【2008年8月~9月】タクシン逃亡とPDAの煽動、サマックの退場
北
京オリンピックの開会式の為に出国したタクシン夫妻だったが、8月10日、帰国予定のTG便に搭乗していないことが判明。タクシン氏とポチャマン夫人には
脱税や収賄などの嫌疑があり、ポチャマンには7月に有罪判決が出ていた。最高裁判断で出国許可は出ていたものの、ポチャマンの荷物の多さや空港での子供ら
との涙の別れなどからマスコミ報道で逃亡の恐れが指摘されていた。サマック政権はそれを否定していた。11日に最高裁への出頭が命じられていたが、タクシ
ンも有罪の可能性が高いと判断し逃亡に踏み切った。
11日、タクシンは逃亡先の英国で会見を開き「自分を政治的に抹殺しようとする勢力が司法に介入している」「暗殺の危険がある」と釈明した。最高裁は夫妻に逮捕状を発行する。
こ
れを受けて、反タクシン派のPDA(民主主義市民連合)は英国大使館前での大規模な抗議行動に出る。19日、バンコクの中心部にある伊勢丹などがあるラ
チャダムリのセントラルワールドプラザ前から英国大使館までのデモ行進を決行。英国大使館前でタクシンを受け入れた英国への抗議行動を行う。
26
日、PDAは内閣総辞職を要求して大規模な反政府集会を決行する。首相官邸前で官邸を封鎖し、政府機能の麻痺を狙う。デモ隊は他にも財務省や運輸省なども
封鎖。また政府系の放送局であるNBTに突入して放送を遮断した。この日から大規模化、過激化したデモは日本や海外のメディアでも大きく取り上げ始める。
抗議活動はさらに拡大して、28日に国鉄労組職員のサボタージュによる運行停止。29日には南部プーケットっやハジャイの空港封鎖という事態に至る。30日、ホアヒンで療養中のプミポン国王の元にサマック首相とアヌポン陸軍司令官が謁見。
9
月1日から、タクシン派で政府系のUDD(反独裁民主主義同盟)が首相官邸前のPDAに対抗して、サナームルアン(王宮前広場)から官邸近くへと集会場所
を移動する。2日未明にはPDAとUDDはついに激突する。多くの負傷、そして死者も出る。警察はUDDがPDAの集会への近づくことを放置していたとい
う指摘も出る。ここに来てアヌポン司令官の指示により軍が初めて介入。激突は沈静化をたどる。この衝突を受けてサマック首相は国家非常事態宣言を発令。ア
ヌポン陸軍司令官を治安責任者に指名。アヌポン司令官も受諾。バンコク首都圏での5人以上の集会や反政府的な報道に対して規制が行われるようになる。
UDDは活動拠点をバンコク首都圏からバンコク都下へ移す。しかし、PDAは徹底抗戦をかかげて首相官邸の占拠を継続する。治安維持責任者で軍のトップで
あるアヌポン司令官はこれを実力排除しない意向を表明。事態は膠着する。
9
日、かねてより首相就任後にTVの料理番組に出演したサマック首相の副業疑惑(憲法での首相の副業禁止)に対する判決が最高裁で違憲判断として下る。これ
により、サマックはあっけなく首相を失職。タクシンの妹婿のソムチャイ副首相兼教育相が暫定首相として政権運営。当初与党はPPP(国民の力党)はサマッ
クの再擁立を掲げたが、PPP内部(北部閥と東北閥)の対立により一本化できず。
12
日、首班指名会議はPPP内部の造反と連立相手の与党の欠席で不成立。連立与党からも再任の指示に難色を示されたサマックは、再指名を辞退する意思を表明
する。14日、国家非常事態宣言が解除される。軍が積極的に動かなかったことにより非常事態宣言は目に見える効果をあげることなサマックの失職決定と共に
終結する。これを受けタクシン派のUDDはPDA打倒の為に首都圏での再結集を始める。15日、閣僚ポストなどの取引でソムチャイ派はPPPをどうにかソ
ムチャイ指示でまとめる。
17
日、下院本会議で連立6党の支持でソムチャイ首相が誕生。しかし、PDAはタクシンの義弟であるソムチャイに対して反発を強め、PPP選出の首相は受け入
れない方針を確認。これに対し、副首相に指名されたチャワリット元首相(軍出身の大物)は自らがPDAとの交渉責任者になる意志があることを表明。PDA
のリーダーのひとりである、チャムロン元バンコク都知事もチャワリット副首相の呼びかけに応じる姿勢を示す(ふたりとも軍部出身)。
【2008年10月】ソムチャイ対話路線の破綻
10
月1日、ソムチャイ首相がプレム枢密院議長(PDAの黒幕と噂される)を訪れる。事態の収拾にむけて方策を模索。5日、バンコク都知事選。投票の為に占拠
