、ムハンマドが本当にそんなことを言ったかどうか。コーランといえばこの世で善行を積んで天国に行った男は、フールという永遠の処女と何度でも交わることが許されるといった知識しかない俺としては、はなはだ心許ない。さて女はしきりに俺に視線を投げかけ、その熱っぽさに耐え切れずおれは女がヴェールで顔を隠したのをきっかけに視線を転ずると、そこには5歳か6歳と思われる男の子が一人、無表情にたちつくしている。手足の至る所に水泡やらおできのような斑点が広がり、足はむくんで紫色に染まり、重い病気にかかっていると一目で知れる様子であった。



る淫れ女にシャイフのことば

気でも触れたか,いつもそう違った人と

なぜ交わるか

答えにシャイフよ私はお言葉の通りでも

あなたの口と行いは同じでしょうか



わたしのフェラージェさん ああ裾には金の刺しゅう

ねじれた口ひげがくるくる回る

行ってあなた ここにいちゃだめ

短剣を取って私の首を切ってちょうだい

それから5時には戻ってきてね

私を抱いて頂戴



わたしのフェラージェさん 袖口がきつそうね

仕立て屋サンに行ってはさみで切ってもらいましょ

腕の付け根から ばっさりと



気がつくとショーは終わり、女はしこたまかせいだシリアポンド札をスカートに押し込み、帰り支度を始めていた。周りを見れば客は俺以外に誰もいない。

女は俺の心を見透かしていた。「ドゥーユーハブサムスィング?」男性用のゴム製避妊具のことを言っているらしかった。「あいにく持ち合わせがないんだ。使うこともないだろうと思ってね」女は麻袋の中からドブネズミ色に変色したメンディル(ハンカチの一種)を取り出した。「これで充分さ。安心おし。ちゃんとコカコーラで消毒してるから大丈夫さ」俺の手首にからんだ女の指は燃えるように熱く、胸元に光るネックレスが誘うように揺れている。



「何落ち込んでるのさ。あたしゃ帰るよ。この子を病院に連れて行かなきゃならないんでね」「なんかあんたに情が移っちまった。おれも一緒に行こうか」「馬鹿言わないでおくれよ。そんな慈悲の心があるんだったらもうちっとはポンドをはずんだらどうなんだい」「いやそのっ…・あと3ポンドくらいだったら」「冗談だよばか。フダーハーフェス」「待ってくれ、あんたの名前を教えてくれ」「サンサーンといやあわかるだろ。イスラームのウマイヤ朝に滅ぼされたサーサーン朝の王家の家系なんだよあたしゃあ」

女が行ってしまった後、俺はけちけちせずにもう少し払っておけばよかったか、と悔やんだが、そんな後悔は必要なかった。いつそんな時間があったのか。ウエストポーチに入れておいた現金はそっくり消えていた。幸いトラヴェラーズチェックは無傷で、財布にいれたわずかのポンド札はそのまま残してあった。とりあえず今日の夕食代だけは残しておいてくれたらしい。






ある日スークの石鹸屋を訪ねた俺は、ひどい疲れとともに鈍い胸の痛みを感じた。

「バザールデゴザール、バザールデゴザール、ナオト、俺日本語うまいだろ。アイシテマアス、アイシテマアス、おや、どうも気分が悪そうだな。ドクトルにみせたほうがいいぞ」石鹸職人のバッサムの騒々しさが身にこたえた。

「いや、どこに病院があるかわからないんだ。心配だぜ。パラチフスが直りきってないのかもしれないしな」

「案内してやるぜ、おっとバクシシはいらねえよ。ここから車で10分くらいのアレッポ州立病院だ。今すぐつれていってやる。ガチョーン。イイトモー」

「バッサム、君はだれに日本語を習ったんだ」



バッサムハーラウィーの父親はアレッポがハレブと呼ばれていた頃からこの町に住んでいる。バッサムはここで生まれた。妻のゼイナブはドゥルーズ派イスラム教徒だが彼はアレウィーだ。ゼイナブは二度目の妻で、最初の妻とは子供の問題で離婚した。バッサムに種がないため妻に子供ができないので、妻の実家から無理やり別れさせられたという。「とんでもねえ欠陥商品を売りつけやがって、と親父は相手の父親から言われたらしい」

