アジア大魔王

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あまり整っていないもの、ちょっといびつなものになぜかほっとしていまう。 アジアを旅しているとそんな文化に触れます。 アジアの文化で人々は癒される。 ちょっとまぬけでどんくさいアジア的なる日々の備忘録、徒然

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【2008年8月~9月】タクシン逃亡とPDAの煽動、サマックの退場
 

 
北 京オリンピックの開会式の為に出国したタクシン夫妻だったが、8月10日、帰国予定のTG便に搭乗していないことが判明。タクシン氏とポチャマン夫人には 脱税や収賄などの嫌疑があり、ポチャマンには7月に有罪判決が出ていた。最高裁判断で出国許可は出ていたものの、ポチャマンの荷物の多さや空港での子供ら との涙の別れなどからマスコミ報道で逃亡の恐れが指摘されていた。サマック政権はそれを否定していた。11日に最高裁への出頭が命じられていたが、タクシ ンも有罪の可能性が高いと判断し逃亡に踏み切った。
 
 
 
11日、タクシンは逃亡先の英国で会見を開き「自分を政治的に抹殺しようとする勢力が司法に介入している」「暗殺の危険がある」と釈明した。最高裁は夫妻に逮捕状を発行する。
 
 
 
こ れを受けて、反タクシン派のPDA(民主主義市民連合)は英国大使館前での大規模な抗議行動に出る。19日、バンコクの中心部にある伊勢丹などがあるラ チャダムリのセントラルワールドプラザ前から英国大使館までのデモ行進を決行。英国大使館前でタクシンを受け入れた英国への抗議行動を行う。
 
 
 
26 日、PDAは内閣総辞職を要求して大規模な反政府集会を決行する。首相官邸前で官邸を封鎖し、政府機能の麻痺を狙う。デモ隊は他にも財務省や運輸省なども 封鎖。また政府系の放送局であるNBTに突入して放送を遮断した。この日から大規模化、過激化したデモは日本や海外のメディアでも大きく取り上げ始める。
 
 
 
抗議活動はさらに拡大して、28日に国鉄労組職員のサボタージュによる運行停止。29日には南部プーケットっやハジャイの空港封鎖という事態に至る。30日、ホアヒンで療養中のプミポン国王の元にサマック首相とアヌポン陸軍司令官が謁見。
 
 
 
9 月1日から、タクシン派で政府系のUDD(反独裁民主主義同盟)が首相官邸前のPDAに対抗して、サナームルアン(王宮前広場)から官邸近くへと集会場所 を移動する。2日未明にはPDAとUDDはついに激突する。多くの負傷、そして死者も出る。警察はUDDがPDAの集会への近づくことを放置していたとい う指摘も出る。ここに来てアヌポン司令官の指示により軍が初めて介入。激突は沈静化をたどる。この衝突を受けてサマック首相は国家非常事態宣言を発令。ア ヌポン陸軍司令官を治安責任者に指名。アヌポン司令官も受諾。バンコク首都圏での5人以上の集会や反政府的な報道に対して規制が行われるようになる。 UDDは活動拠点をバンコク首都圏からバンコク都下へ移す。しかし、PDAは徹底抗戦をかかげて首相官邸の占拠を継続する。治安維持責任者で軍のトップで あるアヌポン司令官はこれを実力排除しない意向を表明。事態は膠着する。
 
 
 
9 日、かねてより首相就任後にTVの料理番組に出演したサマック首相の副業疑惑(憲法での首相の副業禁止)に対する判決が最高裁で違憲判断として下る。これ により、サマックはあっけなく首相を失職。タクシンの妹婿のソムチャイ副首相兼教育相が暫定首相として政権運営。当初与党はPPP(国民の力党)はサマッ クの再擁立を掲げたが、PPP内部(北部閥と東北閥)の対立により一本化できず。
 
 
 
12 日、首班指名会議はPPP内部の造反と連立相手の与党の欠席で不成立。連立与党からも再任の指示に難色を示されたサマックは、再指名を辞退する意思を表明 する。14日、国家非常事態宣言が解除される。軍が積極的に動かなかったことにより非常事態宣言は目に見える効果をあげることなサマックの失職決定と共に 終結する。これを受けタクシン派のUDDはPDA打倒の為に首都圏での再結集を始める。15日、閣僚ポストなどの取引でソムチャイ派はPPPをどうにかソ ムチャイ指示でまとめる。
 
 
 
17 日、下院本会議で連立6党の支持でソムチャイ首相が誕生。しかし、PDAはタクシンの義弟であるソムチャイに対して反発を強め、PPP選出の首相は受け入 れない方針を確認。これに対し、副首相に指名されたチャワリット元首相(軍出身の大物)は自らがPDAとの交渉責任者になる意志があることを表明。PDA のリーダーのひとりである、チャムロン元バンコク都知事もチャワリット副首相の呼びかけに応じる姿勢を示す(ふたりとも軍部出身)。
 
 
 
【2008年10月】ソムチャイ対話路線の破綻
 

 
10 月1日、ソムチャイ首相がプレム枢密院議長(PDAの黒幕と噂される)を訪れる。事態の収拾にむけて方策を模索。5日、バンコク都知事選。投票の為に占拠 中の首相官邸を出て、投票したチャムロン元バンコク都知事を投票所で逮捕。先に逮捕されているチャイワット元工業相(チャムロンの子飼)を含め2名の PDA幹部2名の逮捕。強硬姿勢だったサマックとは異なり、対話重視で望もうとしたソムチャイだったがこれによりPDAも対決姿勢を明確にする。
 

 
6 日、翌日に予定されている首相の施政方針演説を阻止する為に国会包囲を実施しようとする。これを警察は催涙弾を使い、強制排除。7日も騒乱は続き、議事堂 を包囲して、議員、閣僚を閉じ込めた形のデモ隊に対し、警察は催涙弾以外の武器も使用し排除。怪我人には足が吹き飛ぶ重傷者も多数。爆発を含め死者2名、 怪我人400名以上の大惨事となる。デモ隊側も拳銃や刃物で武装したものもおり、警官にも重傷者多数。これによりPDAと政府の関係は修復不可能な状態に なる。
 
 
 