中の首相官邸を出て、投票したチャムロン元バンコク都知事を投票所で逮捕。先に逮捕されているチャイワット元工業相(チャムロンの子飼)を含め2名の
PDA幹部2名の逮捕。強硬姿勢だったサマックとは異なり、対話重視で望もうとしたソムチャイだったがこれによりPDAも対決姿勢を明確にする。
6
日、翌日に予定されている首相の施政方針演説を阻止する為に国会包囲を実施しようとする。これを警察は催涙弾を使い、強制排除。7日も騒乱は続き、議事堂
を包囲して、議員、閣僚を閉じ込めた形のデモ隊に対し、警察は催涙弾以外の武器も使用し排除。怪我人には足が吹き飛ぶ重傷者も多数。爆発を含め死者2名、
怪我人400名以上の大惨事となる。デモ隊側も拳銃や刃物で武装したものもおり、警官にも重傷者多数。これによりPDAと政府の関係は修復不可能な状態に
なる。
9日には逮捕拘留されていたチャムロン、チャイワットを保釈。10日、裁判所の国家反逆罪の適用を避ける決定を受けて残り7人も出頭。
日にはカンボジア国境にある遺跡カオプラビハハーン(カンボジア名プレアビヒア)周辺でのカンボジア軍との戦闘が始まる。春から散発的にこぜりあいがあったが死傷者が発生、緊迫を増す。政府はカンボジア内のタイ人に出国を勧告する。
20日はセントラルワールドプラザ近辺でPDAがデモを行う。大きな混乱はなく終了。21日にタクシンについに禁固2年の実刑判決が最高裁で下る。30日にはタクシンの有罪判決を受けて、PADは英国大使館前でタクシン夫妻の身柄引き渡しを要求する大規模デモを行う。
【2008年11月~】決戦の前の暗闘、戦略家チャムロンの勝利
11
月1日、実質、PPPの広報番組が主催するイベントにタクシンが電話出演。集会参加者は赤シャツのタクシン支持者。タクシンは改めて06年のクーデターを
非難し、暗にそのシナリオを書いたプレム枢密院議長を批判。参加者は混乱もなく散会。6日、PADはタイ航空本社前で、PPP議員に対して搭乗拒否をした
機長の処分撤回を求める抗議を行う。8日、英国政府はタクシン夫妻に対しての査証の剥奪と英国便への搭乗拒否を決定。これによりタクシンの英国亡命はなく
なる。この日官邸のPDAに対して手榴弾が投げ込まれ負傷者が出る。
15
日、ガラヤニ王女の葬儀が行われる。20日まで喪に服す。この日、タクシン夫妻の離婚が報道される。ポチャマン夫人による資産保全という話も。20日、
PDAが占拠する首相官邸で爆発事件。20人以上の怪我人と死者1名の惨事。ガラヤニ王女の服喪期間が明けての戦闘が再開。22日、官邸で再度の爆発。
24
日、国会で行われる両院合同会議を阻止する為に、PDAが国会へ集結。議長は開会を断念する。25日、デモ隊は26日の閣議を阻止する為に、閣議が行われ
る予定の国軍本部へと移動。デモ隊の一部はペルーでのソムチャイ首相の帰国阻止を掲げてスワンナプーム国際空港へとさらに移動。夜半には数千人規模に膨れ
上がり、空港への道路封鎖、ターミナルビルへの侵入を行う。これにより出発便の運休が出始める。ソムチャイ首相は帰国を延期。
26
日、未明から空港機能は完全に麻痺。ターミナルでは手榴弾が爆発するなどのUDDの攻撃があり。スワンナプームのデモ隊はついに万単位。臨時首相府のある
ドムアン空港も占拠が完了し、首都の空はPDAに完全制圧された形になる。ソムチャイ首相はスワンナプームへの着陸を断念し、チェンマイへの到着。この
日、アヌポン司令官は「私なら辞任している」と首相の辞任を即す発言をTVで行う。それに対して首相は辞職も下院解散も行わないと表明。AOT(タイ国営
空港会社)は29日21時までの空港閉鎖延長を決定。
27
日昼、国会の審議がなんとか始まるが野党民主党議員の空港閉鎖の打開策として解散・総選挙の提案で紛糾。途中閉会する。夕、民事裁判所がPDAに対して、
空港から退去するように仮処分決定。夜、首相はTVでの特別放送で、スワンナプーム・ドムアンの両空港に限定し、国家非常事態宣言を発令する旨を宣言。
28日、事態は膠着。警察本部は裁判所決定にもとづき、PDAに解散を命じるがPDAは無視。
29日、警察は空港への道路封鎖を試みて、兵糧攻め(補給を絶つ)を画策するが連合自警団(元軍人などで組織)の抵抗を受けて断念。夜、スワンナプームではカーゴターミナルを確保しようとした警察をPDA自警団が排除。
30
日、午前、ドムアン空港、首相官邸で爆弾により負傷者。今回の非常事態宣言の治安責任者であるコーウィット内務大臣宅に向けてPDAはデモ開始。夕、コー
