こんばんは。
当ブログにお越しいただきありがとうございます。
ナカヤ カズヒロと申します。
現在、大阪と奈良にて易占業を営みつつ、タオと陰陽五行の研究に親しんでおります。
どうぞよろしくお願いします。
今日は、自分との関係がそのまま周りに反映されるのはなぜ?についてお話いたします。
自分との関係がそのまま周りに反映されるのはなぜかというと、人は自分と繋がるようにしか世界とも繋がることができないっていうことがあります。
人は誰もが自分の当たり前を持っています。
その当たり前っていうのは、ちっちゃい子供の頃から始まって、大人になるに従って、徐々に徐々に固まっていきます。
大体、小学3年生ぐらいに良いと悪いがはっきり分かったりし出すように思います。頭が固まるのは24,5歳くらいでしょうか。頭が柔らかい人は柔らかいスタイルが固定されますね。人によってもちろん違いますけれども。
世間の当たり前っていうものもありまして、例えば私、昭和の人間ですので、昭和の終わり頃までは、生の魚を食べる習慣があるのは、世界の中でもほぼ日本人だけだったんですよね。
昭和の終わり頃というのは、1980年代ですよね。
映画でいうと、バック・トゥザ・フューチャーとか、ゴースト・バスターズとかが公開されていた頃ですよね。
当時は、日本人以外生の魚なんて食べないっていうのが世界の当たり前というか、常識、スタンダードやったんですよね。
1980年代、85年か86年辺やと思うんですけれども、アメリカの握り寿司のイメージは、見た目が生魚感のマックスなんですよね。
そのまま生魚が乗っていますので、グロいっていう風に思われてたみたいですよね。
で、カリフォルニアロールといって、マグロとアボカドを一緒にしてクレープみたいな巻き寿司にして食べられ始めてて、ちょうどテレビとかでも話題になっていましたよね。
お寿司にアボカドなんて信じられへん、ましてやクレープみたいな三角錐やし、そんな寿司は有り?無し?みたいな感じで、当時、私は学生やったんで、学校とかでも盛り上がったりしていましたね。
お寿司にアボカドは、日本の常識からちょっと外れていて、寿司職人は思いつくこともなかったわけですよね。
巻き寿司も、細巻きか太巻きが常識でした。巻き寿司なのに「巻きすだれ」も使わないなんて!という感じです。
ちょうどその頃、回転寿司屋さんがそれを取り入れて店に出してた時代で、カリフォルニアロール的なアボカドの軍艦巻きとかが出ていたように思います。当時は回転寿司そのものが物珍しい、色物的な感じでしたよね。
そこで出されるものも、当然、色物感が強い感じで受け止められていたように思います。
当時、スタンダードなお寿司屋さんに出かけて食べるのはお父さんぐらいで、大体はお客さんとか親戚が家に来るから近所のお寿司屋さんから出前を頼もう、みたいなのがほとんどで、それがお寿司屋さんの当たり前やったように思います。
もちろん、高級なお寿司屋さんはちょっと特別感が違うんですけれども、大体、家の近くのお寿司屋さんはそんな感じでしたよね。
生の魚のお話に戻りますと、80年代は日本以外では生の魚を食べないっていうのが、世界の常識っていうお話でしたよね。こういう常識も面白いのが冷凍技術とか、輸送の技術とかが発達してくるのとも合わさって、変わってくるんですよね。
だから、生の魚とか、黒くて臭くて、そんなものをアジアの島国で喜んで食べてるらしいで、みたいな常識から、いやいや、どうも生の魚も刺身にしたら、めちゃめちゃ美味しいらしいぞと。
あそこの寿司ショップで食べられているらしいけど、もう食べた?みたいな感じで、君の知っているカリフォルニアロールだけじゃないぞ、みたいな感じで、アメリカでブームが起きて、そこから徐々に世界中で生の魚も食べられるようになっていくんですよね。
そんな感じで、刺身とかお寿司以外でも同じように、個人の当たり前と世間の当たり前が、時代と共に徐々に徐々に、気づけばすっかり変わっていたりするわけですよね。
出前の寿司屋さんも激減していると思うんですよ。
今は多くの人にとって、回転寿司の方が寿司屋のスタンダードになりつつあると思います。
この「当たり前」っていう考えも、自分との関係ですよね。
自分の中に「当たり前」って存在していますよね。
簡単に言いますと、「当たり前」を持った自分がいるわけです。
そのため、そういう自分でしか周りを見れないわけですよね。 なかなか切り離せないです1つの呪(しゅう)ですよね。
ということで、今日は、自分との関係がそのまま周りに反映されるのはなぜ?についてお話しさせていただきました。
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本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
また明日お会いしましょう。