9日には逮捕拘留されていたチャムロン、チャイワットを保釈。10日、裁判所の国家反逆罪の適用を避ける決定を受けて残り7人も出頭。
 

 
日にはカンボジア国境にある遺跡カオプラビハハーン(カンボジア名プレアビヒア)周辺でのカンボジア軍との戦闘が始まる。春から散発的にこぜりあいがあったが死傷者が発生、緊迫を増す。政府はカンボジア内のタイ人に出国を勧告する。
 
 
 
20日はセントラルワールドプラザ近辺でPDAがデモを行う。大きな混乱はなく終了。21日にタクシンについに禁固2年の実刑判決が最高裁で下る。30日にはタクシンの有罪判決を受けて、PADは英国大使館前でタクシン夫妻の身柄引き渡しを要求する大規模デモを行う。
 

 
【2008年11月~】決戦の前の暗闘、戦略家チャムロンの勝利
 

 
11 月1日、実質、PPPの広報番組が主催するイベントにタクシンが電話出演。集会参加者は赤シャツのタクシン支持者。タクシンは改めて06年のクーデターを 非難し、暗にそのシナリオを書いたプレム枢密院議長を批判。参加者は混乱もなく散会。6日、PADはタイ航空本社前で、PPP議員に対して搭乗拒否をした 機長の処分撤回を求める抗議を行う。8日、英国政府はタクシン夫妻に対しての査証の剥奪と英国便への搭乗拒否を決定。これによりタクシンの英国亡命はなく なる。この日官邸のPDAに対して手榴弾が投げ込まれ負傷者が出る。
 
 
 
15 日、ガラヤニ王女の葬儀が行われる。20日まで喪に服す。この日、タクシン夫妻の離婚が報道される。ポチャマン夫人による資産保全という話も。20日、 PDAが占拠する首相官邸で爆発事件。20人以上の怪我人と死者1名の惨事。ガラヤニ王女の服喪期間が明けての戦闘が再開。22日、官邸で再度の爆発。
 

 
24 日、国会で行われる両院合同会議を阻止する為に、PDAが国会へ集結。議長は開会を断念する。25日、デモ隊は26日の閣議を阻止する為に、閣議が行われ る予定の国軍本部へと移動。デモ隊の一部はペルーでのソムチャイ首相の帰国阻止を掲げてスワンナプーム国際空港へとさらに移動。夜半には数千人規模に膨れ 上がり、空港への道路封鎖、ターミナルビルへの侵入を行う。これにより出発便の運休が出始める。ソムチャイ首相は帰国を延期。
 

 
26 日、未明から空港機能は完全に麻痺。ターミナルでは手榴弾が爆発するなどのUDDの攻撃があり。スワンナプームのデモ隊はついに万単位。臨時首相府のある ドムアン空港も占拠が完了し、首都の空はPDAに完全制圧された形になる。ソムチャイ首相はスワンナプームへの着陸を断念し、チェンマイへの到着。この 日、アヌポン司令官は「私なら辞任している」と首相の辞任を即す発言をTVで行う。それに対して首相は辞職も下院解散も行わないと表明。AOT(タイ国営 空港会社)は29日21時までの空港閉鎖延長を決定。
 
 
 
27 日昼、国会の審議がなんとか始まるが野党民主党議員の空港閉鎖の打開策として解散・総選挙の提案で紛糾。途中閉会する。夕、民事裁判所がPDAに対して、 空港から退去するように仮処分決定。夜、首相はTVでの特別放送で、スワンナプーム・ドムアンの両空港に限定し、国家非常事態宣言を発令する旨を宣言。
 

 
28日、事態は膠着。警察本部は裁判所決定にもとづき、PDAに解散を命じるがPDAは無視。
 

 
29日、警察は空港への道路封鎖を試みて、兵糧攻め(補給を絶つ)を画策するが連合自警団(元軍人などで組織)の抵抗を受けて断念。夜、スワンナプームではカーゴターミナルを確保しようとした警察をPDA自警団が排除。
 

 
30 日、午前、ドムアン空港、首相官邸で爆弾により負傷者。今回の非常事態宣言の治安責任者であるコーウィット内務大臣宅に向けてPDAはデモ開始。夕、コー ウィット内務大臣宅を包囲して抗議活動。夜、UDDはPDAの今回の行動と軍部のクーデターの封じ込めを目的にバンコク都庁舎前で1万人規模を動員しての 集会。巣あんなプームでは連合が客を乗せないことを条件にスアンナプームで動けなくなっていたタイ国際航空、バンコクエアウエイズ、全日空、エアアジアな どの88機を順次、他空港に移動させることを合意。移動を開始する。
 

 
12 月1日、空港は引き続き閉鎖、膠着状態。旅客便の一部は東部パタヤ近郊の軍民共用空港のウタバオ空港から臨時便で出国。ウタバオでの処理能力には限界があ り、混乱状況。市内では全日空がドゥシタニ、タイ国際空港がシリキットコンベンションセンターなど市内で搭乗手続きを始める。この間、AOTは随時、空港 閉鎖の延長を決定。PDAリーダーのチャムロンは首相官邸での度重なる爆弾などによりデモ参加者の安全確保が困難になったとしてスワンナプーム・ドムアン への移動を指示。
 

 
2 日、午前、法裁判所での現政権党であるPPPなどの与党三党の選挙違反による解党審理に向けてUDDが裁判所を包囲。裁判所は最終弁論を行政裁判所に変 更。これを受けUDDは行政裁判所に移動。政府は15日からチェンマイで開催予定だったASEAN首脳会議を来年3月に15日に延期決定。昼、行政裁判所 で行われた、与党3党の選挙違反による解党審理は有罪でPPPは解党、首相の失職も決定。これに対しタクシン派が反発を強める。PPPはこの事態を予測し てプアタイ党を準備してある。前回のタイラックタイ党の解党と同じパターンが繰り返される見込み。これによりPPP(パランプラチャートチョン)は消滅す る。新政権の発足まで副首相の茶話ラットが首相代行。夕、PDAはAOTの申し出を受けて空港再開に向けて検討に入る。PDA幹部のソンティーはソムチャ イ退陣を受けて勝利宣言、空港の開放を宣言。これを受けてPDAのデモ隊は両空港から撤退を始める。UDDは都庁前の座り込みを継続。AOTは空港の保守 点検などを理由に運行再開は15日以降と発表。
 

