レイテ島へ | ドSなブログ

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基本アホなことしか書きませんな。真面目なことを書いた時は発熱してるはずです。

レイテ島。
第二次世界大戦における激戦地の一つで、日本だけでも約8万人もの戦死者を出した場所だ。もちろん交戦での戦死者も多いが、飢餓で餓死者も続出したと聞いた。

また、レイテ島の覇権争いでレイテ沖海戦という大きな海戦も起きるほど、日米双方が重要な拠点と認識していた島だ。かのマッカーサーが上陸したのも、ここレイテ島。

フィリピンのセブ島在住時、一度は行ってみたかったのだが、なかなかタイミングが合わずに行けずじまいで、そのまま帰国してしまった。思い出す度に悔やんでいたな~。しかし今回、再度セブ島に渡航することになり、レイテ島に行くことを決意した次第だ。

なぜ行きたかったか?
慰霊だ。戦没者の。
そして、今のレイテを見てみたい。

俺はどちらかと言えば右寄りの思想ではあるが、完全な右、つまり右翼ではない。しかし、左右どちらを向いていようと、どんな信仰であろうと、祖国、つまり日本の為に戦地に赴いて、そして死した英霊たちを敬うことは、純粋な日本人なら当然だと思っている。

彼らが武器を手に取り戦ったことで、結局は敗戦したといえ、今の日本が有るんだ。あそこで立ち上がらなかったら、今頃日本はどうなっていたかわからない。公用語が英語だったかもしれないな。

もっとも、開戦に至る経緯は諸説有ってどれが事実か俺には分からない。アメリカが国威発揚の為に日本が武器を持つように仕向けたという説もあるが、どの説が真実であろうと、彼らは国の為に戦い、そして死んでいった。その事実は絶対に変わらない。

さて、セブ島からレイテ島に行くには二通り。
飛行機→タクロバン
高速船→オルモック

セブ島から空港に行くのは、実はなかなか大変だ。そこで今回は船でオルモックに上陸するプランを選択。オルモックは、日本陸軍が物資や人員の揚陸拠点とした都市で、日本軍とは縁がある街なので、行く意味は見出だせた。

オルモック行きの船の出航は朝5時過ぎ。まだ暗いうちにセブ港を出る。気持ちが昂ぶってしまい全く寝れないまま港へ。徹夜で最悪のコンディションでの旅行を余儀なくされる。



オルモックに到着したのは8時前頃。まだ早い時間だ。タクシーでの移動を基本に考えていたのだが、まずは交通機関がどんな具合が探ると、タクシーが一台も存在しないという驚愕の事実が俺を待ち受けていた。



ここからタクロバンに向かうならバスもあるが、近隣の移動手段はジプニーとトライシクルに限られ、また、市街地も想像より相当小さい。私が生まれ育った田舎町より小さいかも知れない。果たして、こんな所に痕跡はあるのか?



まだ時間も早いし、腹も減ったので、まずは市街地をウロウロしてメシを探す。フィリピンではお馴染みのJolibeeをここにも発見。他にはローカルの怪しい屋台しか無い。その時間で俺でも食べれる店はJolibee一択。まあ、好きな店なので問題ないが。



第二次世界大戦の痕跡(慰霊碑等)を求めて、狭い市街地を徒歩で何周しただろうか。行く前にネットで調べたところ、いくつかの戦没者慰霊碑と、市街地戦などで被弾したままの建物が有るらしい。ただ、詳細な場所はどこを調べても出ていないので、行き当たりばったりで探すのみ。

しかし、徒歩で周っていても、せいぜい屋台を発見するだけで、どこにも何一つ見つからない。



捜索範囲を広げるために、トライシクルの運ちゃんに交渉して、トライシクルを1台チャーターする。1時間ほど市内を案内してもらって200ペソの契約。安すぎる。



運ちゃんに
「第二次世界大戦の慰霊碑を探してる」
と英語で言うと、まず俺の英語が通じない。そんなに変な発音ではないはずだが、レイテでは通じない。簡単な英語なら話せるのに、ここだけ筆談する羽目に。

ようやく通じ、彼の返答は
「そんなもの知らん。タクロバンまで行けばマッカーサーの上陸地点に、マッカーサーの銅像が有るけどな。」
だと。

俺は日本軍の慰霊に来たので、マッカーサーは不要だ。日本人としては、むしろ見たくもない。

その後、市内をウロウロしてもらうも、何も見つからず、唯一、ここは荷揚げ場所だったらしいぜ、という場所に案内してもらう。その揚陸地点が、果たして日本軍のだったのか米軍のだったのか、それは未だに謎だ。



その後、運ちゃんがあちこち連れてってくれて、なかなか愉快な旅ではありました。



慰霊らしい慰霊はできなかったが、行くことで多少の供養になったかな、と思っています。自己満足?



特に何が有るわけではないけど、また行ってもいいかな、海が真っ青で綺麗なレイテ島。