ウィット内務大臣宅を包囲して抗議活動。夜、UDDはPDAの今回の行動と軍部のクーデターの封じ込めを目的にバンコク都庁舎前で1万人規模を動員しての
集会。巣あんなプームでは連合が客を乗せないことを条件にスアンナプームで動けなくなっていたタイ国際航空、バンコクエアウエイズ、全日空、エアアジアな
どの88機を順次、他空港に移動させることを合意。移動を開始する。
12
月1日、空港は引き続き閉鎖、膠着状態。旅客便の一部は東部パタヤ近郊の軍民共用空港のウタバオ空港から臨時便で出国。ウタバオでの処理能力には限界があ
り、混乱状況。市内では全日空がドゥシタニ、タイ国際空港がシリキットコンベンションセンターなど市内で搭乗手続きを始める。この間、AOTは随時、空港
閉鎖の延長を決定。PDAリーダーのチャムロンは首相官邸での度重なる爆弾などによりデモ参加者の安全確保が困難になったとしてスワンナプーム・ドムアン
への移動を指示。
2
日、午前、法裁判所での現政権党であるPPPなどの与党三党の選挙違反による解党審理に向けてUDDが裁判所を包囲。裁判所は最終弁論を行政裁判所に変
更。これを受けUDDは行政裁判所に移動。政府は15日からチェンマイで開催予定だったASEAN首脳会議を来年3月に15日に延期決定。昼、行政裁判所
で行われた、与党3党の選挙違反による解党審理は有罪でPPPは解党、首相の失職も決定。これに対しタクシン派が反発を強める。PPPはこの事態を予測し
てプアタイ党を準備してある。前回のタイラックタイ党の解党と同じパターンが繰り返される見込み。これによりPPP(パランプラチャートチョン)は消滅す
る。新政権の発足まで副首相の茶話ラットが首相代行。夕、PDAはAOTの申し出を受けて空港再開に向けて検討に入る。PDA幹部のソンティーはソムチャ
イ退陣を受けて勝利宣言、空港の開放を宣言。これを受けてPDAのデモ隊は両空港から撤退を始める。UDDは都庁前の座り込みを継続。AOTは空港の保守
点検などを理由に運行再開は15日以降と発表。
3
日、貨物便の運行はすでに再開、旅客便も一部運行再開。多くの旅客が残されていることからの抗議、圧力を受けて空港再開は早まる見通し。政局は8日に首班
指名に入る予定。PPPの後継政党のプアタイ党より首班指名が行われる公算。首班指名に向けては旧PPP党内部の北部派、東北部派の主導権争いや反タクシ
ン勢力の抵抗も予想される。
今
回もまた長くなってしまった。前回の時点ではこの政局が権力闘争だという日本の報道はほとんどなかった。ここに来て、ちらほらと背景を報道し始めている。
ただ、昨日の裁判決定がPDAのデモによる判断とするのは早計だし、これにより事態が収束に向かうという見方も短絡的である。
前
回のサマックに対する憲法違反判断も異例の早さで結審。PPP(国民の力党)の前進、タクシンの政党であったタイラックタイ(タイ愛国党)が同じ選挙違反
で解党、幹部の公民権が5年停止された経緯がある。暫定かも知れないが、8日以降に首班指名を行い(選挙管理内閣の可能性あり)下院解散しても、東北部、
北部ではタクシン派が勝利するだろう。今回の空港選挙などでPDAも首都圏で指示を失いつつあるように思う。受け皿の民主党が政権を奪取できるのだろう
か。
PDAはプレム政権時のように下院の任命制復活を要求して、再度活動するのではないだろうか。そうしない限りはタクシン派の跋扈は防げない。解党と選挙に向けてPPPは周到に地方へのバラマキ戦術を展開してきた。
タ
クシン派が抱える不安はタクシンの妹でソムチャイの妻である”ヤオワパー”とブリラム派で東北部をまとめるネウィンの主導権争い。ヤオワパーはタイラック
タイで公民権停止中の元下院議員の女傑。イメージ的には田中真紀子だ。ソムチャイが田中直紀か。ヤオワパーは竹下になる。今後は闇将軍タクシンがいかに旧
権力、プレムの影響力の強い司法と戦いながら、復権を画策できるかだろう。
今
回の騒動をみるとPDAには元陸軍特殊部隊司令官、稀代のアジテーターで戦略家であるチャムロンの勝利だ。チャムロンは活動が下火になると、自ら覚悟の逮
捕を演出して油をそそぎPDAの指揮を高め、司法判断により国王誕生日前のソムチャイ政権を睨み、落としどころを予測して、中立を保つ軍、アヌポンと
PPPの関係を冷やした。今後は選挙と憲法改正に向かっての綱引きが行われるだろう。冬きたらば春遠からじ。タイの春はいつ来るだろう。