 
3 日、貨物便の運行はすでに再開、旅客便も一部運行再開。多くの旅客が残されていることからの抗議、圧力を受けて空港再開は早まる見通し。政局は8日に首班 指名に入る予定。PPPの後継政党のプアタイ党より首班指名が行われる公算。首班指名に向けては旧PPP党内部の北部派、東北部派の主導権争いや反タクシ ン勢力の抵抗も予想される。
 

 
今 回もまた長くなってしまった。前回の時点ではこの政局が権力闘争だという日本の報道はほとんどなかった。ここに来て、ちらほらと背景を報道し始めている。 ただ、昨日の裁判決定がPDAのデモによる判断とするのは早計だし、これにより事態が収束に向かうという見方も短絡的である。
 

 
前 回のサマックに対する憲法違反判断も異例の早さで結審。PPP(国民の力党)の前進、タクシンの政党であったタイラックタイ(タイ愛国党)が同じ選挙違反 で解党、幹部の公民権が5年停止された経緯がある。暫定かも知れないが、8日以降に首班指名を行い(選挙管理内閣の可能性あり)下院解散しても、東北部、 北部ではタクシン派が勝利するだろう。今回の空港選挙などでPDAも首都圏で指示を失いつつあるように思う。受け皿の民主党が政権を奪取できるのだろう か。
 

 
PDAはプレム政権時のように下院の任命制復活を要求して、再度活動するのではないだろうか。そうしない限りはタクシン派の跋扈は防げない。解党と選挙に向けてPPPは周到に地方へのバラマキ戦術を展開してきた。
 

 
タ クシン派が抱える不安はタクシンの妹でソムチャイの妻である”ヤオワパー”とブリラム派で東北部をまとめるネウィンの主導権争い。ヤオワパーはタイラック タイで公民権停止中の元下院議員の女傑。イメージ的には田中真紀子だ。ソムチャイが田中直紀か。ヤオワパーは竹下になる。今後は闇将軍タクシンがいかに旧 権力、プレムの影響力の強い司法と戦いながら、復権を画策できるかだろう。
 

 
今 回の騒動をみるとPDAには元陸軍特殊部隊司令官、稀代のアジテーターで戦略家であるチャムロンの勝利だ。チャムロンは活動が下火になると、自ら覚悟の逮 捕を演出して油をそそぎPDAの指揮を高め、司法判断により国王誕生日前のソムチャイ政権を睨み、落としどころを予測して、中立を保つ軍、アヌポンと PPPの関係を冷やした。今後は選挙と憲法改正に向かっての綱引きが行われるだろう。冬きたらば春遠からじ。タイの春はいつ来るだろう。

 
道端に車を停めた。叩きつける豪雨でワイパーが追いつかず前が見えない。

遠雷の音を聞く。
スコールの記憶が呼び寄せたのか遠い国で起っている政変に想いを馳せた。

【2006年2~3月】導火線PDAの扇動

私がタイのアパートを引き払い日本に帰る時に、PAD(The People's Alliance for Democracy =民主主義市民連合)の反タクシン集会が始まった。シーロムでアジア家具や雑貨を扱う知人の店を訪ねるとルンピニー公園に人が集まっているという。中心と なるのは'92年の民主化運動の立役者チャムロン元バンコク知事やタイ経済紙、プーチャトカンのオーナーのソンティー氏。

公式報道だとタクシン氏のシングループがシンガポール政府の投資会社テマセクに売却された件での脱税疑惑や親族による資産隠しを主にあげている。しかし、 彼女によればタクシンが王族にしか許されない行事(おそらくワットプラケオでの国家安寧祈願式)を行った事がネットを中心にタイ人の猛反発を招き、それが デモにつながったという話だった。

反タクシンの空気は急速に広がり、'06・2月26日のサナームルアン(王宮前広場)での大規模集会へと発展して行く。集会の前日にサナームルアンに近 い、ワットポーのマッサージ学校に行くと先生が「明日はデモだから絶対来るな」と釘を刺さされる。集会の晩はまったくいつもと変わらないアパートの近くの 食堂でTVのニュースでデモの様子を見ていた。

そしてデモは3月29日のサイアムでの5万人集会へと発展し市民生活に影響を与えるまでになるが、その報道の時はすでに”退避”した日本で見た。


【2006年4~6月】タクシンの粘り腰

国民の信を問うと下院を解散し4月2日に総選挙が行われるも野党が選挙ボイコット。白票が相次ぎ400選挙区中、39選挙区で再選挙。タクシンのタイラッ クタイ(タイ愛国党)の圧勝だったが事実上はタイラックタイの1党だけの選挙という異常選挙。国王も不快感を示し、国会開会の詔勅への署名を拒否する意向 を示す。国王の意向を踏まえて裁判所は”選挙”の無効やり直しを裁定。

タクシンは4月4日に退陣を表明するも実際は暫定首相として権力の座に居座り続けていた。5月から6月にかけて、軍幹部による政治的発言が目立つようにな る。ソンティー陸軍司令官によるタクシン派の現場指揮官の人事異動が行われ、タクシンはその影に国王の側近中の側近、プレム枢密院議長がいると非難。タク シン派デモ隊がプレム議長の自宅に押しかけて警察に排除される騒ぎを起こしている。

【2006年9月19日】軍事クーデター・プレムの勝利

そしてあの9月19日の国軍クーデーターが起る。地上派放送局はすべて軍の管理下に入り、TVでは静止画面に国王賛歌が流れる状態。ソンティ陸軍司令官を 代表とする民主改革評議会(CDR)が実権を掌握したとTVで発表される。実際にアヌポン第一管区司令官傘下の陸軍部隊が首相府、政府関係庁舎、放送局、 タクシン邸、タクシン系列で同グループのTV局、iTVも入るチナワットタワー、などをほぼ制圧していた。この時、タクシン氏は国連総会出席の為にニュー ヨークにおり非常事態宣言を発令するもすでに時遅し。

