ストック本からの1冊。
先日読んだ「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」の姉妹編で姉(?)の方です。
持っていることすら忘れていました・・・いつもながら。
そしてこれは村上春樹の初翻訳本でもあります。
6作品中先日読んだ野崎訳の短編集と重なるのが「氷の宮殿」と「失われた3時間」
(野崎訳では「乗り換えまでの3時間」)の2編で、これは初読の時にも
強い印象を残した作品でした。紹介者としてはまず拾い上げたい作品なのかも。
このところ、カポーティとフィッツジェラルドを何作か続けて読んできましたが
どちらにも「自伝的」と言われる作品で、ある特定の時期について繰り返し
書かれたものが大変に多いのです。
彼らにとってこの時代がなかったら、小説家になりえたのか??
小説家になったから、この時代を書くということなのか??
・・・とニワトリとタマゴ、どちらが先か?みたいな疑問が浮かびます。
カポーティはそれでも、アラバマ時代の作品にはその時期や人々との
離別への哀しみだけでなく、そこでの幸福感も十分感じられて、
読んでいる私たちも少しの胸の痛みともにそれ以上の満足感を得ることができる。
でもフィッツジェラルドの場合は、成功して手に入れたもの、馬鹿騒ぎ、
散財の果ての転落を描いたものがほとんどです。
主人公たちの環境やそもそものものの考え方自体になじめない、
共感しづらい部分があることが大きいかもしれないですね。
あと、どこかしら主人公たちに対してエゴイスティックなものを
感じてしまうというのも私の場合はかなり大きいと思います。
「残り火」の読後感はもとても良かったし、「氷の宮殿」の
サリー・キャサリンの2面性などは同じ女性としてわりと共感できる部分もあって
好きな作品のひとつではありますし、救いもあるような気がするのですが。
読後に少しWIKIPEDIAで作品年表を見てみたら、フィッツジェラルドの
この「成功と没落・喪失」を描いた作品は、作家として成功する以前、
あるいはその成功のさなかの作品にも存在していました。
体質?というか考え方のクセみたいなものなのでしょうか。
彼の作品を続けて読んでいると、しばらくはもういいや・・・という
気持ちに正直なってしまいます。
無力感と言うかな・・・切ないとかそういう次元ではないものが残されるので。
カポーティのアラバマものを読んだあとに感じる温かみみたいなものは一切なし。
ただ、村上春樹も書いているようになぜか後になって、また読んでみようと
言う気が起きてくる不思議な作家でもあります。
あ、やはり皆そうなのかとちょっとその文章読んで安心してしまったりして。
好きな作家かと問われたら、そうでもないけどなぜか読んでしまうと
答えると思います。(グレートギャツビーは好きだけど)
ところで村上春樹のこの翻訳文ですが、1981年上梓されたようで
かなり古いものです。
村上春樹の翻訳を読んでいると、彼のオリジナル作品なのか?と
みまごうような春樹色あふれる作品になることが多いのですが
今回はあまりそれを感じなかった。
皆無とは申しませんが、まだ翻訳スタイルが確立されていない
ように思いました。
当時はまだ長編2作目を書き終えたあたりで、短編だと「カンガルー日和」に
収録されている作品たちがそれぞれ発表されたころのようです。
だから、ご本人の小説そのものはある程度春樹トーンが出来上がっては
いたと思うのですが、翻訳はやはりオリジナルに引きずられるような
ところがあったのでしょうか。おもしろいです。
今回、この本ではフィッツジェラルドの短編を紹介する前に
「フィッツジェラルド体験」というタイトルの春樹エッセイが
掲載されています。
いつもながら、何かを、それも好きなものを解説するときの
村上春樹の文章はとても好きです・・・が、やはり今の文章に
比べるとずいぶん若いな、ということは感じますね。
この文章の中でフィッツジェラルドが自分に小説との
向き合い方を教えてくれたとありましたが、
私はその村上春樹の作品を読むようになってから
あの方の文学に対する姿勢に心打たれ、本の読み方も
ずいぶん変わったように思います。
まったく縁もゆかりも日常的にも時代的にも持ちあえるはずのない
作家たちから受ける影響って、想像以上に深く大きいものですね。
肉体は滅びても、作品は死なず・・・そしてほかの国の見ず知らずの
人間を何度も何人も感動させる・・・すばらしいことですね。
マイ・ロスト・シティー―フィッツジェラルド作品集 (1981年)/中央公論社

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