再起を図る甲陽鎮撫隊は丹後の渡しから江戸川を渡って流山に入りました。
甲陽鎮撫隊は酒造家・長岡家を本陣としました。そして甲陽鎮撫隊は光明院や流山寺を分宿地としました。
「賊軍が流山に集結している」という情報は甲陽鎮撫隊が流山に入ったその日のうちに江戸から宇都宮に移動中の東山道軍総督府大軍監の香川敬三のもとに届きました。香川敬三は粕壁から4小隊を率いて流山へ急行しました。
新政府軍は甲陽鎮撫隊の本陣周辺を包囲すると、薩摩藩士の有馬藤太は本陣に現れて尋問しました。
このとき近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名乗り、官軍に対抗する勢力ではなく、あくまで地域の治安秩序を守るための集団と、敵方を欺きました。
有馬藤太は武器弾薬を差し出すように要求し、近藤勇は恭順してその準備のための猶予を求めました。
近藤勇はもはやこれまでと観念し、切腹を覚悟しました。ここでの死は犬死であると土方歳三に説得されました。
近藤勇は大久保大和の名でひとり出頭し、身元を知られずに釈放される可能性があり、この場を切り抜けようとしました。
土方歳三は近藤勇が官軍に連行されるとすぐに勝海舟を訪れ、近藤勇の救出を依頼しました。
しかし、新政府軍の中に元新選組隊士で御陵衛士だった加納鷲雄がおり、大久保大和の正体が近藤勇であることを看破されました。そして近藤勇は板橋刑場で斬首されました。
10代の頃から盟友だった近藤勇と土方歳三。
流山が離別の地となりました。