彼は軽口をたたきすぎる欠点はあるもののまじめな石鹸職人で、父親の後を次いだこの仕事に誇りを持っている。オリーブと月桂樹の油を皮ごと絞り、三日間釜で炊いてから溝に流し込み、2年間熟成させる。

「ナオト、いいことを教えてやろう。いま俺はこの石鹸をおまえの国に卸してるんだ。大きなビジネスさ。正真正銘天然百%のアレッポの石鹸は、人体の脂肪酸に最も近い成分であるところのオレイン酸を大量に含んでいるので、皮膚を荒らすことなく、脂肪酸を補い、お肌の滑らかさを保つのに最適だ。しっとりすべすべぷりんぷりん、コギャルからオバタリアン、キャピキャピヤンママからロウジンリョクの皆さんにいたるまで、アレッポの石鹸は日本女性の味方でーす」どこで覚えたのか今では余り使われなくなった流行日本語を駆使しながら、バッサムはすっかりセールスマンになっていた。



「戦争なんだ、こいつは。カラマンルのやつらへの。奴らの掲げるオルソドクス原理主義、それを黙認するいわゆる世界の良識とやらに対する、俺なりの筋の通し方なのだ」突然バッサムは言った。俺はうろたえた。彼の言葉の意味が理解できなかったのだが、バッサムはそれ以上説明しようとはしなかった。「そのうちいろいろなことがわかってくるだろう。今のおまえは何も知らない」



車はあっという間にアレッポ州立病院の玄関に着いた。

「いいかい、玄関を入って右側に受付がある。そこで受付の男に第一内科のジャミーラ先生をお願いします、というんだ。大丈夫だここは英語が通じるから。俺かい、俺はここで失礼するよ。釜の石鹸の味見に行かなくちゃあならないんだ。いやあほんというとな、アレッポ州の公務員とは折り合いがよくないのさ、じゃあな、マアサラーマ。今夜のイラク対ジャポン戦は見逃すなよ。」



「症状を説明してもらえますか」

第一内科診察室の重々しい机のむこうから涼しげな声がした。思わず息を呑んだ。三日前アレッポ城の地下室で会った不幸な娼婦であった。

サーサーン、いや第一内科のジャミーラ先生は俺のことをまったく覚えていないようだった。そんなはずはないだろうと俺は思った。たった三日前のことなのだ。

「サーサーン、アレッポ城で踊っていたサーサーンだろあんたは」

「そうよ」サーサーンは表情も変えずに言った。「さあそれはおいといて、どこが悪いのかな。わたしはここではダマスカス医科大学で心的外傷後ストレス障害について学んだ精神科医なのよ」白衣の上から黒のショールをかけ、クリーム色のスカーフで髪を隠したサーサーンは、アレッポ城で俺を誘惑したときとは言葉使いも別人のようだった。

「からかってるのかい。そんな詐欺まがいの冗談が通じるのかね、この国では」

「ほんとうのことよ」

「だったらなんで俺みたいな観光客相手に売春なんかしてるんだ」

「お金が必要なのよ、別に珍しいことじゃないわ。それにだれにもやらせるわけじゃあないわ。わたしは母親から習ったベリーダンスでアルバイトしてるだけよ。さあて他の患者さんも待ってるんだから診察を急ぎます」



サーサーンいやジャミーラはレントゲン写真を撮り、脈を調べ、舌の表裏をピンセットでつまんでから言った。

「パラチフスは完全に治ってるわ。栄養失調のため点滴の必要があるわね」そう言って点滴液の入った容器と針のついた管を俺に渡した。「自分でやれというのかい」

「まさか。部屋を出て右に行った突きあたりに点滴室があるわ。そこで看護婦に渡してちょうだい。それから、あなたカメラもってるでしょ。悪いけどそれで看護婦の写真を撮ってあげて。結婚証明用の写真が必要らしいのよ」といって笑った。