深夜には陸・海・空の国軍司令官は国王に謁見する。国王の認可を得てクーデターが成功する。翌朝、CDRはタクシン元首相の非常事態宣言の無効と戒厳令の発効を発表する。


【2006年10月~11月】タクシン派弱体化への動き


10月に国軍司令官であったスラユット枢密院顧問(プレム議長の子飼)が暫定首相に就任。タクシン氏のタイラックタイは離党者が相次ぐ。11月には軍でも中枢にいたタクシン派幹部は不定期人事で次つぎと配置転換(左遷)されていった。

【2006年12月~2007年5月】テロとタイラックタイ党の解体

そして12月31日にラチャダムリのゲイソンプラザ前の公衆電話など8ヶ所での爆弾テロ。暫定政府側はタクシン派の陰謀を臭わせる。タクシンに近いとされ る警察は反発し南部テロの可能性が高い事を指摘。警察と軍との暗闘もあるが、スラユット暫定首相は'07年2月5日、捜査の失敗を理由にタクシン派とみれ れるコーウィット警察長官からセーリーピスット長官代行に警察トップをかえる。(テロの1週間後にバンコクを訪問したがラチャダムリのショッピングセン ターなどの荷物検査も緊張感があった。空港や駅には銃を持った武装警官の姿もチラホラ)

3月、タクシングループ傘下のTV会社iTVも国に約束していた番組内容比率(娯楽番組の割合制限など)を守らなかったとかいう理由をつけ違約金などの請 求で実質解体に追い込み、国が接収。国営のT-ITVとする。これによりタイ唯一の地上派民間放送は消滅。(翌年にはTPBSに再編)

タクシンの政党、タイラックタイ党にも選挙違反などの嫌疑をかけ解党へ向けての動きが加速する。

また個人的にはラチャダーピーセックの国有地払い下げ問題、資産隠し、不正送金、シンコーポレション売却の際の脱税、衛星の売却問題などタクシン及び夫人、長男、長女などに対する訴追準備が行われる。

タイ国内でのタクシンの権力基盤を崩壊させる動きに反発し、タクシン側も来るべき民生移管の為の総選挙に向けてメディア戦力をとる。タイラックタイ党の為 のケーブル局PTVの運営やタクシンのインターネットTV配信。反独裁民主主義同盟などがサナームルアンなどで反軍事政権団体のデモを動員。タクシン自ら は日本を含めた各国外遊を重ねて政権復帰の根回しを行う。

5月にタイラックタイは解党処分を受ける。タイラックタイ党議員は弱小政党のパラン・プラチャートチョン党(人民の力党)に合流(実質乗っ取り)。7月、 大物政治家のサマック元バンコク都知事が党首候補としてパラン党に入党。タクシンは英国プレミアリーグのマンチェスターシティーを買収。自身の広告塔と し、資産保全の足固めを行う。8月19日に新憲法に対する国民投票が行われて賛成57.81%反対42.19%(投票率57.61%)であった。

【2007年10月】 鍵を握る男アヌポン登場

10月1日、クーデターでバンコク首都圏方面の第1管区司令官であった陸軍副司令官アヌポン・パオチンダー大将が実質国軍トップの陸軍司令官に就任。アヌ ポン司令官はタクシンと陸軍士官予備学校10期の同期で友人だが、クーデターでは重要な役割を果たす。嘘か真かタクシンから怒りの国際電話が入ったという 噂。バランス感覚のあるエリートとしてプレム枢密院議長やスラユット暫定首相に押されたという。

逆にクーデター当時ピサヌローク方面の第3管区司令官で反タクシンの急先鋒だった陸軍副司令官サフラン大将は、転出していたAOT(タイ空港公 社)TOT(タイ通信公社)のスキャンダルもありソンティー陸軍司令官兼評議会委員長の推薦むなしく国防省副次官に転任。これによりタイ政局を握るキーマ ンはアヌポン大将になった。退役したソンティ氏は副首相へ横滑り。

10月31日、タイ国鉄が突然のスト。年末の総選挙に向け、各政党の駆け引きも激しくなる。

【2007年12月23日】下院選挙実施・タクシンの勝利

12月23日、総選挙実施。投票率約70%、下院の改選議席数は480。

結果はパラン・プラチャートチョン党232、民主党 165、チャート・タイ党 37、プア・ペンディン党 25、ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナー党 9、マッチマー・ティパッタイ党 7、プラチャーラート党 5。タクシン派のパラン党は単独過半数まであと僅かだったが及ばず。しかし大勝利。チャート・タイ党とプア・ペンディン党が連立に参加し政権を奪取。クー デター後はタクシン批判をしていた2政党があっという間に勝ち馬に乗るところはタイ的。いや日本でも自民と連立した節操のない政党があった。(後に選挙違 反でパラン党は20以上議席を減らす)

パラン党は大量の選挙違反者を出す金権選挙だったが連立による政権奪取。(この選挙時はバンコク・カンチャナブリに滞在していたが、ポスターの制限などもあり2005年の選挙よりは地味だった)これでタクシン帰国、復権へのシナリオができあがる。


【2008年2月~7月】野合と権某術策、タクシン帰国・復権へのシナリオ


'08年2月26日に正式にパラン・プラチャートチョン党のサマック党首を首班とする6党連立内閣が発足し1年4ヶ月ぶりの民生復帰する。

2月28日、連立政権発足を受けてタクシン緊急帰国(わかりやすい・・)。この頃より'92年の民主化で有名になったチャムロンやタイの経済新聞のオー ナーで'06年のクーデターの引き金になったソンティ氏の民主主義市民連は危機感を強めてタクシン派と徹底抗戦の方針を打ち出す。(両人ともタクシン政権 発足時はタクシンの一番の支援者だったのに今は反タクシンの急先鋒・・)

4月にはプレム批判のタクシン派デモ団体(旧反独裁民主主義同盟など)と衝突する。(タクシン支持団体は暴力的、金で雇われたチンピラも多い)

