佐藤亮一(絶版)・村上春樹訳に続く、3冊目の翻訳版で、
今回はアメリカ文学の翻訳で定評のある野崎孝さんによるもの。
村上版もとても良かったけど、これもまた大変良かった。
翻訳の視点ゆえなのか、私の現在の心境ゆえなのかは不明ですが
ニックにかなり感情移入してしまった。
映画の影響もあったし、佐藤亮一訳を読んだ際にも、私はニックを
語り部としか認識していなかったのですが、冒頭部、彼が父親にかつて
言われたことをギャツビーと出会ってからも持ち続けていたことが、
それが最終部のギャツビーの死で自ら変えていったことで
ニックの成長という面に目が行きました。
ニックの観点というのがとにかく今回は自分にしっくりきた感じ。
でもいつも思うのですが、この作品の舞台当時のアメリカはまだ
建国から200年も満たないわけです。
なのに既に、天地ほどの差がある大きな階級差が存在していることに驚きます。
とはいえ階級なんて、僅か1日もあれば、いや、ほんの数時間でも
出来上がるものとも思いますし、特に精神的な階級差なんて、
ものの数分で勝負が決まってしまうものでしょうけれど。
長い歴史がないことゆえに却って生まれるこだわりなのかも、などと思います。
ディズィは自分の娘を「きれいで馬鹿な子に育てる」と言っていて、
これは彼女自身が自分は頭が良いからあれこれ考えたりしてダメなのよ、
何も考えずにいられるならその方がシアワセ、って思ってのことだと
私は思っていますが、ディズィは必要十分条件ちゃんと備えていますよね。
マダム・ディズィ、ご心配なく・・・と言って差し上げたいですわ。
でも、このお金で満ち溢れた世界に生まれ育ったのは彼女の責任ではないし、
この世界でしか生きられない彼女だからこそ、魅力的と思う人達も存在するわけですし。
そういうディズィを含め、それぞれの登場人物がそれぞれに持つ価値観や
自分ではどうにもならない苦悩やらなにやらについての、向き合い方や
処理の仕方に共感したり、嫌悪したり・・・でした。
一見孤独に見えるギャツビーですが、でも彼の見ていたものも
ディズィ以外には何もなかったのだから、孤独ではなかったのかな。
ニックの淡々とした憤りもまた、よくわかるけど。
「ひとえに風の前の塵に同じ」な~んて言葉が頭をよぎる
ちょっとやりきれなさが残る読後感でした。
公開中の映画、どうなんでしょう?
やっぱり見てみたいですね。
ディカプリオ主演に伴い変更したらしいけど、私のカバーは
レッドフォード版です。
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