スペイン 29 | MARIA MANIATICA

MARIA MANIATICA

ASI ES LA VIDA.

1989年1月30日 



Maria maniatica



八ヶ岳は初めて私が数日かけて縦走した山。

年賀状代わりに頂いた先生からの絵葉書。


Queridos amigos;


お元気ですか?私は毎日死ぬほど忙しいです。

あの手紙好きの私がこんなに長いこと書いていないのだから

想像できるでしょう。

2月2日が試験なのでそれがすんだらゆっくり書きます。

あ、それからお金が手に入ったのでやはりサラマンカに残ります。

ごめんね、皆さん。手紙続けてください。

ダリが死んで雑誌・新聞は大騒ぎです。特にABCは大特集です。



Maria maniatica


スペインを代表する画家の一人、Salvador Dali。

なくなったときはデスマスクが新聞に載ったりでびっくりしました。

新聞のABCは右翼系で、ダリもそっち系だったらしい。

私は結構好きですね。チュッパチャプスのデザインもダリですよ!

SALVADORとは「救世主」の意味。メシアですね!

中米のエル・サルバドールという国名も、その意味を知ると

なかなか面白くありませんか

クラスは毎日接続法です。クラスで一番できません。

というか、単語力ですね。

この単語が接続法を引き連れるかどうかがわからないんだもん。

COMPUESTOもよくわからない。

クラスのみんながこれを勉強している頃、私はクラス替えに

いそしんでいたもので。

でも接続法はパズルみたいで面白い。(使えるかは別)

もう1回2Aやれば少しは使えるかな?


今日、Uさんから電話がありました。

昨日までNさんが来ていたそうです。いいですね。

なぜ私を誘ってくれなかったの~? 悲しいよ・・。


でもこの電話で、皆が1月4日に先生が撮った写真の年賀状を

け取ったことがわかりました。



昨日、家から電話があり妹がva a casarse(結婚する予定)なのです。 

、ど~しよう。風あたりがますます強くなりそうだ・・・では、また。

 
なんとかもう1か月過ごせることになりうれしかった頃。
でも何も覚えてない。

当時としては、いいお年だった私は妹の結婚が先に決まって、

帰国後の両親からの責め苦?を想像するだけで

恐怖におののいていたに違いありません。

覚えているのは「死刑」と「皇室・王国の制度」について話し合ったこと。
面白いなと思ったのは、死刑制度のある国、天皇や王様のいる国の学生は

みんなその制度は必要だと言い、そういうものが一切ない国の学生は

存続に大反対だったということです。
みんな知らず知らず、国民性というものが刷り込まれているのだなと

つくづく思いました。

そしてこれは多分、放課後受けていたコンベルサシオンの授業でのことだと

思いますが、オランダ人の男性で、コンピュータの多分プログラマーだった方と

話したことも忘れがたいこと。

まだ当時は誰もが使いこなせるものではなかっただけに、

私は大変興味深くあれこれ質問してました。
私は「コンピュータが何でもしてくれるようになったら人間は退化してしまうのでは

ないですか?」などと聞いてしまった。

その人は「絶対にあり得ない」とちょっとお怒り気味で答えてくれましたけど、
今、たとえば漢字を読めても書けなくなっている自分を思うとやっぱり、

退化してないか~?などと思ってしまうのでした。


この1989年は私の手紙を見るだけでも、日本では天皇崩御で元号が変わり、

スペインではダリが亡くなった。

そしてもう少し先の11月にはベルリンの壁が崩壊している。

今思えば、歴史的に大きな出来事がいくつかあった年だったのですね。


まだ続きますよ・・・。