政治の場でも連立政権は軍政時代の国民投票で承認された憲法の改正を画策。野党側は司法の場で連立与党側の違法性を訴えて解党を求める。

【2008年8月~】プレムの逆襲、

憲法改正反対、徹底抗戦を確認したPADのデモはその後も続きタイ政局は不安定な状態が続く。そしてプレムの意向に沿うようにタクシンの妻、ポーチャナー に有罪判決が出る。北京オリンピックを口実に国外逃亡をしたタクシンの妻、ポーチャナーがタクシンと北京で落ち合う。出国時のトランクの多さや子供らとの 空港での涙の別れから逃亡するのではという憶測もながれた。

現政権側はそれを否定したがオリンピック後のTGの帰国便、搭乗名簿には名前はなかった。夫妻は英国へと向かう。実質的に英国亡命したことでPADのデモ は勢いづいた。それを容認したサマック政権をタクシンの傀儡(選挙の時はサマックも”タクシンの代理人と公言)と位置付け退陣要求を過激化させる。サマッ ク退陣を求めるPADの首相府での集会には1万人以上の群集が座り込みを続ける。

首相府での集会は地方に飛び火してプーケットなどの地方空港の実力封鎖。国営放送局への乱入。国鉄の実質的なスト等へと大きく広がった。この事態を受けて サマック首相、アヌポン陸軍司令官がホアヒンの離宮で国王と謁見。あくまで平和的、民主的な解決を目指し、非常事態宣言の発令には消極的な姿勢をサマック は示す。

しかし、それとは裏腹にタクシン・サマック別働隊ともいえる旧反独裁民主主義同盟の残党を中心とする集団がPADが集まる首相府を急襲。この間警察が阻止 する動きは緩慢。死者まで出す事態を受けてサマックは緊急事態宣言を発令。アヌポンは軍を出動させて事態を収拾させた。タクシン派は5人以上の集会禁止の 命令から一旦首都圏からは引くが、PADは徹底抗戦の構えで緊張状態に陥っている。





長くなってしまったが今回の政局を考える上でのクーデターからのタイ政局の流れを書いた。これをみても分かるように日本で報道されているような金権政治家 と民主化というような単純の話ではない。プミンポン国王後のタイという国の根幹に関わる権力闘争だ。主役はサマック首相とPADや民主党ではない。限りな く大統領に近い首相になりたかったタクシンと王室を中心とする旧支配者層を代表するプレム枢密院議長だ。これは”アフタープミンポン”に向けての熾烈な権 力闘争だ。

現皇太子のワチラコン王子が国民の尊敬がないことはタイでは暗黙だが周知の事実。日本でいえば田中角栄のように立志伝中のタクシンはまたばら撒き形の政治 で貧しい北部、東北部では圧倒的な人気。自身も名門とはいえ所詮はチェンマイ、サンカンペーンの田舎の一族だ。旧支配層VS新興財閥。都市中間層VS地方 農民。南部VS北部・東北部。水面下では物凄い権力闘争が繰り広げられているだろう。

国王とプレム議長は高齢だ。反タクシン派の一番の弱点はそこだろう。タイを旅行した旅行者は口を揃えてタイ人は王室への尊敬の念が強いという。違う。現国 王への尊敬が強いだけだ。1000ヶ所以上の貧窮した農村などへの支援プロジェクトを常に見せられてきた国民だ。だからほんとに親しくなると皇太子の悪口 も話すようになる。ただ不敬罪の厳しいタイではご法度なだけ。

タイは3割民主主義だと思う。大正デモクラシーに毛がはえた程度だ。BTS(高架鉄道)に乗り近代的なビル郡を眺めて、高級ホテルに泊ったりするとさも民 主的な近代国家と勘違いする。実際は地方ではチャオポーと呼ばれるヤクザと悪徳警察幹部が支配している。そんな地方ボスや息子が議員や行政の要職にもつ く。タクシンの改革はある部分はタイを民主国家に押し上げる側面もあったと思う。

ただ、それだけではなく金権体質のバラマキ型政治、改革を旗印に自分の政敵を徹底的に弾圧した強権政治も事実だと思う。タクシン批判のジャーナリストの変 死もよく聞いた。麻薬売買の罪で自分に敵対する不都合な人物を処刑しまくって人権弾圧で弾劾中だ。タクシンの支持地域に露骨な利益誘導を行ったし、一族に よる特権的な事業優遇や国有地の格安の払い下げ、身内、友人を政府、軍、警察の重要ポストにつけるなど、あからさまに政治、いや国家を私的なものにしてき た。

タクシンは自身も認めているように急ぎすぎた。自信過剰過ぎてやりすぎた。タクシンは徳川家康を知らないのであろうか。せめてプミンポン国王の代替わりま で待てなかったのか・・。”鳴かなずんば鳴くまで待とうサリカ(タイの国鳥)”とは行かなかったようだ。タクシンの国の私物化があれほど露骨でなければタ クシン共和制だってない話ではなかったはずだ。タクシンはシンガポール建国の父、リー・クアンユーにはなれなかった。

今後はキーマンのアヌポン陸軍司令官の出方に注目だ。再度のクーデターはあるのか。タクシンとは友人でサマック首相との関係も良好。しかしクーデターから はプレムの意向を受けて動いている。プミンポン国王はサマック、アヌポン両氏と謁見した。そこでの発言は公表されていないがクーデターを避けるように話さ れた事は想像がつく。サマックにも流血を避けるように支持があったのではないか。


しかし、タクシン派のデモ隊がPDAのデモに乱入して犠牲が出た。今後はその責任問題などを追及して運動が広がる可能性もある。サマックはTVの料理番組 に出演して人気が高い元バンコク知事だが実はタカ派。96年のピブン帰国反対のタマサート大学のデモではチンピラに襲撃させた疑惑が消えない(多くの死者 が出ている)。貴族の出自でプライドが高く、タクシンの傀儡と言われることには反発もあるようだが・・。


豪雨は大地を実り豊かなものにする。だが雨の色はいつも赤い。雷雨が通り過ぎたタイに虹がかかることを祈る。

テーブルと椅子の足、そして床だけがみえていた。黒びかりした立派な足だ。それが最後に記憶に残っている景色だった。木の床が倒れたままの僕の頬にひんやりと気持ちよかった。


ことの始まりはその1週間前だった。当時、僕は建築内装の会社でサラリーマンをしていた。会社では大手ゼネコンの担当者として北京に新しくできる、日本大使公邸の新築工事を営業担当としてまかされていた。

しかし現場は4000年の不思議の国、中国。阿鼻叫喚、アクシデントにつぐアクシデント。「李鵬首相がオープニングにくるんだぞ、間にあわなかったらどう するんだ!」毎日こんな国際電話がかかってくる。北京に派遣された定年まじかのベテラン現場監督である管理マンは胃潰瘍にかかり、一時帰国を申しでてき た。「こうなったら、おまえが替わりに行くしかないだろう。気合いでいけ!気合いで。おまえの骨は俺がひろってやる!」との上司の叱咤激励に送られて僕は 北京に旅立った。

そうだ、気合いだ。建築業界はなによりも気合いが大切なのだ。突貫工事も気合い。徹夜の見積作業も気合い。赤字現場の始末書を提出する時も気合い。ビアパーティでパンツ一丁になりピチャーを一気飲みする時も気合いなのだ!

