木曽 甲斐 房総 動き出す | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


注意●ネタバレあり
◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
『吾妻鏡』を読み進めます
治承4年(1180)9月のつづきです

木曽義仲〈青木崇高〉


9月7日
木曽冠者義仲は
帯刀先生(東宮警備隊長)源義賢の次男です
義賢は久寿2年(1155)8月
武蔵国 大倉の館で
鎌倉悪源太義平に討たれました
その時 義仲は3歳で 乳母父の中原兼遠が
懐に抱いて 信濃国木曽に逃げ 養育しました

成人になった今、武士の血をひいていて
平家を征し源氏を再興したい想いがあります
頼朝が石橋山で合戦を始めたと遠く聞き
すぐに加わりたいと思いました

さて、平家方の小笠原頼直がいます
今日 兵を集め 木曽義仲襲撃を思い立ちました
義仲の味方 村山義直と栗田寺別当大法師範覚ら
この事を聞き市原で出会い 戦となりました
合戦の途中で日が暮れました
義直は矢が無くなり 戦えなくなり
飛脚を義仲の陣におくり それを伝えました
木曽義仲は大軍を率いて駆けつけ
頼直はその威勢を恐れ 逃げてしまい
城長茂の軍に加わるため越後国へ赴きます
*Wikipediaによると
市原合戦、善光寺裏合戦と呼ばれるみたい



北条時政〈坂東彌十郎〉

9月8日
北条時政は使いとして甲斐国へ出発しました
甲斐国の源氏を引き連れて信濃国に至り
従う輩は一緒になり 驕れる平家は殺してしまえ
という(頼朝からの)厳命を受けているのです


藤九郎盛長〈野添義弘〉


9月9日
盛長が千葉より帰ってきました
千葉常胤館の門前で案内を請うと
待たされることなく客間に招かれました
常胤と、子息の胤正と胤頼がいました
盛長の話を聞いているけれども
しばらく発言せず 眠っているかのようでした
二人の子息は異口同音に言います
「頼朝さまが、眠れる虎が目覚めるが如く
狼のような平家を鎮圧しようとしています
事の最初に我が家に召されたというのに
何を躊躇しているのでしょうか
早く了解の手紙を献じましょう」
常胤いわく「心中さらに異議なし
源氏の途絶えていた権勢を興そうとの御心に
感動の涙があふれ 言葉にならないのだよ」
酒が振舞われた席で
「今の居場所は要害の地でもなく
先祖の謂れもありません
速やかに相模国の鎌倉に出向くべき
常胤が頼朝さまをお迎えに参ります」



武田信義〈八嶋智人〉


9月10日
甲斐国の源氏、武田信義、一條忠頼は
石橋の事を聞き頼朝を尋ね駿河国に向かいます
しかし平氏方が信濃国にいるので
まずはそちらに向かいました
昨夜 諏訪神社上宮庵澤のあたりに泊まると
深夜になって女が一條忠頼の陣に来ました
「私は大祝篤光の妻 夫の使者として来ました
夫の夢想に 梶葉紋の直垂を着て葦毛の馬に乗る
勇士が一騎 源氏の味方と称し 西へ向かいました
これは偏に諏訪明神の御威光です
何で頼みにならんことがありましょうか」
忠頼は諏訪信者 太刀と腹巻を女に与えました
お告げに従いすぐに出陣し
平氏方菅冠者の伊那郡大田切郷の城を襲撃
冠者は館に火を放ち自殺してしまいました
諏訪明神のおかげ 田園を上下社に寄付し
武衛(頼朝)に報告することにしました
執筆人を召し寄進状を書かせます
上宮分は当国の平出、宮所の二郷
下宮分は龍市の一郷 それなのに
筆者が誤って岡仁谷郷を書き加えてしまいました
再三書き改めても両郷を載せるのです
これは上下宮に差別があってはならぬという
神の思し召し 改めて信心したそうです


源頼朝〈大泉洋〉


9月11日
武衛(頼朝)は安房国丸御厨を巡見しました
丸信俊が案内しました
この場所は 頼朝のご先祖
豫州禅門・源頼義さまが
東夷を平らげた昔(前九年の役)
初めて朝廷からもらった所です
また、左典厩・源義朝さま(頼朝の父)が
父親の廷尉禅門・源為義さまから
譲渡された最初の地でもあります
頼朝さまの昇進を祈り
平治元年(1159)6月1日
伊勢神宮に寄進したので
同月28日に蔵人に任命されました
こうして今、懐旧の余りここに立つと
20年の昔を思い涙が流れます
御厨にした場所は必ず神の御加護にあいます
宿望に障碍なければ当国内に新しい御厨を立て
重ねて神に寄付すると御願書を捧げました

9月12日
頼朝は田を洲崎宮に寄進されました
寄進状を今日送りました

千葉常胤〈岡本信人〉


9月13日
安房国を出て上総国へ赴きます
従った兵は300騎に達します
上総広常は軍士を集めるため遅れるとのこと
千葉常胤は親類と一緒に来ようとしましたが
息子の胤頼が進言しました
「この国の目代は平家方の人です
我が一族が悉く国境を出て向かえば
必ずや攻め込んできます
先ずこれを殺しておきましょう」
常胤は早く行って討ち滅ぼせと命令しました
胤頼と甥の成胤、郎従とともに襲撃
目代(紀李経)は 数十の兵で防戦
時に北風が強く吹くので、成胤は
家屋に火を放ち燃やしてしまいます
胤頼が目代の首を獲りました

9月14日
下総国千田庄の領家判官代(現地管理者)
親政(ちかまさ)は平忠盛の聟(むこ)です
平相国禅閤(清盛)に志を通じています
目代が殺されたのを聞き
軍兵を率いて常胤を襲ってきました
常胤の孫の小太郎成胤はこれと戦い
ついに親政を捕虜にしました

9月15日
武田信義と一條忠頼は
信濃国中の凶徒を討ち破り
昨夜 甲斐国に帰り 逸見山に宿りました
今日 北条時政がそこに到着
伝言の趣旨を彼らに話しました

9月17日
広常の参入を待たずして
下総国へ向かいました
千葉介常胤、子息太郎胤正、
次郎師常(相馬と号す)、三郎胤成(武石)、
四郎胤信(大須賀)、五郎胤道(國分)、
六郎胤頼(東)、嫡孫小太郎成胤らを連れ
下総国府(市川市国府台)に参会します
従軍は300余騎におよびます
頼朝は常胤を脇に呼び寄せて
「常胤を父とも思っている」と仰います
常胤は一人の若い侍を
「今日の贈り物です」と差し出しました
「陸奥義隆の子で毛利頼隆と号します」
紺村濃の鎧直垂を着け 
小具足を加え跪きます
その雰囲気を見て
たしかに源氏の血筋と感じ
すぐに常胤の隣に呼び寄せました
彼の父の義隆は
平治元年12月
比叡山竜華峠において
僧兵の落人狩に攻められ
源義朝の身代わりとなって
命を捧げました
その時 頼隆は生後50余日
永暦元年(1160)下総国に流罪
常胤に預けられたとのことです