いやはや、ナントモ…

まさか、本物?の辰巳満次郎様

望外の喜びですじゃぁ~(_人_。)
まる子チャンが「辰巳満次郎様

実は、ってたいした言い訳ではナイのですが…。
まり子は主に携帯電話上で記事を書き、時々PC上で修正?しております。
その携帯が、あと僅かで償却完了するこの時期にバッテリーが瀕死状態となり、
常に外部から電力補給しないと、長時間使えなくなってしまいまして… (ノ_・。)
イッキに記事を書くポテンシャルが下がったと…。
まあ、それでおサボりしちまったってぇこったい、てやんでいっ。
って居直ってど~するの?状態でもありますが、次の機種をiPhoneにするか、
Androidにするか、未だ悩みの黒雲の中で迷っておりまする。
それはさておき、本題の別会能の感想ですが、まり子は今回「卒塔婆小町」と
「山姥」しか観られませんでした。
「卒塔婆小町」は、老婆となって落ちぶれ果てた小町が、くたびれたよドッコイショと
座ったのが「卒塔婆!」で、旅の僧に見咎められて問答になる、だからタイトルが
「卒塔婆小町」なんだ、って理解できただけで、歌詞は難解、マッタリの進行に、
まり子の瞼もマッタリとしてしまいましたとさ状態で、記憶も定かではございませぬ。
なので「山姥」のみの感想となりまする。
シテが朝倉俊樹師の舞台だし、メチャメチャ期待度が高かった「山姥」ですが、全く裏切られることなく、チョ~満足の舞台だったのです。
そもそも「山姥」ってナニ?って思いませんか?
毎度お得意のウィキペディアによれば、山姥とは奥山に棲む老女の妖怪らしいです。
人を喰らう鬼婆とも鬼女とも言われる一方で、山に迷い込んだ人に親切にしてくれる等の正反対の噂が伝えられる、謎の存在であります。
坂田公時(足柄山の金太郎)の母とも言われ、山姥になる前は遊女(八重桐)だったとも…、歌舞伎や文楽ではとにかくそういうお話になっております。
要は、山に隠れ?棲む支配されない民(昔TVで観た映画「瀬降り物語」みたいな)だったんじゃね~の~、と思われます。
(「土蜘」や「大江山」や「紅葉狩」みたいに…)
それで地唄舞のお稽古でも、
「山姥はね、お婆さんじゃないの。栄養失調の女の人なの。」
と先々代の家元がよくおっしゃっておりました。
ということは、山姥の山廻りって食料調達だったとは考えられないでしょうか?
春夏秋冬、生きる為に山を廻る…。
食べる為に山を廻る…。
孤独な山姥が、ひたすら生きる為、食べる為に山を廻り続ける長い苦しい時間に、独自?の悟りを得たとしても不思議ではありませんよね…?
それに比べて、形だけの山廻りを面白く曲舞にして舞う遊女の百萬山姥(百魔山姥)をどう思ったのか…。
能「山姥」は、本物だけが持つ圧倒的な真実を語るお能じゃないかな~、と思ったまり子です。
朝倉俊樹師は、まるで腰にタイヤを幾つも付けて砂浜を走るかの如く、いや一人でテニスコートをコンクリートのローラーで引くが如く、重々しくゆったりとした(でも暗くない)謡いで、シテの登場から見所をガッツリ引き付けます。
う~ん、相変わらずのオレ様ぶりがタマリマセン~

見所中が、うっとり聴き惚れてるのがわかります
ツレの百萬山姥に向かい、ぽっと出の小娘に何がわかるの、と貫禄を見せ付ける?シテの山姥!
あたかもGヒロミに向かって、マイケル・ジャクソンが
「アナタノじゃけっと・ぷれいガミタイデース」
と迫るかのよう…。
それにしても「山姥」は本当にシテ謡が多い!
納得、そして楽しめたイチバンでございました。
(ナンカ中途半端な感想だな~)