トランク一杯の気合いを詰めて厳寒の北京へ僕は降り立った。空港には今は胃潰瘍をわずらった老監理マンと小太りでサモハンキンポー似の中国人通訳の張さん が迎えに来ていた。老監理マンはすまないともいわず、ただにやりと笑った。張さんから明日からのスケジュールを聞いていた僕の目に高速道路の脇の無数のビ ル郡の灯火が写っていた。


3日間のあわただしい引き継ぎ作業の後、老監理マンの帰国前夜、彼の送別会と僕の歓迎会をかねて宴席が設けられた。とかく摩擦を生じやすい中国側の業者と 僕ら日本側業者のこれからの親睦を期す会でもあった。中国側は各職人の親方達6人、日本側といっても僕と老監理マンだけであるが。

宴が始まり、「乾杯」をしようということになったが中国人達はメインの料理にのっている鶴のお飾りの頭を誰にむけるかで延々と協議をしている。我らが胃の 弱い老監理マンに向けようとしたのだが胃の弱い老監理マンが固持した為、中国側の誰にするかという彼等にとって大問題が発生してしまったのだ。いいかげん にしてくれ。まったく不思議な人達だ。

10分後それも決まりいよいよ乾杯だがみると酒の杯をもってるのは僕と通訳の張さん、そして老監理マンだけである。え?おい、待てよ、老監理マン?「あ、あ、あ、あんた胃潰瘍じゃないんかい!」しかし、もう北京に来てまった以上今さら言ってもしょうがない。

おや、もうひとり、酒杯を手に持ちにっこりと笑っている好々爺がいるではないか。身長はおそらく140cmくらいではないか。あまりに小さいので僕の向い に座っていたが気付かなかった。紺色の人民服を着ており人民帽の下の顔はしわくちゃ、僕をジッと見つめながら笑い、なにか乾杯して一気飲みのポーズをして いる。なぜか残りの中国側メンバーの前にはいつの間にか桃ジュースの缶が置かれている。ふん、大の男が。

「ミツイさんあなた、お酒飲めますか?」心配そうに通訳の張さんが聞く。

おい、おい、待ってくれよ。張さん。俺もゼネコン営業をしている男だぜ。飲むことだって仕事なんだよ。「張さん、もちろん私、お酒大丈夫です。」こう答えてもなぜか張さんはまだ心配顔だ。

 「彼、ミツイさんとお酒、勝負、言ってます。」張さんが言う。

そして好々爺は抱えていた透明の液体の入ったボトルを取り出した。う、白酒だ。アルコール50度以上、前に中国に旅行した時、よく火をつけて遊んだものだ。こいつ.....。

 しかし僕と「好々爺」の勝負はいつの間にか始まっていた。お互いに酒杯を高く掲げるとそれを一気に飲み干す。間に少し料理をつまむ、そうしていると好々 爺がまたこちらを向いてにこりと酒杯を掲げる。五杯目を飲んだあたりからまわりの声が遠くで聞こえるようになってきた。くそ、こんなじじいに負けてたまる か。日本人をなめるなよ!気合いだ、気合いがお前らとは違うんだよ。すでに僕の背中には日の丸がついていた。

 どれだけ時間が過ぎたろう。目の前には空になった白酒の瓶が2本横になっていた。

「さあ、帰るぞ。」”胃の弱いはず”だった老監理マンの声が遠くから聞こえた。席から立ち上がった。好々爺と握手した時、部屋の壁がまわり始めた。

 僕は倒れた。椅子の足を眺めながら僕は意識を失っていった。

 「う、ここはどこだ。」うん、見覚えがある。僕のホテルの部屋だ。どうしたんだ。のどがカラカラだ。頭が鉛を詰め込んだようだ。関節がきしむ。そうだ。僕は倒れて意識を失ったんだ。「やばい、財布は!」しかしなんと財布と僕の荷物はきちんとベッドの脇に置かれていた。

「う、冷たい。」なんと股間がびしょ濡れだ。汗?いや違う。ななな、なんとこれは!!! 小学校2年の時、幼稚園以来の寝ションベンのふとんを母親に通りから見える窓に干されて以来の屈辱が.....。しばらくショックで呆然としていた。

「いや何時だ。え、12時!外が明るいってことは、ひえー、なんてこった!」宴会が7時から始まったから10時に終わったとしても14時間も意識を失って いたのか。えらいこちゃないか。ほんとに一歩間違えば急性アルコール中毒で上司に骨を拾いに来てもらう羽目だったぞ。しゃれにならないじゃないか。

 「くそ、最低の気分だぜ。お、ベッドは濡れてないじゃないか。いや待てよ、ということはおれはすぐに漏らしたのか。」ということは、「まさか、皆んな、 俺が失禁したことを知っているのか!いやまさか。」とにかく遅刻だ、シャワーを浴びながらジーンズとパンツを洗った。我ながらかなり情けない姿である。

死ぬ思いで現場についた。通訳の張さんがいた。「ミツイさん、大丈夫ですか。だから私、お酒大丈夫か聞きました。」

おい、あんなアルコールのかたまりみたいな酒をリーサルウエポンみたいなじじいと飲みくらべるなんて誰が思うかよ。だから皆、ジュースだったんだな。俺もこんなことになるなんて知ってたら桃ジュース飲んでたよ!

