髄(ずい)
骨の中心部分だ。
食べる事はほとんど無いだろう。
骨をカチ割って、骨ごとスープの出汁にすることなんかはあるけどね。福岡の豚骨ラーメンのスープとか、そうじゃなかったかな?
また、文章で比喩的に使われることもあるね。
「あいつは骨の髄から腐ってる」
とか
「骨の髄まで寒さが堪える」
とか
「骨の髄まで愛してる」
とか
「骨の髄までしゃぶられる」
とか。
あ!
「シャブ」の語源は「骨の髄までしゃぶられる」から来てるという説もあるね。その味を覚えるとそこまでのめり込んでしまうって事だね。みんな気をつけろ!
そんで最近読んだ本に載ってた話を一つ。
「鳥を喰うなら骨を喰わなければ嘘だ
この髄を齧み当てた時の風味は
何物にも代えられない
君ももっと骨を喰いたまえ」
と云って
又ぱりぱりと
脛のようなところを
噛み砕いた
内田百間
「百鬼園随筆」
間抜けの実在に関する文献
より引用
これ読んで
あー!
と腑に落ちるところがあり、今日書いてるわけなのさ。なので、これは過去には書いてない話になる(多分)。本当のフレッシュな話だ。
それは何かと言うとね、日々の心がけについて。
これ、自分で思いついたわけではなく、後輩(女性)から教わったと言うか学んだ事なんですね。
心がけてなんて殊勝なことを書いても、実のところはまだまだ足りていないとは思う。でも何も考えてないよりマシじゃん?
で、何を心がけるのかと言うと、人と相対する時にその人の髄まで見るようにしていて、それも髄を探すだけではなく、そこから良い味を抽出したいのよ。まるで豚骨ラーメンのスープの仕込みのようにね。
後輩から学んだのは20年くらい前のある日のこと。何かの雑談をしていた時に、恐らく俺が共通の知人の誰かの悪口か陰口でも言ったのだろう。その子は俺にこう言い放った。
「私は嫌いな人なんていない」
と。
その心は?と問えば、人を隅々まで見ればいいところが必ずあるから、そこを見出してその人を味わえば人を嫌いになんかなれないと。
それと被るのが前出の「髄」の随筆なんですよ。他人の良いところを髄に準えて解釈すると味わい深い。
そして、後輩の余りにもポジティブな思想に大変な感銘を受けた俺は、その日からその子の真似を開始。すると不思議なことに、人に対する好き嫌いがなくなっていくもんなんだよ。
だって良いところしか見てないんだもの。嫌いになりようが無いよね。
恥ずかしながら、おっさんになってからの話ですけどねw
なお、その子とは今も仲が良い。もうしばらく会ってないけど、たまに会っても毎日会っているかのように普通に仲良く接することができる。もっとも女性としていやらしい目で見る事は無いし、その子と俺も含む何人かの仲良しグループ皆で仲良いんだけどね。
何はともあれ、その子の話を聞いて以来、そうして生きてきて、今は俺もその子と同じ「嫌いな人はいない」。だけど、俺の修行が足りないせいなのか軽蔑の対象になる人ってのがいるのよ。しかし、そう言う人に限って社会的地位が高かったりするけどね。尊敬は無い。嫌いではないけどね。
いつだったか、その子にその話をしたら、ゲラゲラ笑いながらこう言ってた。
「正直、私にもいるwww」
と。
俺と同じで、つまらないことで義理を欠くやつとか己の利益のために仲間まで貶める人は軽蔑の対象みたい。嫌いとは別なベクトルの話。
おっと。
話がだいぶ逸れたな。
とにかく、人は、他人の髄まで見に行くと色んなことを知れて本当に人生が豊かになるし、人付き合いも楽になる。人間関係の悩みなんて無くなるんじゃないか?
そして、人を見た時に、他人の髄まで見に行かない人は当然の如く上辺だけで人を判断したり、偏見の塊だし、そもそも当の本人が薄っぺらい人生を送ってることが多い。
こう言う人はなぜか他人の価値観も認めないし、とにかく他人に対して当たりがキツイ。自分がそんな人にはなりたくないし、世の中の人もこうなってほしくない。
なので、あなたも骨までバリバリ食う勢いで、人を髄まで味わってみませんか?その人の色んなものが見えると思いますよ。特に良いところがね。そして、知らなかったことを知る機会も多くなる。人生、少しは幸せになるぜ?
前出の随筆にも書いてるじゃん。
髄を齧み当てた時の風味は
何物にも代えられない
ってね。