テーブルと椅子の足、そして床だけがみえていた。黒びかりした立派な足だ。それが最後に記憶に残っている景色だった。木の床が倒れたままの僕の頬にひんやりと気持ちよかった。
ことの始まりはその1週間前だった。当時、僕は建築内装の会社でサラリーマンをしていた。会社では大手ゼネコンの担当者として北京に新しくできる、日本大使公邸の新築工事を営業担当としてまかされていた。
しかし現場は4000年の不思議の国、中国。阿鼻叫喚、アクシデントにつぐアクシデント。「李鵬首相がオープニングにくるんだぞ、間にあわなかったらどう
するんだ!」毎日こんな国際電話がかかってくる。北京に派遣された定年まじかのベテラン現場監督である管理マンは胃潰瘍にかかり、一時帰国を申しでてき
た。「こうなったら、おまえが替わりに行くしかないだろう。気合いでいけ!気合いで。おまえの骨は俺がひろってやる!」との上司の叱咤激励に送られて僕は
北京に旅立った。
そうだ、気合いだ。建築業界はなによりも気合いが大切なのだ。突貫工事も気合い。徹夜の見積作業も気合い。赤字現場の始末書を提出する時も気合い。ビアパーティでパンツ一丁になりピチャーを一気飲みする時も気合いなのだ!
トランク一杯の気合いを詰めて厳寒の北京へ僕は降り立った。空港には今は胃潰瘍をわずらった老監理マンと小太りでサモハンキンポー似の中国人通訳の張さん
が迎えに来ていた。老監理マンはすまないともいわず、ただにやりと笑った。張さんから明日からのスケジュールを聞いていた僕の目に高速道路の脇の無数のビ
ル郡の灯火が写っていた。
3日間のあわただしい引き継ぎ作業の後、老監理マンの帰国前夜、彼の送別会と僕の歓迎会をかねて宴席が設けられた。とかく摩擦を生じやすい中国側の業者と
僕ら日本側業者のこれからの親睦を期す会でもあった。中国側は各職人の親方達6人、日本側といっても僕と老監理マンだけであるが。
宴が始まり、「乾杯」をしようということになったが中国人達はメインの料理にのっている鶴のお飾りの頭を誰にむけるかで延々と協議をしている。我らが胃の
弱い老監理マンに向けようとしたのだが胃の弱い老監理マンが固持した為、中国側の誰にするかという彼等にとって大問題が発生してしまったのだ。いいかげん
にしてくれ。まったく不思議な人達だ。
10分後それも決まりいよいよ乾杯だがみると酒の杯をもってるのは僕と通訳の張さん、そして老監理マンだけである。え?おい、待てよ、老監理マン?「あ、あ、あ、あんた胃潰瘍じゃないんかい!」しかし、もう北京に来てまった以上今さら言ってもしょうがない。
おや、もうひとり、酒杯を手に持ちにっこりと笑っている好々爺がいるではないか。身長はおそらく140cmくらいではないか。あまりに小さいので僕の向い
に座っていたが気付かなかった。紺色の人民服を着ており人民帽の下の顔はしわくちゃ、僕をジッと見つめながら笑い、なにか乾杯して一気飲みのポーズをして
いる。なぜか残りの中国側メンバーの前にはいつの間にか桃ジュースの缶が置かれている。ふん、大の男が。
「ミツイさんあなた、お酒飲めますか?」心配そうに通訳の張さんが聞く。
おい、おい、待ってくれよ。張さん。俺もゼネコン営業をしている男だぜ。飲むことだって仕事なんだよ。「張さん、もちろん私、お酒大丈夫です。」こう答えてもなぜか張さんはまだ心配顔だ。
「彼、ミツイさんとお酒、勝負、言ってます。」張さんが言う。
そして好々爺は抱えていた透明の液体の入ったボトルを取り出した。う、白酒だ。アルコール50度以上、前に中国に旅行した時、よく火をつけて遊んだものだ。こいつ.....。
しかし僕と「好々爺」の勝負はいつの間にか始まっていた。お互いに酒杯を高く掲げるとそれを一気に飲み干す。間に少し料理をつまむ、そうしていると好々
爺がまたこちらを向いてにこりと酒杯を掲げる。五杯目を飲んだあたりからまわりの声が遠くで聞こえるようになってきた。くそ、こんなじじいに負けてたまる
か。日本人をなめるなよ!気合いだ、気合いがお前らとは違うんだよ。すでに僕の背中には日の丸がついていた。