「あの人、そう馬さん、お酒、強いんでとても有名です、この現場、中国人300人くらいいるけどたぶん一番ですね。」

頼むよ、それを先に言ってくれ張さん。死ぬとこだったじゃないか。酒暦20年間、完璧に意識を失ったのは始めてだ。

「昨晩、あれから李さん、王さん、徳さんと私でミツイさんかついでホテルに運びました。」

「え、坂巻さんは?」老監理マンについて尋ねる。

「坂巻さんは部屋すぐに帰りました。今朝日本に向いました。ミツイさんによろしく、言ってました。」

くそ!あの男!俺は死ぬとこだったんだぞ。しかしもう後の祭りだ。僕は割れそうな頭を抱えると建物の中へ入っていった。

中国人の職人達に挨拶する。おや、皆、いつにない笑顔だ。そうか。早速、昨日のことが噂になったのか。いや、待てよ、この上目つかいの意味ありげな笑顔 は....。まさか!しかし会う奴、会う奴同じような意味ありげな笑顔だ。う、好々爺だ。なんと奴まで同じ、上目つかいの笑顔だ!し、し、知っている。奴 らは僕が失禁したことも知っているのだ。ななな、なんてこった。

そそくさと現場をチェックしゼネコンの事務所に向う。

「申し訳ありませんでした。遅くなりました。」そういって入ると、ななな、何とここでも某大手ゼネコンの日本人たちが上目つかい、含み笑いの笑顔。笑顔は世界の共通語というが、言葉、民族はちがってもまったく同じ笑顔じゃないか。こいつらも し、し、知っている!

 中国での経験豊富な所長が口を開いた。「いやー、ミツイ君、昨日10時くらいに飲みに誘おうと思って電話したんだが、電話にでた君は訳わからない事、話 してたんでこりゃやられたな、と思って電話切ったんだ。あの酒は腰がぬけるんだよ。下半身の力が全て抜けるんだ。気にするな。 あれはこの国では洗礼のよ うなもんだよ。誰しも1回は経験するんだ。今日はもう帰って休みなさい。」

まったく最低だぜ。北京のどんよりとした空にもまして心の中は真、グレー。う、もう今日は早く横になって眠りたい。フロントで鍵を受け取り部屋に急ぐ。

ハウスキーピングのいつもあいそのないおばちゃんが廊下にいた。うん?今日はめずらしく笑顔だぞ。いや、それは上目つかいの例の。

おい、おばちゃん、おまえもかよ!


 アテンション プリーズ!




大空港は女心のようだ。複雑で変化が激しい。アジアの辺境を旅してきた僕だが、自慢ではないが方向オンチだ。特に大空港の中ではひどい。成田やバンコクの ドムアンにはおそらく100回以上行っているが今だに迷う。もちろん女心には今も迷いっぱなしだ。              

松任谷由実の『チャイニーズスープ』(オソラクこのタイトル名だったと思う)という曲を聞いたことがあるだろうか。亭主の帰りを待つ妻が夕食のしたくでサヤエンドウのヘタをとりながらくちずさむという設定だ。原田友世もカバーしている。

 あなたの為にチャイニーズスープ、今夜のスープはチャイニーズスープ。

 あなたの帰りを待ちながら、サヤエンドウの皮をむく。 

 サヤが私の心なら、豆は別れた男達。          

(なんてこった俺は豆だったのか!!!)と衝撃を受けているとサビには....。                   

 み、ん、な、ころげて、な、べ、の、なか~、煮こんでしまえば形もなくなるもうすぐ できあがり~。     

などと明るく歌うのだ。

なんと恐ろしい歌だろう。これを虫も殺さないような顔をした原田友世がエプロンしながら台所でくちずさんでるなんて。別れた女に未練たらたらの男が多い 中、女心のなんとさっぱりしたことだろう。きっとオトコとオンナがわかりあえる日なんて永久に来ないんじゃないか。またチャイニーズスープというのが西太 后を想像させてなんとも恐い。保険金殺人妻の何人かはこの歌を聞いていたにちがいない。            

いや、いかん。本題は女心ではなく空港だ。とにかくアジアの空港は変化が激しく複雑だということを解ってもらえるだろうか。5年前のその日も友人のNの出 迎えにドムアン空港に来ていた。世界一の渋滞を心配してかなり早めに安宿街、カオサンロードをバスででてきた為、空港に1時間以上も前についてしまった。 そうだ、帰りの予約の変更をしておこう。長期滞在の僕は帰りの日程が決まったのでユナイッド航空の空港オフイスに行くことにした。

しかし、案の定見つからない。たしか、この辺だったと思うのだか....。いやこうゆう時は素直にインフォメーションで聞くに限る。

「すいません、UAのオフイスがたしかこちらの近くにあったと思うのですが。」

「あ、UAですね。すいません、UAのオフィスは移転しました。」

やはり、変化の激しいバンコク、空港のオフィスもすぐに変わる。なんとか場所を聞いたがやはりなかなか、見つからない。

(たしかこの和食やから左に行って、つきあたりを右にその先を....。)

30分近くさがしているとさすがに腹もたってくる。もう一度インフォメーションに戻るのも恥ずかしい。人間、こんな時はおのれの阿呆さを棚にあげて思いっきり他人のせいにするもんだ。

(なんてわかりづらい空港なんだ!)

(ちきしょう、今度生まれ変わったらダダ星人になってこの空港を破壊しつくしてやる!)

などと空港を呪っていると、向こうから人が歩いてきた。

(お、かなりかわいい空港職員だぞ、よし聞いちゃえ!)