シリアでは点滴は一般に手の表面の親指と人差し指の間に注射する。1時間ほどベッドに身を横たえていたが、途中で液が血管を外れたのか、右手はむくんで一回りも大きくなっていた。これがシリア流というものか。しかし俺はパラチフスの再発でなかったことで安堵していた。病院を出てバス停に向かって歩き出した俺に、緑色のプジョーに乗った女が声をかけた。サーサーンだった。






 街に中心にそびえるオスマントルコ時代の時計塔の南に東西に広がるスークには、アーケードの下に1キロほどのメーンストリートが伸び、それと平行して無数の路地が網の目のようにはりめぐらされている。人ごみをかき分けるようにスズキのバイクが走り回り、その横をロバに麻袋を積んだ男が「どけ、すきまをあけろ」などとだみ声で怒鳴りながら歩いている。俺たちは今やアラブの都会では少なくなった昔ながらのオヤジの溜まり場にいた。水タバコをふかした男たちの視線が俺たちに注がれていたが、サーサーンは別に臆する様子もなかった。

「サーサーン、子供の面倒は見なくていいのかい。だいぶ具合が悪そうだったけど」

「子ども?私は独身でこどもはいないわ」

「しかしこの前連れていたあの男の子は」

「あああれ、あれは協会から借りてきたのよ」

「きょうかいだと」

「正確にはアラブ乞食振興協会アレッポ支部。ここに登録すると、乞食業を営む上で必要なさまざまな相談にのってくれるの。どこへ行けば実入りがよく、地元のボスに上納金を払わなくてもすむか。どこのモスクの信者が一番気前がいいか。警察の手薄な場所と時間、住民の同情心を買う身の上話のあれやこれやを、現役を引退した乞食の成功者たちが講師となってあらゆる知識を教えてくれる。もちろん必要な小道具もちゃんと調達してくれるわけ」

サーサーンの話は驚くべきものだった。

「小道具って何だ」

「わたしたちは道行く人に同情心をおこさせ、お金をいただくのだから、それなりの哀れな様子を見せないといけない。それも一目ではっきりとわからなくてはね。それには肉体的な不自由を売り物にするのが一番でしょう。目が見えないとか、手足が不自由だとか。アレッポには実際に体に障害がある乞食もいるけど大半はにせもの。専門家に金を払って障害者にしてもらうわけよ。もちろんメイキャップでそれらしく装うわけだけど、中には本当に手術で腕を切り落としたり、脚を捻じ曲げて歩けなくしたりする場合もある。この専門家は幸福の医者と呼ばれているわ」

「幸福の医者だと」

「乞食はね、アラブやトルコではほんとにもうかるのよ」といってサーサーンはアラビア語新聞の乞食特集の切りぬきをみせた。

新聞記事によると、カイロのナファーディー・アフマドという乞食はエジプトの乞食業界の無冠の帝王として知られており、彼の収入は月にだいたい3000ポンド。これはエジプトの大卒男子の初年度の年収を軽く上回るそうだ。寄付金を与えて乞食を辞めさせようとしたクウェート政府のもとに出頭したある乞食が、今までの収入と同じ金額を保証すればやめるといって月450ディナール要求したとか、バスラの乞食は30万ドル相当の大金を持って銀行に新札と交換にきたとか、そんな記事が満載されていた。

「おわかりかしら。でも踊り子の私は自分の体を傷つけるわけにはいかないでしょう。そこで協会から子どもを斡旋してもらい、夫を戦争でなくした哀れな未亡人を演じるわけよ。ほらこれが未亡人証明書よ」

サーサーンの差し出した茶色の紙切れには『ムハンマド=カビール伍長・1990年1月。イラクアメリカ戦争によりバスラで死亡』と書かれていた。

「しかしあんな重病の子どもを利用するなんてひどすぎると思わないか」

俺は女を買った自分の振る舞いも忘れて言った。

「だからあれもうそなのよ。手足を包帯できつくしばって一日たつと、血行が悪くなって手足がむくむでしょ。そこに上からなつめやしの樹脂を塗り込んだりバターをたらしたりすると、エソをおこしてるようにみえるのよ。ほかにも ハンミョウを塗って包帯で縛っておくと斑点や水泡ができて病気持ちに見せられるとか、肛門に猿の食道を突っ込んで潰瘍にみせるとか、いろいろなテクニックがあるわ」