どれだけ時間が過ぎたろう。目の前には空になった白酒の瓶が2本横になっていた。
「さあ、帰るぞ。」”胃の弱いはず”だった老監理マンの声が遠くから聞こえた。席から立ち上がった。好々爺と握手した時、部屋の壁がまわり始めた。
僕は倒れた。椅子の足を眺めながら僕は意識を失っていった。
「う、ここはどこだ。」うん、見覚えがある。僕のホテルの部屋だ。どうしたんだ。のどがカラカラだ。頭が鉛を詰め込んだようだ。関節がきしむ。そうだ。僕は倒れて意識を失ったんだ。「やばい、財布は!」しかしなんと財布と僕の荷物はきちんとベッドの脇に置かれていた。
「う、冷たい。」なんと股間がびしょ濡れだ。汗?いや違う。ななな、なんとこれは!!! 小学校2年の時、幼稚園以来の寝ションベンのふとんを母親に通りから見える窓に干されて以来の屈辱が.....。しばらくショックで呆然としていた。
「いや何時だ。え、12時!外が明るいってことは、ひえー、なんてこった!」宴会が7時から始まったから10時に終わったとしても14時間も意識を失って
いたのか。えらいこちゃないか。ほんとに一歩間違えば急性アルコール中毒で上司に骨を拾いに来てもらう羽目だったぞ。しゃれにならないじゃないか。
「くそ、最低の気分だぜ。お、ベッドは濡れてないじゃないか。いや待てよ、ということはおれはすぐに漏らしたのか。」ということは、「まさか、皆んな、
俺が失禁したことを知っているのか!いやまさか。」とにかく遅刻だ、シャワーを浴びながらジーンズとパンツを洗った。我ながらかなり情けない姿である。
死ぬ思いで現場についた。通訳の張さんがいた。「ミツイさん、大丈夫ですか。だから私、お酒大丈夫か聞きました。」
おい、あんなアルコールのかたまりみたいな酒をリーサルウエポンみたいなじじいと飲みくらべるなんて誰が思うかよ。だから皆、ジュースだったんだな。俺もこんなことになるなんて知ってたら桃ジュース飲んでたよ!
「あの人、そう馬さん、お酒、強いんでとても有名です、この現場、中国人300人くらいいるけどたぶん一番ですね。」
頼むよ、それを先に言ってくれ張さん。死ぬとこだったじゃないか。酒暦20年間、完璧に意識を失ったのは始めてだ。
「昨晩、あれから李さん、王さん、徳さんと私でミツイさんかついでホテルに運びました。」
「え、坂巻さんは?」老監理マンについて尋ねる。
「坂巻さんは部屋すぐに帰りました。今朝日本に向いました。ミツイさんによろしく、言ってました。」
くそ!あの男!俺は死ぬとこだったんだぞ。しかしもう後の祭りだ。僕は割れそうな頭を抱えると建物の中へ入っていった。
中国人の職人達に挨拶する。おや、皆、いつにない笑顔だ。そうか。早速、昨日のことが噂になったのか。いや、待てよ、この上目つかいの意味ありげな笑顔
は....。まさか!しかし会う奴、会う奴同じような意味ありげな笑顔だ。う、好々爺だ。なんと奴まで同じ、上目つかいの笑顔だ!し、し、知っている。奴
らは僕が失禁したことも知っているのだ。ななな、なんてこった。
そそくさと現場をチェックしゼネコンの事務所に向う。
「申し訳ありませんでした。遅くなりました。」そういって入ると、ななな、何とここでも某大手ゼネコンの日本人たちが上目つかい、含み笑いの笑顔。笑顔は世界の共通語というが、言葉、民族はちがってもまったく同じ笑顔じゃないか。こいつらも し、し、知っている!
中国での経験豊富な所長が口を開いた。「いやー、ミツイ君、昨日10時くらいに飲みに誘おうと思って電話したんだが、電話にでた君は訳わからない事、話
してたんでこりゃやられたな、と思って電話切ったんだ。あの酒は腰がぬけるんだよ。下半身の力が全て抜けるんだ。気にするな。 あれはこの国では洗礼のよ
うなもんだよ。誰しも1回は経験するんだ。今日はもう帰って休みなさい。」
まったく最低だぜ。北京のどんよりとした空にもまして心の中は真、グレー。う、もう今日は早く横になって眠りたい。フロントで鍵を受け取り部屋に急ぐ。
ハウスキーピングのいつもあいそのないおばちゃんが廊下にいた。うん?今日はめずらしく笑顔だぞ。いや、それは上目つかいの例の。
おい、おばちゃん、おまえもかよ!