彼女はとても素敵な笑顔で見当違いの場所に来ている僕に途中までついてきながら教えてくれた。さっきまでの憤慨はどこへやら単純な僕はすでに今日はラッキー!などとすこぶる御機嫌だ。すると遠くにユナイッテッドの看板がみえた。

オフォスには2名のスタッフとカウンターに座る2名の白人客がいた。二人とも仕立てのよさそうなダークスーツ姿だ。僕はグレーのソファーに深々と越しを下ろして待つことにした。今日の為替はどうかな?バンコクポストを手にとる。

何分過ぎただろう。おや、新聞に夢中になって気付かなかったが隣のソファーにまた白人のスーツ姿のビジネスマンだ。その時、カウンターが空いた。だがス タッフは隣のソファーに座った紳士に声をかける。(おい、待てよ、俺が先に待ってるんだぜ。)確かに静寂に包まれたハイソな空気な中、ジーンズに洗いざら しのワイシャツは少し場違いな感じだし、顔だって自他ともに認めるタイ人顔だ。でも無視はないだろう。

しかし、アドレナリンの分泌をぐっと押さえる。(まーここはタイだからな。ましてや俺は”和”を重んじる静かな微笑みをたたえる日本人で通している....。ハズだ。)

しばらく待つとやっともうひとつのカウンタ-が空いた。僕が立ち上がろうとすると一人の白人女性がいきなり入って来て当然のように空いたカウンターに腰かけた。スタッフはなにも言わない。

(おい、それはないだろう。俺のアドレナリンをせき止めているダムはとても小さいんだぜ!)この国にいるとあちこちでタイ人の白人に対する植民地根性を目にする(植民地支配は基本は受けていないのが自慢のはずだが・・)。この日もタイ語で話しかけてるのに英語で答えとおす、カオサンの雑貨屋の婆さんにむかついてきたとこだ。

   「あの、マダム、私は先にずっと待ってるんですが。」

カウンターにすわった40歳前後の品のよい身なりの白人女性はきょとんとこちらをみた。どうも、僕のいっている意味が解らなかったようだ。スタッフも驚い た顔だ。(ちきしょう、こいつら、はなっから空気のように人を意識してなかったんだ。アジア人だって、貧乏くさい身なりだって飛行機に乗るんだぞ!)

「あの、私だって予約変更に来てるんです。”ココ”は西欧の人専用のオフィスなんですか!」

(よし、言ってやったぜ!日本人だっていう時は言うんだ。)

 その瞬間その部屋の人間、全員こちらを振り向いた。

我ながらビシっと決めてやったぜ!気分はすっかりマルコムXだ。

スタッフもやっと事情が飲み込めたようだ。品のよい婦人は席を立とうとする。でも詫びの言葉はない.。

その時、隣の席が空いた。僕は立とうしている婦人を制止すると隣の席に座った。

「大変申し訳ありませんでした。」

英語で謝る女性スタッフに、チケットをみせながらタイ語で答える。

「いや、いいんだけど、”ココ”は英国でも米国でもないでしょう。タイの国でしょう。」

その時、チケットをみていたスタッフが当惑ぎみで僕の顔をみた。

(フ、フ、ちょっと藥がききすぎてしまったかな。) などと考えていると彼女が口を開いた。

「あの・・・。お客様、大変申し訳ありませんが.・・・。」

(え?)

「”コチラ”はルフトハンザのオフィスです。ユナイッテッド航空のオフイスは隣です!」

再び、全員が振り返って僕をみた。

なんてこった。これだから人生は油断ならない。



自らを”バカな本物”と呼び、80年代を駆け抜けた歌姫、アン・リンダ・ルイス。バブルへ向かうステージでその存在感は圧倒的だった。この時代、松田優作とアンルイスは尖がっていた。ダントツでかっこよかった。松田優作の息子たちがいかにイケメンで渋い演技をしても、まだオヤジのかっこよさには遠くおよばない。同じバイリンガルで、才能豊かな宇多田ヒカルですらアンルイスと比べれば小娘にみえてしまう。

友人が彼女の元夫である桑名正博の妹の高校の同級生で、桑名の実家の帝塚山の豪邸を訪ねた際に交際中のアンルイスに会った話を聞いた。すごい美人なのにとても気さくでいい人だったと感心していた。そして「メッチャ、カッコエエ!」と力説した。

プラザ合意による急激な円高によりコピーではない外国製品、外国の文化が身近になった80年代。今までは単に憧れだったブランド品や海外旅行は日常のひとつになった。より海外の本物を求める人々の目は肥えた。

そんな中、70年代に「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒットでアイドルだったハーフのかわいい女の子は、密かに声を磨き続けてロッククイーンとして再度登場する。ギタリストの北島健二など共演者も楽曲も本物だ。

ステージで、「六本木心中」のイントロから”1・2・3・4!!”と枯れた声でシャウトしながら踊り、入っていく姿はむちゃくちゃかっこよかった。現在のように洗練されたものではないが、まさにバブルを予感させる爛熟したステージだ。その爛熟の中に悲しみや孤独を感じさせるのも、バブルという時代の危うさとはかなさを暗示していたのかも知れない。

六本木系。椎名林檎が”新宿系”ならばアンルイスは間違いなく”六本木系”だ。兵庫県、宝塚市で生まれて横浜で育って、子役として早くから芸能会へ。10代にはすでに横浜では噂の美少女だったという。18歳から六本木で一人暮らし。六本木で多くの恋をして傷ついてきたであろうリンダ。友人、竹内まりあがアンルイスに捧げた「リンダ」のメロディーを思い出す。アンルイスを育てたのは六本木だと思う。

20代に六本木で長くバイトしていた僕に、いちばん六本木を感じさせるのはアンルイスだ。六本木の地名も出てこない「六本木心中」を聞くと、不思議にあの街の交差点のネオンや仕事が終わって始発で帰る時の乃木坂のけだるさを思い出す。

バイトしていた龍土町の店は星条旗新聞社の近くで、外国人や芸能人の客も多かった。かっこいい人たちがたくさん来た。そんな人たちとアンルイスが重なるのかも知れない。いや、バブルの頃、会社の同僚と結婚したキングレコードからデビューしていたSATOKOがいつも六本木のクラブでこの曲を歌ってくれたからか。

山口百恵を「時口代と寝た女」と評した人物がいたが、ロック歌謡の女王、アンルイスは80年代と寝た女だろう。 戦後を象徴する裕次郎やひばりの死が早かったゆえに時代に鮮明に焼きついたように、急逝した松田優作とパニック症候群で90年代なかばからロサンジェルス暮らしで表舞台から姿を消したアンルイスも伝説になった。 (現在はオリジナルジュエリーなどを販売している)

【六本木心中】 https://www.youtube.com/watch?v=UFzpj4JhmGM