最近、TVで某女優(かなりベテランのひと)のインタビュー観てて思ったことなんですが、
そのひとの発言の中で、要するに、
「映画に於ける『良い演技』というのは、観客に『台本がある』ということを忘れさせる演技である」
ということを言っていて、
あー、なるほどー、と思いました。
そのひとがどういう意図でそういう発言したかは必ずしも明らかではないのですが、
(単なる演技のテクニック論として、そういうことを言っていたに過ぎないのかもしれませんが…)
たしかに面白い映画は、台本があるということを忘れさせるかもなー、と思いました。
そういうのを、まさに「映画に引き込まれる」、といいますか。
映画は、作り物っぽく感じてしまったり、ふと集中切らされてしまったりすると、
観てる側としてはそこでお終いというか、現実に帰ってしまいます。
あー、映画が終わったあと何を食おうかなー、なんて考えだしたりとか。
「台本の存在を感じさせない」という意味では、日本映画じゃない方がよいのかも。
英語とかフランス語だったら、ほぼワケが分かりませんから、
言葉の意味は基本的に字幕で理解するしかない。
(それプラス、表情だったり声の抑揚だったりは感じ取れますが)
外国語だと、言葉それ自体の「台本っぽさ」は感じようがない。
(音楽もそうですね。やはり洋楽だとかインストとかの方が…)
むしろ良い映画は、観てる最中、それが映画であることすら忘れさせる気がします。
矛盾なようですが、観てる側に映画を感じさせないことが、もっとも映画らしいことなのかもって気がします。
映画に限らず、文学・芸術全般そうなのかも。
映画だ、音楽だ、美術だと色々あり、
それプロパーな面白さ、楽しみ方は勿論あるのでしょうが、
同時に、コアなところの芸術性は、
その枠組み・形式を通り越してしまった向こう側にあるのではなかろうか、という気がしました。
(無茶苦茶に観念的なこと言ってますが…汗)
映画だ、音楽だ、美術だというのは、
むしろ芸術性の「感じ方」あるいは「感じさせ方」の方法の選択に過ぎないといいますか。
五感のどれで感じるかの違いに過ぎないといいますか。
そういう意味で、
映画において、「台本を感じさせない」というのは、
「演技っぽくない」とか「作り物っぽくない」とか「自然」がどうのっていうのではなく、
まさに作品が芸術のコア部分に肉薄している、という表れかなー、と。
表現の「中身」っていうと、
今までは文章だったり、音だったり、映像だったりを想定していたのですが、
やはり、それらは、単なる形式というか、器かもしれん、と。
本質は、もう少し奥にあるかと。
文学・芸術における表現つーのは、そういうものなのかもな、と。
(なんか混迷してきた…汗)