よくあるご依頼の中で ご自分を不幸・不快、または単純に嫌いな相手に対し、どうにかなる(悪い意味で)ようにという趣旨の願い事をお受けします。
その方からすると、自分を不幸にする相手への憎しみ、そこまで行かなくても 何かしら罰が当たれ! 的な 自分が主とならず 相手を貶めることで 気持ちがスッキリするという 人間の持つ 闇の部分の深層心理が垣間見れる事がございます。
そのような祈願は、正しい神仏には届き難く ある種の呪いのような祈願になってしまいます。ですから 相手が貶められることで 自分が満足するという 自分が主体となっていない願文は 添削させて頂きます。
これが 明らかに虐待されているとか 不当にイジメや嫌がらせをしてくる相手であれば、また違った対応になるわけですが、一方の主観的な判断による 調伏的な願い事はお勧めできませんし、お受けできません・・・というよりその方への反動が怖いからです。
自分以外の誰かによって 自分が不幸になっている それさえも自分の宿業の一部分であるという仏教の観点からは、現在の状況を謙虚に受け止め、受け入れ、善処するというスタンスが望ましいというか 結果的に解決までにかかる時間が早くなるように思っています。
例えば 多いのが パートナーの裏切り行為、特にご主人の浮気の相談ですが、浮気する張本人が悪いのは当然ですが、神仏にその解決を願うのであれば、張本人が悪いのだから 「罰をお願いします」とか「痛い目に合わせて下さい」が本音だとしましても、神仏から見れば 双方の過去現在未来を見通しての判断になりますので、一概に願いを叶えられない場合もございます。
むしろ相手 この場合 ご主人に罰が当たれではなく、ご自身の幸せになるのが一番なのですから、その為には もしかしたら離れた方が将来的に幸福かもしれませんし、この時は 怒りを抑え 自己の足りないところを省みたり、宿業として受け入れ許したり等、自分自身の霊性が上がる事で 良い結果に落ち着くことも多くございます。
あえて 相手がどうにかなれと 祈らなくても 正しく神仏とコンタクトが取れ、霊性が上がっていくような祈願をしていますと、相手に非があるのであれば 勝手に矯正されたり、罰が当たったかのような境遇になったりするケースが多いように思われます。
相手の不幸を望むかのような 祈願をすることで 自分の霊性を落とすのはもったいないと言えます。そのような事で自分の積み上げた 善行を使い徳を減らすより 一段上の世界から俯瞰し 「相手が早く 自分の過ちに気づき 幸せになりますように。」 と神仏に願う方が届きやすく、結果的に良い方向に進みます。おまけに自分の徳も減らさずに すべてが円満になりやすいのです。
自分を不幸や不快にする相手に対して そんな神様 仏様のようには思えませんよ!となるのが普通ではあります・・・が、相手に対して 嫌いと思うのも、悔しい・憎いと思っている間は その呪縛によって ずっと心は縛られていることになります。本来 早く忘れて 縁切りした方が 自分の為にもずっと良いのです。
以上の事は、考える思うだけでは なかなか難しい事柄です。
人は頭では分かっていても 苦しい時は苦しいからです。
そのような時は、写経や印佛にその想いを すべて託し、その自分の分身である 用紙を すべて水に流す、すべて燃やしてしまう すると不思議なことに いつの間にか 心のわだかまりが除かれ自然に忘れる、気にならなくなる といった心持になれる方が多いのです。
ぜひ 機会がございましたら お試しください^^