「なんてことだ。子どもはどうやって調達する。さらってくるのか」

「まさか。子沢山で貧しい家庭の親はこの国にもたくさんいる。そんな親たちが協会に子どもを有料で貸出し、協会はそれを小道具の必要な乞食会員に貸出し、乞食の収入からレンタル料をとるというしくみね。いくらかの上納金といっしょに」

「あきれたね。いったいなんてことだ。そんなことをしてまで金がほしいのか。いったいなぜなんだ」

「サズを買うためよ。それも大量に。占領下のすべての市民に行き渡るほど」



いつのまにかサズを手にしたサーサーンは愛らしい顔立ちから想像できないようなたくましい声で歌い出した。

  



五万の歩兵がわたしのゆくてをはばむ

デルシム砦への道は閉ざされた

女たちはもう踊らない

敵はウルファ山を取り囲んだ

銃を撃ちつづけたので私の腕は疲れてしまった

もうすぐサズを弾けなくなることだろう

一人の少女がラクだと馬を連れて私の前に現れた

彼女の美しさは月の昇らぬ平原を照らした

あーひどく興奮してしまった私の心





「私の故郷はデリスタン。今その名を世界地図の上に認めることはできない。デリスタンは過去幾度も死に、サズの力でよみがえってきた。空気を震わせる振動がわれわれをつなぎとめ、そこにとどまることを許してきた。あの大破局の日までは。」



「わたしが話すことはとても現実離れして聞こえるかもしれない。特に長い間一神教の支配を受けるとともに、民族国家という異常に不自然な線引きになじんでしまった人々は、歴史の記憶からアレウィーの足跡をかき消そうとしている。それが自分たちを形を変えた従属への道に引きずって行くことも知らずに」

「ナオト。あなたはすでに秘密の扉に手をかけた。後戻りはできないようね」

「何のことだ。俺にはよく理解できないが」

「待っていたのよあなたを。この楽器に興味を抱いたあなたは、すでにわたしたちの歴史に関わってしまった。それはあなたの慣れ親しんだ世界からの逸脱を意味する。もう元にもどれないかもしれないのよ」

「アレウィーを知ることは、隠されたあなたを知ること。あなたの人間としての欠落はそこでようやく満たされる」

といってサーサーンはサズを袋にしまいこみ、帰り支度を始めた。



「さようなら、しあわせな牢獄からやってきた、黒い髪の客人よ。あなたはもう二度とここへ戻ってくることはないかもしれないが、わたしはあなたを祝福しましょう。あわれ人の世のキャラバンは過ぎて行く。だからこの一瞬を、わがものとして楽しみなさい、オマルハイヤーム」



さあ一瞬に明日の悲しみを忘れよう

ただひとときのこの人生を捉えよう

あしたこの古びた修道院を出て行ったら

七千年前の旅人と道連れになろう



「話はこれでおわります。私の役目はあなたをこの道の入り口に連れてくることだけ。ここから先はシーメー・カーンが案内してくれるはずよ」といってサーサーンは一枚の地図を渡した。

「アレッポを南下し国境を超えてヨルダンに入り、南に300キロ行きなさい。古代遺跡として有名なペトラ渓谷の東に広がるデルベデル砂漠に住むベドウィンの長老に会うのよ。最初にアカバに行きなさい。アマルディンという名のガイドがラクダに乗せてあなたをそこに連れて行くでしょう」

「待ってくれ。君はさっきおれの欠落した部分がどうのこうのといったがあれはいったいどういうことなんだ」

「あなたは選ばれたのよ。いいえ、いけにえにされたのかもしれない。サズの音色に魅入られたときから、あなたはここに来ることになっていた。文化の違いを超え、われわれはあなたの中に同じ周波数を認めた。世の中にはサズ的人間と非サズ的人間の二通りしかない。奇妙な表現だと思うかもしれないけど、つまりそういうことなのよ」